第3話:崩壊の足音
シャンデリアの光が、磨き上げられた大理石の床に反射し、ホール全体が黄金色の輝きに包まれていた。
オーケストラが奏でるワルツの旋律に合わせ、絹擦れの音と貴族たちの話し声が混ざり合う。
バルトン子爵邸の大広間は、今宵、王都で最も華やかで、そして最も「危うい」場所となっていた。
「まあ、なんて素晴らしいの! ベアトリス様、その首飾り!」
「『幻のサファイア』ですわね? 噂には聞いておりましたが、これほどとは……」
扇子で口元を隠した貴婦人たちが、媚びを含んだ声で義母を取り囲む。
その中心で、義母ベアトリスは女王のように胸を張り、恍惚の表情を浮かべていた。
深紅のドレスに身を包んだ彼女の首元には、あのサファイアが冷たく、そして妖しく鎮座している。その青い輝きは、まるで周囲の空気を凍てつかせるかのような威圧感を放っていた。
「オホホ! ありがとう。主人が遺してくれた財産の一部を整理しましてね。バルトン家の新たな門出に相応しいと思い、手に入れたのよ」
義母は高らかに笑った。その笑顔には、一点の曇りもない。
彼女は信じているのだ。この夜会が、バルトン家の復権を告げる祝砲であり、自分こそが王都の社交界の華であると。
その資金が、法外な利息がついた借金であり、返済期限が「今日の日没」であることなど、記憶の彼方に追いやっているに違いない。
私はホールの壁際に立ち、給仕に指示を出しながら、その光景を静かに見つめていた。
今夜の私は、あくまで「黒子」だ。
地味な紺色のドレスを着て、目立たないように振る舞っている。しかし、私の視線は会場の隅々まで行き届いていた。
招待客のリストには、私が意図的に選んだ人物が含まれている。
王都でも特に口の軽い男爵夫人、ゴシップ記事を書いている新聞記者、そしてバルトン家に融資を断った銀行の頭取たち。
彼らは「お祝い」に来たのではない。
「あの没落寸前のバルトン家が、どうしてこんな豪遊ができるのか?」という好奇心と、破滅の予兆を嗅ぎつけて集まったハイエナたちだ。
「あら、エリーゼ。気が利かないわね。シャンパンが空いているお客様がいらっしゃるじゃない」
義姉のクララが、ダンスのパートナーを探す合間に私のもとへ来て、不機嫌そうに言った。
彼女もまた、新しいピンク色のドレスを着て、過剰な宝石で身を飾っている。まるで飾り付けすぎたクリスマスツリーのようだ。
「申し訳ありません、お義姉様。すぐに手配いたします」
「まったく。あなたがいると空気が湿気るのよ。せっかくの夜会なんだから、少しは華やかに笑えないの?」
「……私の笑顔など、皆様の美しさを損ねるだけですから」
「ふん、自覚があるならいいわ。せいぜい裏方として働きなさい。それがあなたの唯一の存在価値なんだから」
クララは鼻で笑い、再び人の輪の中へと戻っていった。
私は彼女の背中を見送りながら、無表情のまま心の中で呟いた。
ええ、笑いますよ。
もう少ししたら、一生分笑わせていただきますわ。
時計の針を見る。
午後八時。
外はすでに暗い。
契約書に記された返済期限である「日没」は、とっくに過ぎている。
「エリーゼ、ちょっと」
夫のテオドールが、人混みを避けるようにして近づいてきた。彼は燕尾服を着ているが、その着こなしはどこかだらしなく、居心地が悪そうだ。
「どうなさいましたか、テオドール様」
「いや……母さんが張り切りすぎていて、怖いんだ。この夜会の費用、本当に大丈夫なのかい? 宝石商への支払いも、まだなんだろう?」
「お義母様は『何とかなる』と仰っていましたわ。テオドール様も、お義母様の夢を壊したくないと仰っていたではありませんか」
「そ、そうだけど……。でも、なんだか胸騒ぎがするんだ」
テオドールは神経質そうに周囲を見渡した。
さすがに彼も、招待客たちの視線に含まれる嘲笑の色に気づき始めているのかもしれない。
