第2話:銀の未亡人(マダム・シルバー)
夜の帳が下りると、王都は二つの顔を見せる。
表通りではガス灯が煌めき、着飾った貴族たちが馬車で行き交う華やかな社交界。そして一歩路地裏へ踏み込めば、そこは欲望と金と暴力が支配する、湿った闇の世界だ。
バルトン子爵家の屋敷もまた、夜の静寂に包まれていた。
夫のテオドールはアトリエに籠り、義母と義姉は明日の夜会に備えて早々に自室へ引き上げている。
私は自室の鏡の前で、最後の手順を確認していた。
地味な灰色のドレスは脱ぎ捨てられ、代わりに身に纏うのは、夜の闇よりも深いミッドナイトブルーのドレスだ。デコルテを大胆に見せつつも、レースのショールで品格を保つその装いは、決して「良家の子爵夫人」が着るものではない。
そして、顔の上半分を覆うのは、繊細な細工が施された銀色の仮面。
鏡に映るその姿は、エリーゼ・バルトンであって、エリーゼ・バルトンではない。
裏社会で囁かれる伝説の女相場師、「銀の未亡人」その人だった。
「……行きましょうか」
私は音もなく窓を開けた。二階の窓だが、実家の庭で木登りをして育った私には造作もないことだ。闇に紛れて庭木を伝い、軽やかに地面へと降り立つ。
裏門の茂みの陰には、すでに一台の黒塗りの馬車が待機していた。家紋の入っていない、どこにでもある辻馬車に見せかけた特別仕様車だ。
御者台に座る初老の男が、無言で帽子に手を当てて合図を送る。
実家ロクシウス家の元筆頭番頭であり、私が唯一心を許す腹心、セバスチャンだ。
「お待たせしました、セバスチャン」
「お嬢様……いえ、マダム。今宵も冷え込みますな」
馬車に乗り込むと、内装は外見とは裏腹に、高級なベルベットで覆われていた。
馬車が動き出すと同時に、私は深呼吸をした。屋敷の澱んだ空気が肺から押し出され、代わりに夜の冷たく張り詰めた空気が満ちていく。
これだ。この感覚。
生きている、と実感する。
数字と駆け引き、リスクとリターンが交錯する世界こそが、私の本来の居場所なのだ。
馬車は石畳を走り抜け、やがて王都の東地区、通称「色街」と呼ばれるエリアへと入っていった。
猥雑なネオンと呼び込みの声が溢れる通りを抜け、さらに奥まった路地へ。
そこに、看板のない重厚な鉄の扉があった。
会員制クラブ「ノクターン」。
表向きは高級サロンだが、その実態は王都のブラックマーケットの中心地だ。ここには、表の市場には出せない品物や情報、そして金が集まってくる。
セバスチャンにエスコートされ、扉をくぐる。
顔なじみの巨漢の用心棒が、私を見るなり直立不動で道を空けた。
「ようこそ、マダム・シルバー。お待ちしておりました」
その声には、明らかな畏怖が含まれている。
かつてこの店で、私を侮ってイカサマを仕掛けた男が、翌日には全財産を失い、パンツ一枚で王都の広場に放り出された事件があった。それを仕組んだのが私だと知れ渡ってから、この場所で私に無礼を働く命知らずはいなくなった。
地下へと続く階段を降りると、煙草の紫煙と高価な酒の香りが漂うフロアが広がる。
