白蛇は祠に眠らない
海から吹く風は生臭くて、潮と古い網の匂いが混じる。
駅から坂を上ると、町はすぐ尽きて山の黒さに触れる。
実家は崩れた波止場みたいに傾いて、玄関の鍵は指先で回る。
畳に足を置くと、乾いた埃が指の腹にまとわりつく。
障子は波みたいにふるえて、紙が骨をきしませる。
床下で何かが擦れる音がして、私は靴を脱いだまま立ち尽くす。
台所は油が古く、鉄が舌に残る匂い。
流しの排水口は黒く濡れていて、縁に小さな鱗が貼りついている。
指先で弾くと、鱗は音もなくはがれて水切りに落ちる。
私は流しの蛇口を捻り、茶色い水が一瞬出てから澄むのを見た。
湯気が細く立ちのぼる。
湯のみをすすいで口に含むと、海が口の中に来たみたいに舌が塩を拾う。
七回忌のための線香は、仏間の低い引き出しにある。
箱は湿っていたが、細い棒は割れずに出てきた。
火をつけると、煙が床に沿って這う。
ふっと、障子の向こうに白い影が走る。
私は呼吸を一度止める。
影は音もなく曲がり、廊下の奥へ消える。
「戻ってきたの?」
声は出たが、誰に言ったかは分からない。
煙はするりと右へ流れ、廊下の闇に吸い込まれる。
私は座布団に膝を折り、掌を合わせる。
骨と骨が触れて小さな音がした。
蝋燭の火が揺れて、柱の節が眼に見えた。
目を閉じると、白い腹の滑りが瞼の裏に来る。
鍋の湯が泡立つ音も来る。
首を落としたときのまな板の響きも来る。
*
あの夜は、潮がべっとりと家に貼りついた。
父は濡れた長靴で台所に入り、縄の端を握っていた。
縄の先で、白いものが遠慮がちに動いた。
「白いのは福だ」
父は言い、口角で笑った。
笑いは乾いていて、酒の匂いが少し混じる。
白い腹は柔らかそうで、背の斑は雪が解けかけたみたいに薄い。
父はまな板を引き寄せ、包丁の背で頭を押さえた。
包丁が骨に当たって、金属の音が台所に広がる。
母は味噌を溶いていた。
湯気が眼鏡を曇らせ、母は指でしずかに拭った。
弟は椅子の上で膝を抱き、足の指をくねらせていた。
一度で落ちなかった。
二度目に刃が入ると、白い口が大きく開いて、舌が小刻みに動いた。
まな板の上に赤い筋が出て、私はそこで固くなった。
父は頭を掴み、流しに落として水を流す。
水は赤くなり、排水口が喉みたいに鳴った。
鍋の湯は白く濁り、母が葱を刻んで入れる。
「食え」
父は椀を配り、笑いはもう消えていた。
弟は箸を差し入れ、白い身を唇で受け取った。
私は椀を持てなかった。
湯気が頬に触れて熱いのに、指先だけ冷たい。
舌が固く、歯が動かない。
「福だ」
父は繰り返し、椀をこちらに押した。
母は目を伏せ、指の節に力を入れた。
弟は笑って、二口目を食べた。
白い身はすぐ崩れて、弟の舌が皿の縁を舐めた。
私はその音で吐き気を覚えた。
その夜、布団に横になると、畳の目が濡れているように見えた。
足元から冷気が上がり、踵が少し痺れた。
布団の中で、薄いものが一度触れた。
私は声を出せず、歯を合わせたまま呼吸した。
耳の奥で、細い舌が上顎を鳴らす音がした。
心臓の鼓動が布団の綿を叩いていた。
*
それから家は、音で満ちるようになった。
天井裏を何かが這い、梁がきしむ。
昼でも排水口が吸う音がし、夜は吸う音が濃くなる。
父は台所の隅に塩を盛った。
盛り塩は崩れて、白い粉が畳に広がる。
父は小刀を握って寝るようになった。
