デイリー
朝。
アラームは鳴らない。
目は、時間ちょうどに覚める。
水を一杯。
関節をゆっくり回し、足の裏で床の温度を確かめる。
呼吸の深さを揃える。それが一日の始まり。
ニュースは、もう誰も見ない。
世界は名前を失ったまま、正常に動いていた。
誰も自分の“名前”を覚えていない。
けれど、それで困ることは何もない。
銀行も、学校も、識別番号で全てが管理される。
ただ、隣人を呼ぶ声だけが、少しだけ静かになった。
それでも人々は笑い、通勤し、昼食を取り、夜には眠る。
壊れたはずの世界が、止まることなく動き続けている。
壊れたまま、均等に。
窓を開ける。群青の空。乾いた風。
雲の縁が白く光り、街は正確なリズムで回っていた。
信号。バス。歩行者。
誰も異常を訴えない。
まるで“名前”なんて、最初から存在しなかったかのように。
視界の端に青い光。
ウィンドウが滲む。
【デイリークエスト発令】
訓練種別:災害想定(Lv1)
会場:市営防災センター 第3ホール
報酬:能力値ポイント+5
光の粒がゆっくり消える。
そのあとで、朝の音が戻ってきた。
廊下に足音。
隣のドアが静かに開く。
「おはよう、No.02713。」
女の声。隣人だったはずの、名前を忘れた誰か。
「……おはようございます、No.09112。」
自分の番号を口にすると、少しだけ胸が痛んだ。
「今日もトレーニング? あなた、もうレベル3なんでしょ?」
「はい。災害想定訓練です。」
女は小さく笑い、言葉を落とす。
「ねぇ、“夢”って、見たことある?」
朝陽は沈黙する。
彼女は首を傾げ、また番号を呼んでドアを閉めた。
廊下の灯が落ち、足音だけが響く。
それが、この街の“朝の挨拶”になっていた。
街の風が顔を撫でる。
人々は淡々と番号を呼び合い、仕事へ向かう。
誰も違和感を覚えない。
ただ、ほんの少しだけ静かだ。
“名前”という音が、この世界から完全に消えたせいだ。
防災センターは無人だった。
外壁には、あの日の裂け目が走ったまま。
誰も修繕しようとしない。
それを「聖痕」と呼ぶ者もいるらしい。
受付端末に指をかざす。
認証音。電子の息づかい。
訓練ホールの扉が音もなく開く。
中は灰色。
照明が落ち、空気が止まる。
視界が淡く反転する。
——“自分しか見えない訓練モード”が始まる。
【課題1:反応測定】
四隅の柱が赤く点滅する。
光った方向へ踏み出す。
単純な動作。だが、世界はそれに全てを賭けている。
光が点るより先に、空気が動く。
音が鳴るより前に、身体がそこにいる。
床を滑る。膝のバネを半分だけ使う。
動作音を世界に干渉させない。
最後の光が消えた瞬間、体はもう次の位置にあった。
【反応測定:完了】
評価:S
同調率 91%→93%
数字が上がるたび、視界の輪郭が澄んでいく。
【課題2:回避モーション】
壁のスリットが開き、細い影のスピアが放たれる。
頭、胸、膝、足元。速度も方向も読めない。
足幅を半歩縮め、重心を沈める。
影が風を切り、頬を掠める。
呼吸は短く、一定。
しゃがまず、跳ばず、線の隙間を通過する。
時間の感覚が薄れる。
踏み出す前に結果がわかる。
空気が“動く場所”を、先に知らせてくれる。
影がすべて止まった瞬間、僕はまだ動いていた。
【回避モーション:完了】
〈回避の悦び〉熟練 18→25
筋肉のノイズが消える。
世界との境界が薄くなっていく。
【課題3:模擬戦 影狼型(安全装置ON)】
床が沈み、三体の影が出現した。
輪郭を縁取る光が不安定に揺れる。
短剣を逆手に握る。
刃は細い。切らない。点で済ませる。
一体目。
半歩で肩を沈め、前脚の内側に刃を置く。光が散る。
二体目。
背後の空気が圧縮する。
振り返らず、肘を返し、肩口を斬り抜ける。
三体目と正面。
間合いを詰め、喉を点で刺す。
音はない。光だけが弾ける。
【模擬戦:完了】
報酬:能力値ポイント+5
推奨配分:AGI+3/STR+1/END+1
肺が広がりすぎないように抑える。
呼吸は薄く、穏やかに。
空気の中の粒子までが鮮明に見える。
【自由訓練:崩落回避(上級)】
照明が一瞬落ちる。
ホールの空気が歪み、天井梁が震えた。
身を低く。
頭の数センチ上を鉄骨が通過する。
風圧が髪を逆立て、音が遅れて届く。
汗が背中を流れる。
熱いのに、頭の中は冷たい。
【自由トレ:完了】
同調率 93%→94%
数字が動く瞬間、胸の奥で小さな音が鳴る。
呼吸と世界の拍が、少しだけ重なった気がした。
退出ログを残そうとしたとき、ウィンドウが微かにノイズを走らせた。
映像の角が歪み、数字が一瞬、読めなくなる。
【警告:データ整合率 94.7%】
【認識領域:不安定】
「……また、か。」
誰にも共有されない“エラー”。