ピアノの生演奏が流れる中、各テーブルではきな臭い商談が行われている。
私が足を踏み入れた瞬間、フロアの空気が一変した。
騒がしかった談笑が止まり、視線が一斉に私に集まる。
銀の仮面が照明を反射して煌めく。私は優雅に扇子を開き、口元を隠して微笑んだ。
奥のVIPルームへと案内される途中、何人もの男たちが席を立って私に会釈をした。中には、昼間は議会で偉そうな顔をしている議員や、騎士団の高官も混じっている。彼らもまた、私の顧客の一人なのだ。
VIPルームの革張りのソファに腰を下ろすと、セバスチャンが手際よく書類を広げた。
「マダム、本日の案件でございます。東インド航路の香辛料取引における先物、それと北部の鉱山開発権の譲渡について……」
「香辛料は売り抜けて。海賊の動きが活発化しているという情報が入ったわ。鉱山の方は買い占めて。あそこの地質調査書、偽装されている可能性があるけれど、実はもっと深い層に新しい鉱脈があるのよ」
私は書類に目を通しながら、次々と指示を飛ばしていく。
セバスチャンは感嘆の息を漏らしながらメモを取る。
「さすがでございます。あの地質データからそこまで読み解かれるとは」
「数字の違和感よ。人為的に操作された数字には、必ずリズムの乱れがあるの。……さて、本題に入りましょうか」
私は手元のグラスを揺らし、琥珀色の液体を見つめた。
「『幻のサファイア』、確保できた?」
「はい。裏ルートを通じて、宝石商『カオス』の手元にございます。無論、カオスは我々の息がかかった者です」
「価格設定は?」
「市場価格の三倍。しかし、バルトン子爵夫人が喉から手が出るほど欲しがるよう、巧みな演出を用意しております」
セバスチャンが悪戯っぽく目を細める。
義母ベアトリスは、物の価値を「値段の高さ」と「他人の評価」でしか判断できない。
高ければ高いほど、手に入れる価値があると思い込む愚かな女だ。
「そして、資金繰りについては?」
「予定通り、正規の銀行はどこもバルトン家への融資を断る手筈となっております。担保価値がないと判断されましたので」
「当然ね。屋敷の権利書は、既に先代の負債のカタに入りかけているもの。……そこで、彼女はどうするのかしら?」
「カオス商会から、親切にも『個人の貸金業者』を紹介されることになります。審査が甘く、即金で融資をしてくれる、夢のような業者を」
セバスチャンが差し出したのは、一枚の契約書のドラフトだった。
貸主の名義は、ダミーの会社名になっている。しかし、その実質的なオーナーは、私だ。
私は契約書の条文に目を走らせた。
金利は法廷上限ギリギリ。返済期限は一ヶ月後。
そして、特約事項の欄。
小さな文字で、びっしりと難解な法律用語が並んでいる。
『返済が遅延した場合、債務者は債権者の指定する一切の労務提供義務を負い、その対価は債権者が一方的に決定する権利を有するものとする。また、債務者の所有する動産、不動産、および人格権の一部を含むすべての権利を債権者に譲渡するものとする……』
普通の貴族なら、弁護士に見せて止めるような内容だ。
だが、あの義母がこれを読むだろうか?
