第1話 「バターの音は、心の序章」
11時40分。
アンビシャス出版の編集部は、昼前の静けさと、
締切前のざわつきが奇妙に混ざり合っていた。
文芸誌『The Power in Words(PW)』を作るこの小さな編集部には、
社員が6人しかいない。
だが、奥の小さなキッチンには、なぜか“専属シェフ”がいる。
若手編集の湊は、机に突っ伏しそうな勢いでため息をついた。
企画会議でまたもやアイデアが通らなかったのだ。
「……俺、向いてないのかな」
呟いた声は、紙の山に吸い込まれて消えた。
その時だった。
編集部の奥から、かすかな“ジュウウ…”という音が聞こえた。
バターが鉄板に触れて溶ける音だ。
その低く甘い響きは、湊の胸の奥にまで染み込むようだった。
「湊くん、ちょっと来て」
社長の佐伯が呼んだ。
声は穏やかだが、逆らえない不思議な力がある。
キッチンに入ると、専属シェフの黒瀬が、
フライパンを傾けながらバターをゆっくり揺らしていた。
バターはみるみるうちに液体の金色となり、
細かな泡を立てながら、ナッツのような香りをふわりと立ち上らせる。
焦がしバターの甘さ、ミルクの柔らかさ、鉄板の熱が生むわずかな苦み。
それらが層になって湊の鼻腔を満たし、喉の奥が勝手に動きそうになる。
黒瀬は厚切りのパンをそっと置いた。
触れた瞬間、パンの水分がバターを吸い上げ、
“ジュッ”と小さく鳴って、表面に細かな泡が一斉に広がった。
パンの縁がゆっくりと飴色に変わり、
バターが染み込んだ部分が、まるで琥珀のように光を反射する。
「……これ、香りだけで腹が鳴りそうだ」
湊が呟くと、黒瀬は微笑んだ。
「香りは、心の準備運動だからね」
皿に置かれたトーストは、
表面が薄いガラスのようにパリッと固まり、
中心はまだ湯気を含んだ柔らかさを保っていた。
「今日の君には、これだ」
黒瀬が皿を差し出した。
湊はそっとかじった。
――カリッ。
最初のひとかじりで、焼き目の香ばしさが“音”として耳に届き、
同時に、焦がしバターの甘い香りが鼻に抜けた。
次の瞬間、
熱でとろけたバターが舌の上にじゅわりと広がり、
小麦の甘みと混ざり合って、
まるで温かい波のように口内を満たしていく。
中心の生地はふんわりと柔らかく、
噛むたびに、バターが染み込んだ部分が“じゅっ”と音を立てるように溶け、
舌の上で甘さと塩気が交互に顔を出す。
飲み込む直前、
ほんのりとした塩気が喉の奥をくすぐり、
飲み込んだ後には、
唇の端に残ったバターの温度が
“もう一口”を誘うようにじんわりと残った。
湊は思わず目を閉じた。
胸の奥にあったざらつきが、
バターの甘さでゆっくりと溶けていく。
「……うまい、なんてもんじゃない……」
黒瀬はフライパンを洗いながら、静かに言った。
「心が固まっている時はね、
まず、温度でほぐすんだよ。
味覚は、心のアルデンテだから」
編集部に戻ると、
さっきまで重かった空気が少し軽く感じた。
机に向かい、湊は新しいページを開いた。
バターの香りが、まだ胸の奥に残っている。
――言葉は、きっとまた動き出す。
そう思えたのは、あの一皿のおかげだった。




