第1話:侮蔑と宝石
窓の外はあいにくの雨だった。古びた窓枠を叩く雨音が、私の憂鬱な心拍と重なるように響いている。
机の上に広げた帳簿は、まるで戦場のような惨状を呈していた。赤いインクで記された数字の羅列は、このバルトン子爵家の家計が、もはや致命傷を負っていることを無慈悲に告げている。
「……今月も、また赤字」
私、エリーゼ・バルトンは、重いため息をついて羽ペンを置いた。
インク壺の黒い液体が、私の暗い瞳を映し出している。
私がこの家に嫁いでから二年。実家である豪商・ロクシウス家からの多額の持参金は、とうの昔に底をついていた。それは生活費に消えたのではない。すべて、義母ベアトリスと義姉クララの、底なしの虚栄心という名の怪物に飲み込まれたのだ。
壁に掛けられた絵画の裏には、剥がれ落ちた壁紙の惨めな痕跡がある。それを隠すように飾られた豪華なタペストリーも、実は先代が愛人に贈ろうとして拒絶された品だという噂だ。
この屋敷は、外見だけを取り繕った墓場のようなものだった。そして私は、その墓守として雇われたに過ぎない。
「奥様、大奥様がお呼びです」
控えめなノックと共に、年老いたメイドが顔を出した。彼女の表情には、私に対する同情と、義母への微かな怯えが混じっている。
私は居住まいを正し、鏡の前で自分の表情を確認した。
そこに映るのは、感情を押し殺した「従順な嫁」の仮面を被った女。地味な灰色のドレスは、義母が「商人の娘にはこれがお似合いよ」とあてがったものだ。
「ええ、すぐに行きます」
私は帳簿を閉じ、鍵のかかる引き出しにしまった。この数字を義母に見せたところで、彼女は「数字のことはわからない」とヒステリックに叫ぶだけだということは、過去の経験から嫌というほど学んでいたからだ。
廊下を歩くと、雨漏りを受け止めるバケツが一定のリズムで水音を立てているのが聞こえる。
かつては王都でも指折りの名家と言われたバルトン子爵家。しかし、先代が亡くなり、芸術家気取りの夫テオドールが当主となってからは、坂を転がり落ちるように没落の一途をたどっている。
商人の娘である私が嫁いだのは、傾いた家計を支えるための政略結婚だった。実家の父は「貴族との縁」を喜び、私は「没落しかけた家を立て直す賢い妻」になることを夢見ていた。
なんて愚かだったのだろう。
立て直すためには、土台が必要だ。しかしこの家には、その土台すらも腐り落ちていたのだから。
サロンの重厚な扉を開けると、むせ返るような香水の匂いが鼻をついた。
部屋の中央、猫足のソファに深々と腰掛けているのは、義母ベアトリスだ。ふくよかな体を包むのは、先週仕立てたばかりの真紅のドレス。その首元には、家計を圧迫している原因の一つである大粒の真珠のネックレスが光っている。
その向かいには、義姉のクララが座っていた。彼女もまた、新しい扇子を弄びながら、意地の悪そうな視線を私に向けている。
「遅いじゃないの、エリーゼ。私をお待たせするなんて、どんな教育を受けてきたのかしら」
義母が紅茶のカップをソーサーに打ち付けるように置いた。カチャリ、と神経質な音が響く。
「申し訳ありません、お義母様。家計の整理をしておりまして」
「またお金の話? あなたって本当にそればかりね。だから商人の娘は嫌なのよ。話に品がないわ」
義姉のクララが、扇子で口元を隠しながらくすくすと笑った。
品がない、か。その「品」を保つための金がどこから出ているのか、彼女たちは考えたこともないのだろう。
「それで、お呼びでしょうか」
私は感情を波立たせないよう、静かに問いかけた。
義母はテーブルの上に置かれた一冊の雑誌を、まるで汚いものでも触るかのように指先で弾き、私の方へと滑らせた。
それは王都の貴族夫人が愛読する宝飾品のカタログだった。
「これを見てちょうだい」
義母が指差したのは、ページを埋め尽くすほど大きく掲載された、深い青色に輝くサファイアのネックレスだった。『深海の涙』と銘打たれたその宝石は、王族ですらため息をつくほどの逸品として、最近社交界で話題になっていたものだ。
その下に記された金額を見て、私は目眩を覚えた。
今のバルトン家の年間予算を軽く超えている。いや、屋敷を売っても届くかどうかという金額だ。
「……素晴らしいサファイアですね」
「でしょう? 今度の夜会、王弟殿下もいらっしゃるという噂よ。バルトン子爵家の未亡人として、これくらいの品を身につけていなければ、家の恥になるわ」
義母はうっとりとした表情で、写真の中の宝石を撫でた。まるで、それが既に自分の首元にあるかのような錯覚に陥っているようだ。
「お義母様、まさかこれを購入なさるおつもりですか?」
「当たり前じゃないの。そのためにあなたを呼んだのよ。宝石商の手配をしなさい」
当然の権利のように言い放つ義母に、私は奥歯を噛み締めた。