否。彼女は「サファイアが手に入る」という結果しか見ていない。
細かい文字など、老眼のせいにして読み飛ばすに決まっている。
「完璧ね。……ああ、それと一つ追加して。この特約条項の最後に、『本契約の履行不能時は、債権者の家事使用人として無期限の奉仕を持って償うことも可とする』という文言を、あえて分かりやすい言葉で入れておいて」
「……分かりやすい言葉で、ですか? 警戒されませんか?」
「いいえ。彼女はプライドが高いから、『自分が返済不能になるはずがない』と信じ込んでいるわ。だから、そんな条項は自分には関係のない冗談だと思って、鼻で笑ってサインするでしょうね。……それが、自分の首輪になるとも知らずに」
私は扇子を閉じ、契約書をテーブルに置いた。
カツン、という音が、義母への死刑宣告のように響いた。
「では、明日。役者を屋敷に送り込んで」
「御意に」
***
翌日の午後。
バルトン子爵家のサロンは、異様な熱気に包まれていた。
窓から差し込む陽光が、テーブルの上に広げられた黒いビロードの上で一点に集中し、爆発的な青い輝きを放っている。
『幻のサファイア』。
深海をそのまま切り取ったようなその宝石は、見る者を惑わせる魔力を持っていた。
「まあ……! なんて美しいの……!」
義母ベアトリスは、息をするのも忘れてサファイアに見入っていた。その瞳孔は開ききり、まるで恋する乙女のような、あるいは麻薬中毒者のような恍惚とした表情を浮かべている。
義姉のクララもまた、横でため息をついていた。
「お母様、これをつければ、明日の夜会の主役は間違いなくお母様ですわ! あの高慢な公爵夫人でさえ、裸足で逃げ出します!」
その横で、胡散臭い髭を生やした宝石商――私の手配したカオス商会の男――が、揉み手をしながら言葉巧みに煽り立てる。
「左様でございます、奥様。このサファイアは、東方の王族が秘蔵していたもので、持つ者の品格を選ぶと言われております。私どもも多くのお客様を見てまいりましたが、これほどお似合いになる方は、バルトン子爵夫人をおいて他におりません」
「オホホ! あなた、お上手ね。でも、確かにこの輝きは、私を呼んでいる気がするわ」
義母は既に買う気満々だ。
私は部屋の隅に控え、ポットから紅茶を注ぎながらその様子を冷ややかに観察していた。
昨夜の「マダム・シルバー」としての妖艶さは微塵も見せず、今はただの地味で従順な嫁を演じている。
「それで、お値段はいくらかしら?」
義母が問いかけると、宝石商は恭しく一枚の紙を差し出した。
そこに書かれた数字を見て、義母の眉が一瞬ピクリと動いた。
想定よりも遥かに高額だったのだろう。
「……あら、少々……お高いわね」
「希少価値がございますので。それに、他にもご検討中の公爵家の方がいらっしゃいまして……」
「なっ! 公爵家に渡すですって!? いえ、私が買います! 今すぐ買うわ!」
競合相手の名前を出された途端、義母の闘争心に火がついた。彼女にとって、他の貴族に負けることは死よりも屈辱的なことなのだ。
しかし、現実問題として金がない。
義母はチラリと私の方を見た。
私は首を横に振り、小さく嘆息してみせた。
「お義母様、申し上げた通り、家計には……」
「ええい、黙りなさい! あなたは役立たずね!」
義母は私を一喝すると、宝石商に向き直った。
「あの、支払いの件なのだけれど……少し手持ちが寂しくてね。手形か、分割にはできないかしら?」
宝石商は困ったような顔をして首を振った。
「申し訳ございません、奥様。当店は現金一括のみのお取り扱いでして……。ああ、しかし」
宝石商はそこで言葉を切り、思わせぶりに声を潜めた。
「奥様のような高貴な方であれば、特別にご紹介できる方がおります。私の知人で、貴族の方々専門に融資を行っている資産家がおりまして」
「融資? ……借金ということ?」
「いえいえ、あくまで一時的な『資金の流動性サポート』でございます。手続きは簡単、即日でご用意できます」
義母の顔色が明るくなった。
「借金」という言葉を嫌う彼女にとって、「サポート」という言葉は甘美な響きだったに違いない。
「それなら、紹介してちょうだい。すぐに」
宝石商が合図をすると、控えていた別の男が入ってきた。
仕立ての良いスーツを着た、弁護士風の男だ。彼もまた、私の息のかかった手下である。
男は革鞄から一枚の書類を取り出した。
昨夜、私が目を通したあの契約書だ。
「こちらが契約書になります。ご署名をいただければ、その場で小切手を発行いたします」
義母は契約書を受け取ると、ふんふんと鼻を鳴らしながら、最初の数行だけを目で追った。
「……金利が少し高いようだけど?」
「即日融資というリスクがございますので。ですが、奥様であればすぐに返済なさるでしょうから、些細な問題かと」
「そうね。来月には領地からの上がりが入るはずだし(実際には入らない。不作で赤字だ)、問題ないわ」
義母は、私が最も注目してほしい特約条項のページに差し掛かった。
しかし、彼女の視線はすでにテーブルの上のサファイアに釘付けで、手元の文字など見ていない。
細かい文字の羅列に、あからさまに面倒くさそうな顔をした。
「まったく、最近の契約書はどうしてこう、長ったらしいのかしら」
「法的な形式でございます。内容は一般的なものですので」
「そう。……あら、『家事使用人として』? 何これ、冗談?」
義母が最後の行で指を止めた。
私の心臓が一瞬、早く脈打つ。
気づかれたか?
