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11時40分のアルデンテ 〜味覚は心のエッセンス〜  作者: 双鶴


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第3話 「正しさの檻と、揺らぎのスープ」

11時40分。


アンビシャス出版の編集部は、昼前の静けさに包まれていたが、

校閲担当の霧島の周囲だけは、空気が張りつめていた。


「……この表現は曖昧すぎる。意味が二通りに取れる」


霧島は原稿に赤を入れながら、眉間に深い皺を刻んでいた。


文芸誌PWの特集原稿。

作家の文章は美しいが、論理的には穴が多い。


「これじゃ読者が誤解する……いや、誤解“し得る”……」


霧島は自分の思考に飲み込まれ、

気づけば呼吸が浅くなっていた。


「霧島さん、大丈夫ですか?」


若手編集の湊が声をかけたが、

霧島は返事をせず、ただ小さく首を振った。


その時だった。


編集部の奥から、

“コト……コト……”と鍋が揺れる音が聞こえた。


「……また黒瀬さんか」


霧島はため息をついたが、

その音に、心のどこかがわずかに反応した。


「霧島くん、ちょっと来て」


社長の佐伯が声をかけた。


キッチンに入ると、

専属シェフの黒瀬が、

小さな鍋を弱火で揺らしていた。


白い蒸気がふわりと立ち上り、

その中に、玉ねぎの甘い香りと、

バターの柔らかい香りが混ざり合って漂っていた。


「……何を作っているんですか」


霧島が尋ねると、黒瀬は静かに答えた。


「正しさに疲れた人のための、

 “揺らぎのスープ”だよ」


鍋の中には、

薄くスライスされた玉ねぎが透き通るほど煮込まれ、

バターと少量の塩で味が整えられていた。


黒瀬はそこに、

温めたミルクをゆっくりと注いだ。


ミルクが鍋に触れた瞬間、

“ふわっ”と甘い香りが立ち上り、

玉ねぎの香りと溶け合って、

空気が一気に柔らかくなった。


「……これは、オニオンスープ?」


「そう。だけど、ただのオニオンスープじゃない」


黒瀬は鍋をひと混ぜし、

白いスープを霧島の前に差し出した。


表面には、

玉ねぎの細い繊維がゆらゆらと漂い、

ミルクの光沢が柔らかく反射している。


「飲んでごらん」


霧島はスプーンを口に運んだ。


――とろり。


最初のひと口で、

玉ねぎの甘さが舌の上にふわりと広がり、

そのすぐ後ろから、

ミルクの柔らかいコクが追いかけてきた。


温度は熱すぎず、

舌に触れた瞬間に“ほぐれる”ような温かさ。


飲み込む直前、

ほんの少しだけ加えられた塩が、

味全体をきゅっと締め、

喉の奥に優しい余韻を残した。


「……なんだ、これ……」


霧島は思わず目を閉じた。


噛む必要のないスープなのに、

味が何層にも変化し、

そのたびに心の緊張がほどけていく。


飲み込んだ後、

口の中に残ったミルクの甘い香りが、

呼吸をゆっくりにしてくれた。


黒瀬は静かに言った。


「正しさだけで生きているとね、

 心が固まってしまう。

 でも、人間は“揺らぎ”があるから優しくなれるんだよ」


霧島はスープを見つめた。


「……揺らぎ、ですか」


「そう。

 玉ねぎだって、均一に切られていないほうが、

 スープに深みが出る。

 人間も同じだよ」


霧島の胸の奥で、

固く閉じていた何かが、

ゆっくりとほどけていくのを感じた。


編集部に戻ると、

さっきまで“誤り”にしか見えなかった文章が、

少しだけ“味わい”に見えた。


「……揺らぎ、か」


霧島は赤ペンを置き、

深く息を吸った。


――正しさだけが、言葉じゃない。


そう思えたのは、

あの“揺らぎのスープ”のおかげだった。


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