「バルトン家はもう終わりらしいぞ」「あのサファイア、偽物じゃないか?」「いや、闇金に手を出したという噂だ」……。
音楽に紛れて囁かれる悪意ある噂話。
それを広めたのは、他ならぬ私だ。
「大丈夫ですわ、あなた。すべては、あるべき場所に落ち着きますから」
私は優しく微笑んで見せた。
その言葉の意味を、彼が理解することはなかった。
その時だった。
ドーン、という重い音が響き渡り、ホールの巨大な扉が乱暴に開かれた。
優雅なワルツが一瞬にして不協和音となり、やがて完全に止まった。
ざわめきが静まり返り、全員の視線が入り口に集中する。
そこ立っていたのは、燕尾服を着た紳士ではない。
黒いスーツを着た数人の男たちと、その後ろに控える屈強な男たち。
先頭に立つのは、冷徹な目をした眼鏡の男――私の腹心、セバスチャンが変装した姿ではなく、私が雇った「債権回収専門」の弁護士、グレイ氏だ。
彼の後ろには、王都の治安維持局の制服を着た男もいる。これは、この執行が「合法的」であることを証明するための布石だ。
「な、何ですの!? 無礼な!」
義母ベアトリスが叫んだ。音楽を止められた怒りで、その顔は紅潮している。
「どこのどなたか存じませんが、今は夜会の最中ですのよ! 即刻立ち去りなさい!」
「バルトン子爵夫人、ベアトリス様ですね」
グレイ氏は義母の剣幕にも動じず、冷静に歩を進めた。彼が歩くたびに、客たちがモーゼの海割りのように左右に避けていく。
「いかにもよ! 私を誰だと思って……」
「我々は、債権の回収に参りました」
その一言が、ホールに氷水をぶちまけたように響き渡った。
静寂。
誰もが息を飲む音さえ聞こえてきそうだ。
「さ……債権、ですって?」
義母の声が裏返った。
「馬鹿なことを言わないでちょうだい! 支払いは来月の予定よ!」
「いいえ。契約書をご確認ください」
グレイ氏は懐から一枚の書類を取り出し、義母の目の前に突きつけた。
それは、義母がろくに読みもせずにサインした、あの契約書の写しだ。
「本日、日没をもって返済期限となっております。入金が確認されませんでしたので、契約条項に基づき、担保権の実行――すなわち、全財産の差し押さえを執行いたします」
「は……? 日没? そんなの聞いていないわ!」
「書いてあります。ここに、明確に」
グレイ氏が指差した箇所には、確かに「即日融資・期限は契約日より三十日後の日没まで」と記されている。そして今日は、その三十日目だ。
私がカレンダーを細工したわけではない。単に、義母が今日の日付と、契約した日付をあやふやに記憶していただけだ。彼女にとって、都合の悪い数字は脳内で自動的に書き換えられるのだから。
「詐欺よ! こんなの無効だわ!」
「貴女様の直筆の署名がございます。立会人のもと、公正証書も作成済みです。法的に、何ら不備はございません」
グレイ氏が合図をすると、後ろに控えていた男たちが一斉に動き出した。
彼らは手にした赤い札――「差押」と書かれた札――を、次々と家具や絵画に貼り付け始めた。
高価な壺に、ペタリ。
壁のタペストリーに、ペタリ。
銀食器に、ペタリ。
「や、やめて! 何をするの! 私のコレクションに触らないで!」
義母が悲鳴を上げ、男たちに掴みかかろうとするが、軽くあしらわれる。
招待客たちは、もはや嘲笑を隠そうともせず、扇子の隙間からこの喜劇を楽しんでいる。
「やはり噂通りね」「無一文で夜会を開くなんて」「見ろ、あの赤札。全部持っていかれるぞ」
屈辱の言葉が、雨霰のように義母に降り注ぐ。
「テオドール! クララ! 何とかしなさい! この無礼者たちを追い出して!」
義母が助けを求めたが、テオドールは顔面蒼白で柱の陰に隠れようとし、クララは「私、関係ないわよね?」と呟きながら後ずさりしている。
誰も彼女を助けない。
当然だ。これは彼女が招いた種であり、彼女が育てた果実なのだから。
