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異常領域からの帰還

二ヶ月が経った。

異常領域への潜入は、もう日常になっていた。週に三度、時には四度。システムからの指示に従い、地下へ降りる。影を狩り、データを蓄積し、同調率を上げていく。


同調率は現在94%。二ヶ月前の閾値突破から、ほとんど動かなくなった。まるで何かの上限に達したように。

街は相変わらず、番号だけで回っている。隣人のNo.02713とも、週に一度すれ違う程度だ。「おはよう」と番号を呼び合い、それで終わる。


僕は再度システムの示した通りに裂け目が起きるのを待っていた。


システムのカウントダウンがゼロになった瞬間、床が沈み込む感覚があった。エレベーターで急降下するような、内臓が浮くような感覚。照明が一瞬明滅し、耳がツンとする。気圧が変わった証拠だ。

目の前に半透明の情報ウィンドウが浮かび上がる。


場所: 第4市街区 地下連絡路

現在地: セクションA-3

危険度: D


薄暗いコンクリートの通路が広がっている。誘導灯は半分以上が壊れているが、床の蛍光塗料による誘導線はまだかろうじて見える。湿った空気が漂い、カビ臭い匂いがする。だが水音はない。排水設備は機能していないようだ。静寂が支配している空間。足音だけが不気味に響く。


僕は短剣を腰のホルスターから抜き、逆手に構えた。刃渡り20センチほどの黒い刃。システムから貰った特殊な合金製で、異常領域の存在に有効な武器だ。深呼吸をひとつ。心拍数を落ち着かせる。


前方の角、暗がりの中に何かが現れた。壁から剥がれ落ちるように、四本足の影が立ち上がる。犬のようなシルエットだが、明らかに生物ではない。目はなく、輪郭だけが淡く光っている。

見慣れた敵だ。二ヶ月で何度も倒してきた。


一体目 - 低い位置から突進してくる。足音、風切り音、気配。速度は速いが、動きは直線的だ。重心を左足に移し、右肩を引く。体を薄く、攻撃線から外す。敵の頭部が肩の外側を通過する瞬間、短剣を滑り込ませる。首の付け根、力の流れが集まる点。刃先が何かを捉えた。浅い抵抗。影が光の粒子となって崩れ落ちた。音はしない。


二体目 - 天井近くから落下してくる。視線は上げない。影が視界の端に映る。音が変わる。空気が動く。足の位置だけを半歩、靴底の幅ぶん後ろへずらす。爪が顔の前を通過する。髪が風で揺れる。同時に肘を返し、短剣を逆手のまま押し上げる。敵の胸、中心点。光が砕け散り、影が霧散した。


三体目 - 背後から跳びかかってくる。空気が動く。振り向かない。軸足を右から左へ替える。腰だけを捻り、上半身の向きを変える。足は動かさない。短剣を横に滑らせ、喉に当たる部分へ点を置く。動きが止まり、光がゆっくりと消えていく。

戦闘終了の表示がウィンドウに出る。


討伐確認: 影型敵性体×3

能力値: +3

同調率: 94% → 95%


胸の鼓動が落ち着いてくる。アドレナリンが引いていく感覚。通路の空気が少し冷たくなった気がする。異常領域の性質が変化しているのかもしれない。戦闘音は外部に漏れていないはずだ。この空間は隔離されている。

角を曲がると、古びた避難誘導の掲示板があった。「非常口→」と書かれているが、矢印は何度も塗り重ねられ、方向が三方向を指している。役に立たない。

代わりに、視界の端に自動的にナビゲーションが表示される。オレンジ色の線が床に投影されるように見える。


推奨ルート: A-3 → A-4 → 上層接続口

所要時間: 約8分

注意: 一部、視認困難な区間あり


「視認困難」という警告が気になる。目で見えない場所、つまり空間の歪みがある区間だ。足の感触だけが頼りになる。慎重に一歩踏み出すと、靴底の感触がわずかに変わった。摩擦係数が変化している。目には見えないが、確かに境界線があるようだ。足でなぞるように確認しながら進む。