怒りではない。呆れと、そして絶望に近い徒労感だ。
「お義母様、申し上げにくいのですが、今の我が家にそのような余裕はありません。先月のドレス代と、お義姉様の馬車の修理費で、予算は完全に底をついています」
「あら、そう。なら、あなたの実家に頼めばいいじゃない」
義母は紅茶を一口すすり、こともなげに言った。
まるで、隣の家に砂糖を借りに行くかのような気軽さで。
「実家からの援助は、これ以上望めません。父からも、これ以上の浪費には付き合えないと手紙が来ております」
「浪費ですって!?」
義母の声が裏返った。バン、とテーブルを叩き、ソファから立ち上がる。その勢いで、ティーポットが小さく揺れた。
「これは浪費ではないわ! 貴族としての義務よ! バルトン家の品格を保つための、必要経費なの! それを、卑しい商人の分際で、私の行いを浪費呼ばわりするなんて!」
「お母様の言う通りよ、エリーゼ。あなた、少し勘違いしているんじゃない? あなたがこの家にいられるのは、誰のおかげだと思っているの?」
義姉までが立ち上がり、私に詰め寄ってくる。
彼女は三年前に嫁ぎ先から離縁されて戻ってきた。その理由は「浪費と性格の不一致」だったと聞いているが、この家では「向こうの家格が低すぎて、クララに合わなかった」ということにされている。
「お義姉様、私は現実を申し上げているだけです。無い袖は振れません。このサファイアを買えば、来月の使用人の給金すら払えなくなります」
「使用人なんて待たせておけばいいのよ! 彼らは貴族に仕えることを名誉に思っているんだから!」
義母の論理は破綻していた。いや、そもそも論理など存在しない。彼女の中にあるのは、肥大化したプライドと、自分は特別であるという妄信だけだ。
私は深く息を吸い込み、最後の理性を総動員して言葉を紡いだ。
「お義母様、こればかりは無理です。どうしてもとおっしゃるなら、お義母様が現在お持ちの宝石をいくつか売却して、資金を作ってください」
「……何ですって?」
義母の顔から表情が消えた。
一瞬の静寂。雨音だけが、やけに大きく聞こえる。
「私の、思い出の宝石を売れと言うの? この、卑しい女が……!」
次の瞬間、冷たい液体が私の顔を打った。
驚きで息を飲む間もなく、甘ったるい紅茶の香りが広がる。
義母が、自分の飲みかけの紅茶を、私に浴びせかけたのだ。
茶色い雫が、頬を伝い、灰色のドレスに染み込んでいく。熱くはなかったが、その冷たさが、私の心臓まで凍らせていくようだった。
「……あら、手が滑ってしまったわ」
義母はハンカチで手を拭きながら、嘲るように言った。その目には、微塵の罪悪感もない。あるのは、自分に逆らった下僕への軽蔑だけだ。
「キャハハ! お母様ったら、お茶目なんだから。でもちょうど良かったわね、エリーゼ。あなた、少し頭を冷やした方がいいもの。茶渋でその地味な顔も少しは色がつくかしら?」
義姉が高笑いをする。
私は濡れた前髪から滴る紅茶を手の甲で拭い、静かに二人を見据えた。
惨めだ。悔しい。悲しい。
いいえ、違う。
私の中に湧き上がっていたのは、そんな感傷的なものではなかった。
それは、もっと冷たく、硬質で、研ぎ澄まされた感情。
「……何が騒がしいんだい?」
サロンの扉が開き、夫のテオドールが入ってきた。
彼は絵の具で汚れたスモックを着て、気だるげに髪をかき上げている。手には描きかけのスケッチブック。彼は「芸術のため」と称して、屋敷の離れにこもりきりだ。家の危機的状況など、見ようともしない。
「あなた、聞いてちょうだい! この娘ったら、私に宝石を売れと言ったのよ! 夫との思い出の品を、金に換えろだなんて!」
義母は瞬時に「被害者」の顔を作り、テオドールに駆け寄った。
テオドールは困ったように眉を下げ、私の方を見た。紅茶まみれの私を見ても、彼が驚く様子はない。いつものことだと思っているのだ。
「エリーゼ……。母さんの言うことはもっともだ。思い出の品を売れなんて、酷すぎるよ」
「テオドール様。ですが、お義母様が欲しがっておられるのは、屋敷が傾くほどの高価な宝石なのです。今の家計では絶対に不可能です」
私は縋るような思いで夫に訴えた。
彼が当主として、一言「我慢しろ」と言ってくれれば。それだけでいいのだ。
「……エリーゼ。君の実家は商人だろう? 何か上手い方法があるんじゃないのかい? 金のことなんて、僕にはよく分からないし、母さんの機嫌を損ねると、屋敷の空気が悪くなって創作に響くんだ」
テオドールは面倒くさそうに吐き捨てた。
「上手い方法」。それはつまり、私が何とかしろ、ということだ。不正を働こうが、私が身を削ろうが、彼には関係ない。彼はただ、静かな環境で絵を描きたいだけなのだ。
私の心の中で、何かがプツリと切れる音がした。
