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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

白蛇は祠に眠らない

作者: 雨宮 巴

海から吹く風は生臭くて、潮と古い網の匂いが混じる。

駅から坂を上ると、町はすぐ尽きて山の黒さに触れる。

実家は崩れた波止場みたいに傾いて、玄関の鍵は指先で回る。


畳に足を置くと、乾いた埃が指の腹にまとわりつく。

障子は波みたいにふるえて、紙が骨をきしませる。

床下で何かが擦れる音がして、私は靴を脱いだまま立ち尽くす。


台所は油が古く、鉄が舌に残る匂い。

流しの排水口は黒く濡れていて、縁に小さな鱗が貼りついている。

指先で弾くと、鱗は音もなくはがれて水切りに落ちる。


私は流しの蛇口を捻り、茶色い水が一瞬出てから澄むのを見た。

湯気が細く立ちのぼる。

湯のみをすすいで口に含むと、海が口の中に来たみたいに舌が塩を拾う。


七回忌のための線香は、仏間の低い引き出しにある。

箱は湿っていたが、細い棒は割れずに出てきた。

火をつけると、煙が床に沿って這う。


ふっと、障子の向こうに白い影が走る。

私は呼吸を一度止める。

影は音もなく曲がり、廊下の奥へ消える。


「戻ってきたの?」

声は出たが、誰に言ったかは分からない。

煙はするりと右へ流れ、廊下の闇に吸い込まれる。


私は座布団に膝を折り、掌を合わせる。

骨と骨が触れて小さな音がした。

蝋燭の火が揺れて、柱の節が眼に見えた。


目を閉じると、白い腹の滑りが瞼の裏に来る。

鍋の湯が泡立つ音も来る。

首を落としたときのまな板の響きも来る。



あの夜は、潮がべっとりと家に貼りついた。

父は濡れた長靴で台所に入り、縄の端を握っていた。

縄の先で、白いものが遠慮がちに動いた。


「白いのは福だ」

父は言い、口角で笑った。

笑いは乾いていて、酒の匂いが少し混じる。


白い腹は柔らかそうで、背の斑は雪が解けかけたみたいに薄い。

父はまな板を引き寄せ、包丁の背で頭を押さえた。

包丁が骨に当たって、金属の音が台所に広がる。


母は味噌を溶いていた。

湯気が眼鏡を曇らせ、母は指でしずかに拭った。

弟は椅子の上で膝を抱き、足の指をくねらせていた。


一度で落ちなかった。

二度目に刃が入ると、白い口が大きく開いて、舌が小刻みに動いた。

まな板の上に赤い筋が出て、私はそこで固くなった。


父は頭を掴み、流しに落として水を流す。

水は赤くなり、排水口が喉みたいに鳴った。

鍋の湯は白く濁り、母が葱を刻んで入れる。


「食え」

父は椀を配り、笑いはもう消えていた。

弟は箸を差し入れ、白い身を唇で受け取った。


私は椀を持てなかった。

湯気が頬に触れて熱いのに、指先だけ冷たい。

舌が固く、歯が動かない。


「福だ」

父は繰り返し、椀をこちらに押した。

母は目を伏せ、指の節に力を入れた。


弟は笑って、二口目を食べた。

白い身はすぐ崩れて、弟の舌が皿の縁を舐めた。

私はその音で吐き気を覚えた。


その夜、布団に横になると、畳の目が濡れているように見えた。

足元から冷気が上がり、踵が少し痺れた。

布団の中で、薄いものが一度触れた。


私は声を出せず、歯を合わせたまま呼吸した。

耳の奥で、細い舌が上顎を鳴らす音がした。

心臓の鼓動が布団の綿を叩いていた。



それから家は、音で満ちるようになった。

天井裏を何かが這い、梁がきしむ。

昼でも排水口が吸う音がし、夜は吸う音が濃くなる。