通路の先、20メートルほど離れた場所に人影が見えた。壁にもたれて座っている。体格からして子供か、若い女性だ。

服装は普通の街で見かけるパーカーとジーンズ。こんな危険な場所にいるはずがない人間だ。

近づいて確認する。年齢は15、6歳だろうか。呼吸は安定している。外傷は見当たらない。

意識はあるが、反応が薄い。ショック状態かもしれない。

ウィンドウに診断結果が表示される。


対象: 能力未覚醒者

識別: データベース未登録

推奨: 保護・避難誘導


「立てますか?」


声をかけたが返事はない。ただ、瞳が少し動いた。聞こえてはいるようだ。言葉が出ないのか、出せないのか。恐怖で声が出ないこともある。


その時だった。通路の奥、50メートルほど先から不規則な音が響いてきた。

壊れた自動音声のような、機械的な数字の読み上げが混ざったノイズ。

四足の影がゆっくりと、先ほどとは違う重さで姿を現した。こちらを向く。

口らしき部分が開いた。金属を擦るような、不快な声。


「……九一一二、九一一二、九一一二」


僕の識別番号だ。No.09112。この領域のシステムに登録された僕の個体識別コードが、敵に読み取られている。


短剣を握り直す。少女の前に立ち、正面を塞ぐように位置を取る。


「下がってて」


影が突進してくる。爪が胸の高さを狙っている。軌道を読む。直線。体を沈める。膝を曲げ、重心を落とす。

爪が頭上を通過する。髪が逆立つ。そのまま左へ流れ、側面へ回り込む。短剣を腹部へ滑り込ませる。手応えは浅い。

先ほどの個体より硬い。芯が深い。まだ動く。

すぐに二撃目。

右から横薙ぎに払ってくる攻撃。

肘を引く。刃が服をかすめる。ほんの数センチの差。体を開き、敵の腕の内側へ踏み込む。腕を掴み、短剣を首筋、光の縁が最も濃い場所へ押し込む。光の輪郭が激しく明滅し、音をたてて崩れた。


討伐確認: 影型敵性体(強化型)×1

能力値: +2

同調率: 95% → 96%


少女が小さく息を吐いた。視線が合う。瞳に恐怖はあるが、まだ希望を捨てていない目だ。強い子だ。


「ここから出ます。歩けますか?」


今度は小さくうなずいた。立ち上がる動作を見守る。ふらついているが、足に力は入っている。動ける。

音を立てずに歩く方法を実演して見せる。

彼女は真似をして、驚くほど上手に音を消した。飲み込みが早い。

角を曲がり、緩やかな斜面を上り、段差を越えていく。徐々に上の方から乾いた風が流れてきた。外の空気だ。街の灯りの熱、車の排気ガスの匂い、生活の匂いを含んでいる。もうすぐだ。

突き当たりに錆びた金属の扉がある。隙間から白い光が漏れている。街灯の光ではない。異常領域特有の、境界を示す光だ。

ウィンドウに選択肢が表示される。


扉: 信頼度53% - 境界不安定

上部換気口: 信頼度61% - 推奨ルート


見上げると、3メートルほどの高さに換気口の格子がある。大人一人が通れるサイズだ。彼女を先に上げる必要がある。

「肩に足を置いてください。三で持ち上げます」

「……はい」


初めて声を聞いた。か細いが、しっかりした声だ。

体重がかかる。40キロくらいか。軽い。持ち上げて、格子の縁まで押し上げる。


「いち、に、さん」


彼女が格子を越えた。続いて自分も登る。

その時、下から冷たい風と、粘りつくような気配が追ってくるのを感じた。あのノイズの声が短く響く。


「……九一一二」


短剣の刃先を空中に突き出す。何か硬いものに刺さったような手応え。見えないが、そこに確かに何かがある。刃を支点に体重をかけ、踏み込むように蹴り上げる。背中に薄い感触があったが、痛みはない。何かがかすめただけだ。間に合った。


換気通路は地下よりずっと温かい。上に行くほど空気が乾燥してくる。生活圏が近い証拠だ。上端の蓋を両手で押し上げると、夜風が流れ込んできた。

地上に出た。第4市街区の路面。深夜0時を過ぎているのだろう、車は路肩に停まっているが人影はない。街灯がいつも通り灯り、遠くで深夜工事の音が規則的に響いている。日常の音だ。