それは、夫への愛情だったのか、あるいはこの家に対する最後の情けだったのか。
「……分かりました」
私は静かに言った。
その声が、自分でも驚くほど冷徹に響いたことに、彼らは気づかなかっただろうか。
「あら、やっと分かったの? 最初からそう言えばいいのよ」
義母は機嫌を直し、ソファに座り直した。
「床が汚れているわ。エリーゼ、あなたが拭いておきなさい。メイドの手を煩わせるのも申し訳ないでしょう?」
義姉が意地悪く言い放つ。
私は無言で頷き、懐からハンカチを取り出した。
床に膝をつき、こぼれた紅茶を拭き取る。冷たい床の感触が、膝を通して全身に伝わる。
頭上からは、義母と義姉の話し声が降ってくる。
「サファイアが手に入ったら、どんなドレスを合わせようかしら」
「お母様、私にも何か貸してくださいね」
「テオドール、あなたの個展もそろそろ考えましょうか」
彼らの会話には、私の存在など欠片もない。私はただの、便利な「金庫」であり、感情を持たない「道具」なのだ。
ハンカチが茶色く汚れ、私の手も汚れていく。
だが、不思議と心は澄み渡っていた。
これまで私は、彼らに理解を求めていた。いつか分かってくれる、家族になれると信じていた。
けれど、それは間違いだったのだ。
言葉が通じない相手に、言葉を尽くすのは愚か者のすることだ。
商人は、損切りが早くなければならない。
私はこの「家族ごっこ」という不良債権を、損切りすることに決めた。
「……警告は、しましたよ」
誰にも聞こえないほどの小さな声で、私は呟いた。
床を拭き終え、立ち上がる。
濡れたドレスが重い。だが、今の私には、その重ささえも心地よい鎧のように感じられた。
「では、お義母様。宝石商の手配を進めます。資金の調達にも、少し時間がかかりますので、数日猶予をいただけますか?」
「ええ、構わないわ。必ず手に入れなさいよ」
義母は私を見ようともせずに手を振った。
私は一礼し、サロンを後にした。
背後で閉まる扉の音が、私と彼らを隔てる断絶の音のように響いた。
自室に戻った私は、すぐに濡れたドレスを脱ぎ捨てた。
鏡を見る。そこには、紅茶で汚れた惨めな女ではなく、獲物を前にした狩人のような目をした女が映っていた。
私は鍵のかかった引き出しの奥から、一枚の特別な便箋を取り出した。
それは実家の紋章が入ったものではなく、ただ銀色の縁取りがされただけの、シンプルな便箋だ。
ペン先にインクを含ませ、私は流れるような筆致で文字を綴り始めた。
『親愛なるセバスチャンへ。
久しぶりね。元気かしら。
至急、用意してほしいものがあるの。
一つは、王都の裏通りにある、あの会員制クラブの個室。
もう一つは……私の「顔」よ。
銀色の仮面を、磨いておいてちょうだい。
それと、資金を動かすわ。子爵家の借金ごと、私が買い取る。
あの「幻のサファイア」の裏ルートも確保して。
愚かな客が、極上の餌を待っているの』
ペンを走らせるたびに、私の中で眠っていた血が騒ぎ出すのを感じる。
私はただの商人の娘ではない。
父が裏の商売を取り仕切っていた頃、その才能を最も色濃く受け継いだのは、兄たちではなく末娘の私だった。
父は私が貴族に嫁ぐ際、その過去も才能も封印することを望んだ。「幸せな普通の貴族の妻」になってほしかったのだろう。
でも、お父様、ごめんなさい。
この家には、普通の幸せなど存在しなかったわ。
書き終えた手紙を丁寧に折り、封蝋を垂らす。
銀色の蝋に、私の私印である「百合の紋章」を押す。しかしその百合には、棘が絡みついている。
これは、表の世界では使わない、裏の顔「銀の未亡人」としての印だ。
窓の外では、雨が激しさを増していた。
雷鳴が轟き、一瞬、部屋の中を青白く照らし出す。
私は窓辺に立ち、暗い空を見上げた。
「お義母様、お望みの宝石は差し上げますわ。……その代償が、あなたの全てであるとも知らずに」
口元に、冷酷な笑みが浮かぶのを止められなかった。
私、エリーゼ・バルトンの、美しくも残酷な復讐劇が、今、幕を開ける。
この雨が上がる頃には、王都の勢力図がほんの少し書き換わっていることだろう。
そして、この屋敷の真の主が誰であるか、彼らは骨の髄まで思い知ることになるのだ。
私はベルを鳴らし、実家から連れてきた唯一の腹心である老僕を呼んだ。
彼は私の手紙を受け取ると、何も聞かずに深く一礼し、闇夜へと消えていった。
私は再び鏡に向かい、濡れた髪を拭きながら、新しい自分へと生まれ変わる準備を始めた。
優しく、耐え忍ぶ妻は死んだ。
ここからは、計算高く、冷徹な商人の時間だ。
「さあ、取引を始めましょうか」
私の呟きは、雷鳴にかき消され、誰の耳にも届くことはなかった。
だが、その言葉こそが、バルトン子爵家の終わりの始まりを告げる合図だったのだ。