父は台所の隅に塩を盛った。

盛り塩は崩れて、白い粉が畳に広がる。

父は小刀を握って寝るようになった。


母は咳に血を混ぜ、茶碗の底に赤が線を引いた。

母は布巾で拭き、布巾は流しで赤くほどけた。

弟は縁側に座る時間が増え、庭の暗さを見つめていた。


「名前を呼ばれてる」

弟は小さく言い、耳の穴に指を触れた。

指は冷たく、爪の白い部分が広がっていた。


夜、私が寝返りを打つと、壁の向こうで同じ音がする。

私が息を止めると、向こうも少し遅れて止まる。

押し入れの戸の隙間が黒く、そこに白い線が一瞬走る。


台所で、鍋が勝手に鳴った夜がある。

蓋がひとりでにかたかた揺れて、湯気が立たないのに匂いがした。

匂いは生のままで、鉄と古油が混じった。


父はその匂いに顔をしかめ、小刀で空気を切った。

私には空気が切れた音が聞こえた。

弟は舌で上顎を鳴らして、それを止められなかった。



父が死んだ日は、雨が弱く降っていた。

物置の戸は半分だけ開き、濡れた縄が床に落ちていた。

父は梁からぶら下がっていないのに、足元に椅子は倒れていた。


首には何かで締めたような痕があり、皮膚が紫に沈んでいた。

舌は口の外に出ず、歯の間で乾いて黒くなっていた。

眼は見開いたまま、物置の隅の暗い方を見ていた。


警察は戸を開け、床に膝をついてメモを取った。

手袋が濡れて、ゴムの匂いが室内に広がった。

「事故に見える」と短く言って、写真を撮った。


母は口を押さえ、声が出なかった。

指の関節が白くなり、関節は骨の形のまま固まった。

母は怯えて「蛇様が連れていった」と繰り返した。


葬儀の夜、線香の煙が低く漂い、畳は湿っていた。

私が目を閉じると、父の喉から小さな音が出た気がした。

耳を澄ますと、それは排水口の吸う音に似ていた。



弟の目は、次第に白い膜を濃くした。

黒目はあるのに、光がそこで折れていた。

弟は縁側で夜を過ごし、朝方にだけ体を横たえた。


「名前を呼ばれてる」

弟は言い、身体を少し傾けた。

「こっちだよって、砂の中から言う」


母は熱に沈み、額に濡れた布を乗せた。

布はすぐ乾いて、私がまた水で湿らせた。

台所の排水口からは、夜中になると冷たい風が上がる。


弟は舌で上顎を鳴らし、指を床にすべらせた。

爪が畳に小さな線を引き、その線が朝に白く残った。

弟はその線をなぞり、線は途切れず廊下へ伸びた。


雨の夜、玄関の框に裸足の足跡が出た。

足の形は小さく、土と水で濃い。

足跡は廊下を行き、勝手口から裏の山へ続いた。


私は懐中電灯を掴んだが、母のうわ言が背中を掴んだ。

「行くな」

声は低く、苦い息が混じった。


私は窓を開け、裏を見る。

石段に、白いものが点々と落ちていた。

乾いた抜け殻は雨で少し重くなり、端がちぎれていた。


最後の欠片は、石段の途中で止まっていた。

私はそれを拾い、指の腹で確かめた。

乾いた薄さは、紙よりも静かだった。


弟は戻らなかった。

警察は山を探し、蛍光の帯を木に結び、笛を鳴らした。

笛の音は海に溶け、戻ってはこなかった。


母は床に伏し、目を開けて天井を見た。

天井の染みは白く広がり、蛇の腹に似ていた。

母は指を伸ばし、染みを掴もうとして掴めなかった。



山裾の集会所に、古老はいた。

背は曲がり、座布団に沈み込み、手は膝の上で乾いていた。

蝋燭の火が皺を照らし、影が深く顔に落ちた。


「白は瑞兆だ。だが、祟りにもなる」

声は低く、砂を噛んだようにざらついていた。