少女の手を引いて外へ出る。彼女は膝に手をついて深呼吸を繰り返した。顔色は悪くない。パニックも起こしていない。

ウィンドウに状況報告が表示される。


離脱判定: 未確定

境界状態: 不安定継続中

警告: 上層空間に余波検出


風向きが一定になってきた。バラバラだった風が、一方向に揃っていく。異常領域の「片付け」が始まっているらしい。システムによる自動修復だ。

バス停のベンチに、子供の落書きがあった。ひらがなで大きく「あ」の一文字。指でなぞった跡が薄く残っている。少女がそれをじっと見つめている。口は開かないが、何かを理解しているような表情だ。


「帰ります。まだ歩けますか?」


うなずく。しっかりとした動作だ。

横断歩道の前でウィンドウが新しく立ち上がった。


離脱判定: 確定

報酬: 能力値+4

同調率: 96%(変動なし)

特別報酬: 未定義ポイント+1

同行者: 暫定認証処理へ移行中


肩の力が抜ける。緊張が解けていく。袖を軽く引かれた。少女の視線がこちらに向いている。迷いはない。信頼してくれているようだ。

歩く。信号の音。横断歩道の白線。街灯の明かり。舗装の粒。全部、普通の日常の音と風景だ。

アパートまでの道は何度も通っているから迷わない。途中、自販機のガラスに何層もの指紋が重なっているのが見えた。

アパートの玄関の前で振り返る。少女は少し緊張した顔で立っている。躊躇はあるが、拒否はしていない。


「中に入りますか。安全です」

「……お願いします」


二言目だ。礼儀正しい子だ。

扉を開ける。明かりがつく。水の匂い、洗濯物の匂い、石鹸の匂い。生活の温度がある空間。

ウィンドウに新しい表示。


同行者: 暫定登録完了

付与番号: No.09113


彼女の頭上に小さく番号が表示される。No.09113。僕の番号の次。連番だ。わかりやすい。


「水をどうぞ。ソファに座ってください」

「……はい」


コップを渡す。両手で持つ。震えていない。落ち着いてきたようだ。


「シャワーを借りてもいいですか」と小さな声で尋ねられた。三言目。少しずつ話せるようになってきている。

「どうぞ。タオルはそこです」


浴室の扉が閉まり、水の音が始まる。

その間に短剣を拭き、道具を片付ける。刃に欠けはない。油を薄く塗り、布で包む。鞘は使わない方針だ。すぐ抜けるように。

ウィンドウが静かに開いた。


観測ログ更新

被験体No.09112、離脱完了。報酬確定。

非覚醒体No.09113、暫定滞在許可。

システムメッセージ: 「……九一一二、応答可能域を拡張中」


最後の一文が気になる。あのノイズの声がまだ僕を探している。

シャワーが止まる。彼女が出てくる。髪をタオルで押さえ、表情は先ほどより柔らかくなっていた。


「体調はどうですか」

「だいじょうぶ、です」


はっきりした発音。声帯に問題はない。言葉は短いが、意味は明確だ。


「今夜はここで休んでください。明日の朝、状態を確認します」

「……ありがとうございます」


ベッドは一つしかない。僕は床で寝る。予備のマットと毛布を押し入れから出す。彼女は遠慮したが、床で十分だし慣れていると伝えた。

部屋の明かりを消す。窓から街灯の光が薄く差し込む。カーテンの隙間から、いつもの夜の風景。静かな夜だ。

またウィンドウが開く。


次回タスク: 未定義領域・監視継続

重要警告: 名を呼ぶ音声に反応しないこと

備考: 被験体No.09112の反応窓は拡大傾向


名を呼ぶ音声。番号の呼び出し。さっきのノイズの声が頭の奥で小さく反響する。


「……九一一二」


短く息を吐く。今日はもう休む。明日、境界の状態を確認する。No.09113の様子も見る。

横になる。呼吸を整え、心音を静かにする。部屋は静かだ。外の街も静かだ。時折、車が通る音がする。

アラームは要らない。いつも午前6時に自然と目が覚める。生体リズムが正確だ。いつも通りの朝が来るはずだ。

違うのは、部屋にもう一人いること。

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