「そうだ……エリーゼ! エリーゼ、どこ!?」
義母の血走った目が、私を捉えた。
彼女はなりふり構わず私の方へ駆け寄ってきた。
「あなた、何とかしなさい! 実家に連絡して! お金を持ってこさせなさい! 今すぐよ!」
私の肩を掴み、揺さぶる義母。その爪が肩に食い込む。
痛い。けれど、それ以上に哀れだ。
まだ、私が言いなりになると思っている。まだ、実家のロクシウス家が財布代わりになると思っている。
私はゆっくりと、義母の手を自分の肩から外した。
そして、懐から一通の手紙を取り出した。
「お義母様。残念ですが、実家には頼めません」
「何ですって!? あなたの実家でしょう! 親不孝な娘がいると泣きつけば、世間体を気にして金くらい出すはずよ!」
「いいえ。父からは、昨日付けでこの手紙が届いております」
私は手紙を開き、義母に見せた。
そこには、父の力強い筆跡で、こう書かれていた。
『絶縁状』
「……ぜ、ぜつえん?」
「はい。父は申しておりました。『我が娘は嫁に出した。バルトン家の借金はバルトン家の恥であり、ロクシウス商会には一切関係がない。これ以上、金の無心をするならば、法的な措置をとる』と」
「嘘よ……そんな……」
「本当です。お義母様が散財されたドレスや宝石の請求書が、実家に回っていたことも父は知っておりました。もう、堪忍袋の緒が切れたのです」
私は淡々と事実を告げた。
実際には、私が父に根回しをして、「今こそ切るべき時です」と進言したのだが。父は「よくぞ言った、さすが俺の娘だ」と笑ってこの絶縁状を書いてくれた。
「そ、そんな……。じゃあ、誰が払うのよ!?」
「契約者である、お義母様ご自身です」
グレイ氏が冷たく割り込んだ。
「さて、家財道具だけでは利息分にも足りませんね。……そちらの首飾りも、頂戴しましょうか」
グレイ氏の視線が、義母の首元のサファイアに向けられた。
「い……いや! これだけは! これは私のものよ! 私の夢なのよ!」
義母は両手で首飾りを覆い隠し、後退った。
髪は振り乱れ、目は虚ろに泳いでいる。数分前まで女王のように振る舞っていた姿は見る影もない。ただの、欲に溺れた狂女だ。
「往生際が悪いですよ。執行官、お願いします」
グレイ氏の合図で、数人の男が義母を取り囲む。
義母は「ギャーッ!」と獣のような叫び声を上げ、床に座り込んだ。
ドレスが汚れようがお構いなしだ。
クララもテオドールも、ただ震えて見ていることしかできない。
会場は騒然としているが、誰一人として止めに入ろうとはしない。
これはショーなのだ。
没落貴族の断末魔という、残酷で甘美なエンターテイメント。
私はその混乱から一歩下がり、壁際の椅子に腰を下ろした。
近くのテーブルから、手つかずの紅茶のカップを手に取る。
もう冷めているが、今の私にはちょうどいい。
「……おい、エリーゼ。君は何をしているんだ?」
テオドールが、震える声で私に問いかけた。
彼は私のあまりの落ち着きように、違和感を覚えたようだ。
義母が男たちに取り押さえられ、サファイアを外されようとしている横で、優雅に紅茶を飲んでいる妻。
確かに、異様な光景だろう。
「何って、お茶をいただいておりますけれど?」
「そんな場合か! 母さんが……家が、大変なことになっているんだぞ! 君も一緒に止めるとか、泣くとか、何かあるだろう!」
「なぜですの?」
私はカップをソーサーに戻し、首を傾げた。
「借金をしたのはお義母様です。契約書にサインをしたのもお義母様。私は何度も止めました。警告もしました。それでも強行されたのは、あの方ご自身です」
「だ、だけど、家族だろう!」
「家族?」
私は失笑を禁じ得なかった。
今更、家族?
私が熱を出した時、医者も呼ばずに「家事をサボるな」と言ったのは誰?
実家の父が倒れた時、「見舞いに行く金があるなら食費に入れろ」と言ったのは誰?