「喰らった者は返す。喰らわぬ者も、家にいる限り返す」

古老は目を伏せ、指で畳を擦った。

爪の先が黄ばんで、畳に小さな線を残した。


「どうすれば…」

私は問いかけた。声は弱く、膝が少し震えた。


古老は答えなかった。

ただ「返す」という言葉だけを繰り返し、唇を湿らせた。


私はそれ以上聞けず、集会所を出た。

外の風は湿り、海の塩気が強かった。

足元の砂利がざらつき、音が背中を追った。



仏間で線香に火をつける。

煙は床を這い、壁の染みに絡みつく。

蝋燭の火が揺れ、柱の影が伸びる。


「ねえ」

障子の向こうから声がした。


弟の声だった。

同じ高さで、同じ癖で、同じ間で。


私は立ち上がり、障子に手をかけた。

紙は湿って、指に張りついた。

ゆっくり開けると、廊下の奥が黒く沈んでいた。


突き当たりの柱に、白い筋が一瞬走った。

筋は消え、空気だけが冷たく残った。


台所から鍋の蓋が鳴った。

かたかた、かたかた。

湯気は立たないのに、生臭い匂いがした。


流しの下の扉が震えた。

「こっち」

声は配管の奥から来た。


私は膝を折り、扉を開けた。

暗い管が伸び、冷たい風が吹いた。

舌で上顎を鳴らす音がそこから聞こえた。


私は扉を閉め、背中に冷気が這った。

裏口の鍵に手を伸ばす。

外の霧が窓を叩いた。



裏山への石段は苔で滑った。

霧が濃く、懐中電灯の光がすぐ途切れる。

藪が湿り、草の先に水滴が光った。


祠は小さく、屋根は欠け、苔が深かった。

賽銭箱は木が痩せ、口が歪んでいた。

中の白蛇像は苔の下で湿り、腹が脈打つように見えた。


背後で草が倒れ、何かが通った。

海の霧が背中を押し、足元の石が冷たく滑った。


私はポケットから薄いものを取り出した。

石段の夜に拾った抜け殻の欠片。

乾いて軽く、紙よりも静かだった。


賽銭箱に硬貨を落とす。

木と金属の音が重なり、森が短く震えた。


私は膝を折り、額を低くした。

舌は乾いて張りつき、声はかすれた。


「連れていかないで」

言葉は小さく、喉が焼けた。

「これは返すから」


欠片を賽銭箱の縁に置いた。

白い薄片は闇に溶け、像の湿りに映えた。


掌を合わせる。骨と骨が触れ、小さな音が出た。


這う音が止んだ。

森が一度、大きく息を吸った。

藪の奥で水が動き、土が湿った。


私は目を閉じた。

誰も名前を呼ばなかった。

声もなかった。


長いようで短い時間が過ぎた。

立ち上がると、膝の裏が冷えていた。

光を当てると、像の腹の湿りが薄れていた。


振り返ると、石段に水が溜まっていた。

光が揺れ、そこに白い線が走り、すぐ消えた。


私は頭を下げ、石段を下りた。

背中は掴まれず、霧は静かに引いた。



台所で水を飲む。

水は冷たく、舌の裏が痛い。

排水口は黙っていた。


仏間の線香の灰が倒れ、畳に小さな島を作った。

私は指で集め、香炉に戻した。

指先に灰が残り、鼻にかすかに入った。


障子の穴から薄い青が覗いた。

朝は海から来て、山に引っかかってから降りてくる。

光は弱く、息だけが温い。


私は座布団に膝を折り、掌を合わせた。

骨と骨が触れ、小さな音がした。

目を閉じても白い腹は来なかった。


夢ではまだ、蛇は来るだろう。

名前を呼ばれてる夜もあるだろう。

それでも朝は来て、空気は薄く明るい。


私は息を吐いた。

外でカモメが鳴いた。

声は短く、波に切られていった。

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