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11時40分のアルデンテ 〜味覚は心のエッセンス〜  作者: 双鶴


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第4話 「焦りの渦と、呼吸のリゾット」

11時40分。


アンビシャス出版の編集部は、昼前の静けさに包まれていたが、

営業担当の大庭の机の周りだけは、落ち着きがなかった。


「……やばい。今月の広告、あと2枠埋まってない……」


大庭はスマホを握りしめ、

取引先からの未返信のメッセージを何度も確認していた。


明るく振る舞うのが彼の癖だが、

数字に追われると、胸の奥がすぐにざわつく。


「大庭さん、大丈夫ですか?」


若手編集の湊が声をかけたが、

大庭は笑ってごまかした。


「だいじょーぶ、だいじょーぶ。ちょっと焦ってるだけ!」


だが、その笑顔は明らかに引きつっていた。


その時だった。


編集部の奥から、

“トトト……トト……”と米が鍋の中で踊るような音が聞こえた。


「……黒瀬さん?」


大庭の胸のざわつきが、

その音にほんの少しだけ吸い寄せられた。


「大庭くん、ちょっと来て」


社長の佐伯が声をかけた。


キッチンに入ると、

専属シェフの黒瀬が、

深い鍋の中で米をゆっくりと木べらで回していた。


バターが溶ける甘い香りと、

炒めた玉ねぎの柔らかい香りが混ざり合い、

空気がふわりと温かくなる。


「……何作ってるんですか?」


大庭が尋ねると、黒瀬は答えた。


「焦りに飲まれた人のための、

 “呼吸のリゾット”だよ」


鍋の中では、

透明だった米がバターを吸い、

少しずつ白く、丸く、柔らかく変わっていく。


黒瀬はそこに、

温めたブイヨンをひとすくい加えた。


“ジュワッ”


米が一斉に息を吸うように音を立て、

蒸気がふわりと立ち上る。


その蒸気には、

鶏の旨み、野菜の甘み、

そしてバターの香りが層になって混ざり、

大庭の胸のざわつきを少しずつ溶かしていく。


「……これ、リゾット?」


「そう。だけど、ただのリゾットじゃない」


黒瀬は鍋をゆっくりと回し、

米が“呼吸するように”ブイヨンを吸っては吐き、

吸っては吐き……を繰り返す。


「焦っている時、人は呼吸が浅くなる。

 だから、まず“呼吸する料理”を食べるんだ」


やがてリゾットがとろりと仕上がり、

黒瀬は皿に盛りつけた。


表面はクリームのように滑らかで、

米の粒がふっくらと膨らみ、

湯気がゆらゆらと立ち上っている。


「食べてごらん」


大庭はスプーンを口に運んだ。


――とろり。


最初のひと口で、

米の柔らかさとブイヨンの旨みが舌の上に広がり、

そのすぐ後ろから、

バターの甘い香りがふわりと追いかけてきた。


米は芯がわずかに残り、

噛むたびに“ぷちっ”と小さく弾け、

そのたびに旨みがじゅわりと溢れ出す。


飲み込む直前、

ほんの少し加えられた黒胡椒が、

味全体をきゅっと締め、

喉の奥に温かい余韻を残した。


「……はぁ……」


大庭は思わず深く息を吐いた。


胸の奥にあった焦りの渦が、

リゾットの温度でゆっくりとほどけていく。


黒瀬は静かに言った。


「焦りはね、呼吸を奪う。

 でも、温かいものをゆっくり食べると、

 呼吸は自然と戻ってくる」


大庭は皿を見つめた。


「……呼吸、か」


「そう。

 数字に追われると、

 自分のペースを忘れてしまう。

 でも、リゾットみたいに、

 “ひとすくいずつ”でいいんだよ」


編集部に戻ると、

さっきまで胸を締めつけていた数字が、

少しだけ“現実的な課題”に見えた。


「……ひとすくいずつ、か」


大庭は深呼吸をし、

取引先に電話をかけた。


――焦りは、温度でほどける。


そう思えたのは、

あの“呼吸のリゾット”のおかげだった。


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