いや、彼女の口元には嘲笑が浮かんでいた。
「私が使用人になるですって? まるで三流小説ね。こんな失礼な冗談、誰が考えたのかしら」
「ははは、形式的な文言でして。万が一にも奥様のような方が返済不能になることなどあり得ませんから、無視していただいて構いません」
「そうよね。私が返せないはずがないもの」
義母は高らかに笑い、羽ペンを手に取った。
インクを含ませ、躊躇なくサインをする。
『Beatrice Barton』
流麗な筆記体が、彼女自身の破滅への同意書に刻まれた。
「はい、これでいいかしら?」
「確かに。では、こちらが小切手になります」
男が小切手を渡すと、義母はそれをひったくるようにして宝石商に渡した。
宝石商は恭しくサファイアをケースに収め、義母に捧げ持った。
「ありがとうございます、奥様。素晴らしいお買い物です」
「オホホ! これで明日の夜会は私のものよ!」
義母はサファイアを首に当て、鏡の前でポーズを取る。
義姉も「貸して、貸して!」とはしゃぎ回る。
その狂乱のような歓喜の輪の外で、私は静かに契約書の控えを受け取った。
融資担当の男が、去り際に私と一瞬だけ視線を交わす。
微かな頷き。
任務完了の合図だ。
私は手元の契約書を、エプロンのポケットにそっと忍ばせた。
その紙の重みは、羽のように軽いが、義母の人生そのものよりも重い。
「エリーゼ! 何を突っ立っているの! お祝いよ、最高級のワインを開けなさい!」
義母が私に向かって叫んだ。その顔は勝利感に満ち溢れ、紅潮している。
彼女は知らない。
今、自分が身につけたその美しい首輪の鎖を握っているのが、目の前の「役立たずの嫁」であることを。
そして、その鎖がじわりじわりと締まり始めていることを。
「かしこまりました、お義母様。……とっておきの、ヴィンテージをご用意いたします」
私は深く一礼した。
顔を上げた時、私の唇には、誰にも気づかれないほどの、冷たく鋭い笑みが浮かんでいた。
勝利の美酒を味わうのは、あなたではない。
私だ。
廊下に出ると、私はポケットの中の契約書を握りしめた。
指先に触れる紙の感触が、ゾクリとするほどの快感をもたらす。
借金の期限は一ヶ月。
来月の今頃、この屋敷では、本当の意味での舞踏会が開かれることになるだろう。
主役は私。そして、道化役はあなたたちだ。
アトリエからは、何も知らない夫の鼻歌が聞こえてくる。
平和な午後だった。
嵐の前の、あまりにも静かで、残酷なほどに平和な午後。
私はワインセラーへと向かう階段を降りながら、心の中でカウントダウンを始めた。
あと、三十日。
「精一杯、夢を見ることね。お義母様」
地下の冷気の中で、私の呟きは白く濁って消えた。
私の瞳の奥で、銀色の仮面が怪しく笑っているような気がした。
次の夜会で、彼女がそのサファイアをつけて現れた時、社交界はどんな反応を示すだろうか。
そして、その裏で私が流した「バルトン家、破産寸前」という噂が、どのように作用するか。
楽しみで仕方がない。
商談は成立した。あとは、回収の時を待つだけだ。