「テオドール様。その『家族』という言葉は、都合の良い時だけ使う魔法の呪文ではありませんのよ」
私の声は静かだったが、テオドールを黙らせるには十分な冷たさを含んでいた。
「いやぁああ! 返して! 私のサファイア! 私の輝き!」
義母の絶叫がホールに響く。
男の手によって、無理やり首飾りが引きちぎられるように外された。
留め具が弾け飛び、いくつかの真珠が床に散らばる。
義母はサファイアを奪われた瞬間、まるで魂を抜かれたように床に突っ伏した。
「確保しました。評価額、金貨五千枚。……まだまだ足りませんが、とりあえずはこれで」
グレイ氏はサファイアを無造作に袋に入れ、冷徹に告げた。
「バルトン子爵夫人、並びに御家族の皆様。契約に基づき、この屋敷の所有権も移転いたしました。今夜中に退去していただきます」
「た、退去!? 雨の中を!?」
クララが悲鳴を上げた。
「行く当てなんてないわ! 私たち、貴族よ!?」
「元、貴族です。今はただの多重債務者です」
グレイ氏は容赦がない。
彼はチラリと私の方を見た。
私は紅茶のカップを置き、ゆっくりと立ち上がった。
今こそ、カーテンコールだ。
騒然とするホールの中央へ、私は静かに歩み出た。
私の足音に合わせて、グレイ氏が道を空ける。
床に伏している義母、腰を抜かしている義姉、柱にしがみついている夫。
彼らの視線が、私を見上げる。
「……エリーゼ?」
義母が掠れた声で私の名を呼んだ。
その目には、まだ僅かな期待が残っていた。私が何か奇跡を起こしてくれるのではないかという、身勝手な期待が。
私はスカートの裾を正し、義母を見下ろした。
そして、懐からもう一枚の紙を取り出した。
それは、グレイ氏が持っているものと同じ、あの契約書の「原本」だった。
「お義母様。一つだけ、訂正がございます」
私の声は、ホール中によく通った。
「この契約書の『債権者』の名義はダミー会社となっておりますが……その実質的な権利者は、この私、エリーゼ・バルトンです」
「……は?」
義母の口がポカンと開いた。
周囲の客たちからも、「えっ?」「どういうことだ?」というざわめきが起こる。
「つまり、お義母様が借りたお金は、私が貸したものです。この屋敷の新しい持ち主も、このサファイアの持ち主も、すべて私です」
「な、何を言っているの……? あなたにそんなお金が……」
「ありましたよ。私が稼ぎましたから。――『銀の未亡人』という名をご存知かしら?」
その名を出した瞬間、会場にいた数人の有力者たちが息を飲んだ。
裏社会で恐れられる謎の相場師。その正体が、この地味な子爵夫人だったとは。
私はポケットから、銀色の仮面を取り出した。
それを顔に当てることはしなかったが、手の中で弄びながら、義母に微笑みかけた。
「さて、お義母様。契約書の特約条項、覚えていらっしゃいますか?」
義母は震えながら首を横に振った。
「『返済不能時は、債権者の家事使用人として無期限の奉仕を持って償う』。……ご自分で、サインなさいましたよね?」
私は契約書の署名欄を、義母の目の前に突きつけた。
『Beatrice Barton』
その文字が、呪いのように義母の目に焼き付く。
「ま、待って……。使用人? 私が? メイドに?」
「ええ。路頭に迷うよりはマシでしょう? 衣食住は保証しますわ。ただし……」
私は腰を屈め、義母の耳元で囁いた。
かつて彼女が私に言った言葉を、そのまま返すために。
「働かざる者、食うべからず。商人の家の家訓ですの。……これからは、たっぷり働いていただきますわよ?」
義母の顔から完全に血の気が引いた。
彼女はようやく理解したのだ。
自分が誰を敵に回したのか。
そして、ここから始まる生活が、これまでの甘やかされた日々とは対極にある地獄であることを。
雷鳴が轟き、窓ガラスを震わせた。
破滅の夜会は終わりを告げ、本当の「復讐劇」の幕が上がろうとしていた。
「さあ、お義母様。まずはこの散らかったホールの掃除から始めましょうか。……お客様がお帰りになった後、朝までにピカピカにしておいてくださいね?」
私はニッコリと、心からの笑顔を向けた。
その笑顔は、かつてないほどに晴れやかで、そして残酷なほどに美しかったはずだ。




