第2話 「美しさの沼と、塩のひとつまみ」
11時40分。
アンビシャス出版の編集部は、昼前の静けさに包まれていたが、
デザイナーの結城の机の周りだけは、異様な緊張感が漂っていた。
文芸誌PWの次号の表紙デザインが、どうしても決まらない。
「……違う。これじゃない」
結城はモニターを睨みつけ、何度もレイアウトを組み直しては崩し、
また組み直しては崩し……を繰り返していた。
美しさを追い求めるほど、
自分の感覚が信じられなくなる。
「結城さん、大丈夫?」
若手編集の湊が声をかけたが、
結城は返事もせず、ただ小さく首を振った。
その時だった。
編集部の奥から、
“パチパチッ”と油が跳ねる音が聞こえた。
「……また黒瀬さんだ」
結城はため息をついたが、
その音に、心のどこかがわずかに反応した。
「結城さん、ちょっと来て」
社長の佐伯が声をかけた。
キッチンに入ると、
専属シェフの黒瀬が、フライパンの上で何かを揺らしていた。
白い蒸気がふわりと立ち上り、
その中に、レモンの皮を削ったような爽やかな香りと、
バターの甘い香りが混ざり合って漂っていた。
「……何を作ってるんですか」
結城が尋ねると、黒瀬は静かに答えた。
「美しさに疲れた人のための、
“塩のひとつまみ”だよ」
フライパンの中には、
薄くスライスされたじゃがいもが重なり合っていた。
バターでじっくり焼かれ、
縁がほんのりと金色に染まり、
中心はまだ白く、柔らかい。
黒瀬はそこに、
指先でつまんだ“塩”をひとつまみ、
高い位置からふわりと落とした。
塩の粒が光を受けてきらりと輝き、
じゃがいもの表面に散らばる。
その瞬間、
バターの甘い香りに、
塩の鋭い香りが混ざり、
空気が一気に引き締まった。
「……これ、ポテト?」
「そう。だけど、ただのポテトじゃない」
黒瀬は皿に盛りつけ、結城の前に差し出した。
薄いじゃがいもが重なり合い、
バターの光沢が表面を覆い、
塩の粒が宝石のように散っている。
「食べてごらん」
結城はフォークで一枚すくい、口に運んだ。
――サクッ。
最初のひとかじりで、
縁の薄い部分が軽やかに砕け、
香ばしさが鼻に抜けた。
次の瞬間、
中心の柔らかい部分が舌の上でゆっくりとほどけ、
バターの甘さがじんわりと広がる。
その甘さのすぐ後ろから、
塩の鋭い刺激が追いかけてきて、
味全体をきゅっと引き締めた。
「……っ」
結城は思わず息を呑んだ。
噛むたびに、
甘さ → 塩気 → 甘さ → 塩気
と、味が波のように押し寄せ、
そのたびに心の奥のざわつきが削られていく。
飲み込んだ後、
唇の端に残った塩の粒が、
ほんの少しだけ舌に触れ、
もう一口を誘うように刺激を残した。
「……なんで、こんなに……」
黒瀬は静かに言った。
「美しさを追い求めるとね、
人は“甘さ”ばかりを足そうとする。
でも、本当に必要なのは、
たったひとつまみの“塩”なんだよ」
結城は皿を見つめた。
「……塩、ですか」
「そう。
甘さを引き立てるのも、
味を締めるのも、
余白を作るのも、
全部“塩”の役目だ」
黒瀬は結城の目を見て言った。
「デザインも同じだよ。
足すんじゃなくて、
“締める”んだ」
結城の胸の奥で、
何かが静かにほどけていくのを感じた。
編集部に戻ると、
さっきまで濁って見えたレイアウトが、
少しだけクリアに見えた。
「……塩、か」
結城は新しいデザインを開き、
余白をひとつ削り、
線をひとつ締めた。
その瞬間、
画面の中の世界が、
すっと整った。
――美しさは、足し算じゃない。
そう思えたのは、
あの“塩のひとつまみ”のおかげだった。