それはこの訓練空間に入れる者——つまり「覚醒者」だけが知る異常だった。
僕の同調率が95%を超えるたび、世界の“表面”が軋む。
まるで、別の層に踏み込もうとしているみたいに。
ホールの壁が、かすかに波打つ。
ノイズの向こうに、一瞬だけ“誰かの声”が通った。
《観測ログ:被験体No.09112 閾値を突破——》
声が切れる。
次の瞬間、光が反転し、世界が元に戻る。
外に出ると、夕方の光がやわらかく頬を撫でた。
路面の白線、舗装の粒、信号の切り替わり。
すべてが足の裏で読める。
街の人々は番号を呼び合い、いつもの一日を終えていく。
誰も知らない。
この街の“深層”が、少しずつ歪み始めていることを。
夜。
短剣を手に、狭い部屋の中で動きを確かめる。
刃の線。踏み込み。避けと刺突の連動。
呼吸が完全に消える瞬間、心拍と世界が同期する。
視界の端に、淡い光。
【セルフトレ:完了】
同調率 95%
ウィンドウがかすかに震え、壁に青白い模様を落とした。
それは、まるで現実が裏返る前兆のように。
空気の密度が変わる。
時計の針が、一瞬だけ止まった。
【異常領域:発生予兆】
位置:第4市街区 地下連絡路
出現まで:残り 00:59:58
鼓動が、数字と同じテンポで鳴る。
外の空がわずかに歪む。
世界の奥で、何かが“準備”を始めている。
僕は立ち上がる。
眠気は、もうない。
また、だ。
光が天井を染める。
都市の夜景が一瞬、反転する。
新しい一日が、“異常”とともに始まろうとしていた。
時計の秒針が止まったまま、動かない。
静寂が、世界の裏側から滲み出ている。
壁の青い光が、波のように揺れた。
【異常領域:第4市街区 地下連絡路】
【出現まで:00:00:00】
その瞬間、音が鳴った。
いや、違う。
“音”ではない、“軋み”だ。
世界がひとつ、皮を剝がす音。
床の目地が歪み、壁の奥が透けていく。
見慣れたアパートの廊下が、知らない色に染まる。
白ではない。灰でもない。
何層もの現実が、上書きされていく。
外に出る。
街は、静止していた。
車も、人も、風さえも止まっている。
ただ一つ、空の中心に——裂け目。
青い線が、ゆっくりと降りてくる。
現実の構造を貫きながら、地面へと接続する。
重なるように文字が浮かぶ。
【異常領域 接続完了】
【エリア区分:第4市街区 地下層】
【危険度:D】
地面の下から、音がする。
低い。粘つく。
聞いたことのない呼吸音。
短剣を抜く。
刃先が冷たい空気を裂いた。
足元の舗装が波打ち、次の瞬間、崩れ落ちる。
落下。
視界が反転し、白い閃光が走る。
気づけば、そこは地下だった。
連絡路。
かつて人が通った形跡がある。
壁には「避難経路」の標識がかすかに残っている。
だが、そこに“誰か”がいた。
影。
人の形をしているのに、輪郭が滲む。
顔がない。
番号もない。
ただ、こちらを見ている。
「誰だ」
返事はない。
次の瞬間、影は崩れ、地面に染み込むように消えた。
残ったのは、赤いノイズだけ。
ウィンドウが反応する。
【戦闘エリア進入:自動トレーニングモード起動】
【敵性反応:識別不能】
「識別不能……?」
その言葉を繰り返す間に、背後の闇が蠢いた。
空気が沈む。
次の瞬間、何かが壁を突き破った。
四肢を持つ。
狼のようで、狼ではない。
骨がむき出しで、目がない。
その口から、番号の羅列がノイズのように流れた。
「一一九一二」
自分の番号だ。
刃を構える。
心臓が速く打つ。
呼吸を極限まで薄く。
飛び込む。
影狼の爪が目の前を通過。
風が頬を裂く。
反転して、肘を返す。
刃が首筋に触れる——しかし、通らない。
硬い。
金属でも骨でもない、“構造”の抵抗。
【警告:対象、現実干渉度 12%】
「現実…干渉?」
その瞬間、視界の端でウィンドウが震えた。
同調率が跳ね上がる。
95、96、97——
世界が、歪んだ。
時間が一瞬だけ止まり、
影狼の動きが“解像度を失う”。
呼吸を忘れたまま、刃を差し込む。
音がしない。
ただ、世界が震えた。
影狼が崩れる。
光とノイズが混ざり、形を失う。
【討伐確認】
【能力値+3/同調率 97%→98%】
膝をつく。
肺が焼ける。
耳の奥で、声がした。
《観測ログ更新——被験体No.09112、閾値領域侵入》
「誰だ……」
声はすぐに消えた。
残ったのは静寂と、青い光の粒だけ。
それが、風の中に消える。
ウィンドウの最下部に、見慣れない一行。
【次回訓練:未定義領域】
——
頭上の天井が裂け、
夜の街の光がわずかに差し込んだ。
世界はまだ壊れきっていない。
けれど、
壊れる準備はもう、とっくに終わっている。
僕は短剣を握り直し、
ひとつ、深く息を吸った。
そして——上を見た。
裂けた空の向こうで、
誰かが“観て”いた。