母は咳に血を混ぜ、茶碗の底に赤が線を引いた。
母は布巾で拭き、布巾は流しで赤くほどけた。
弟は縁側に座る時間が増え、庭の暗さを見つめていた。
「名前を呼ばれてる」
弟は小さく言い、耳の穴に指を触れた。
指は冷たく、爪の白い部分が広がっていた。
夜、私が寝返りを打つと、壁の向こうで同じ音がする。
私が息を止めると、向こうも少し遅れて止まる。
押し入れの戸の隙間が黒く、そこに白い線が一瞬走る。
台所で、鍋が勝手に鳴った夜がある。
蓋がひとりでにかたかた揺れて、湯気が立たないのに匂いがした。
匂いは生のままで、鉄と古油が混じった。
父はその匂いに顔をしかめ、小刀で空気を切った。
私には空気が切れた音が聞こえた。
弟は舌で上顎を鳴らして、それを止められなかった。
*
父が死んだ日は、雨が弱く降っていた。
物置の戸は半分だけ開き、濡れた縄が床に落ちていた。
父は梁からぶら下がっていないのに、足元に椅子は倒れていた。
首には何かで締めたような痕があり、皮膚が紫に沈んでいた。
舌は口の外に出ず、歯の間で乾いて黒くなっていた。
眼は見開いたまま、物置の隅の暗い方を見ていた。
警察は戸を開け、床に膝をついてメモを取った。
手袋が濡れて、ゴムの匂いが室内に広がった。
「事故に見える」と短く言って、写真を撮った。
母は口を押さえ、声が出なかった。
指の関節が白くなり、関節は骨の形のまま固まった。
母は怯えて「蛇様が連れていった」と繰り返した。
葬儀の夜、線香の煙が低く漂い、畳は湿っていた。
私が目を閉じると、父の喉から小さな音が出た気がした。
耳を澄ますと、それは排水口の吸う音に似ていた。
*
弟の目は、次第に白い膜を濃くした。
黒目はあるのに、光がそこで折れていた。
弟は縁側で夜を過ごし、朝方にだけ体を横たえた。
「名前を呼ばれてる」
弟は言い、身体を少し傾けた。
「こっちだよって、砂の中から言う」
母は熱に沈み、額に濡れた布を乗せた。
布はすぐ乾いて、私がまた水で湿らせた。
台所の排水口からは、夜中になると冷たい風が上がる。
弟は舌で上顎を鳴らし、指を床にすべらせた。
爪が畳に小さな線を引き、その線が朝に白く残った。
弟はその線をなぞり、線は途切れず廊下へ伸びた。
雨の夜、玄関の框に裸足の足跡が出た。
足の形は小さく、土と水で濃い。
足跡は廊下を行き、勝手口から裏の山へ続いた。
私は懐中電灯を掴んだが、母のうわ言が背中を掴んだ。
「行くな」
声は低く、苦い息が混じった。
私は窓を開け、裏を見る。
石段に、白いものが点々と落ちていた。
乾いた抜け殻は雨で少し重くなり、端がちぎれていた。
最後の欠片は、石段の途中で止まっていた。
私はそれを拾い、指の腹で確かめた。
乾いた薄さは、紙よりも静かだった。
弟は戻らなかった。
警察は山を探し、蛍光の帯を木に結び、笛を鳴らした。
笛の音は海に溶け、戻ってはこなかった。
母は床に伏し、目を開けて天井を見た。
天井の染みは白く広がり、蛇の腹に似ていた。
母は指を伸ばし、染みを掴もうとして掴めなかった。
*
山裾の集会所に、古老はいた。
背は曲がり、座布団に沈み込み、手は膝の上で乾いていた。
蝋燭の火が皺を照らし、影が深く顔に落ちた。
「白は瑞兆だ。だが、祟りにもなる」
声は低く、砂を噛んだようにざらついていた。
「喰らった者は返す。喰らわぬ者も、家にいる限り返す」
古老は目を伏せ、指で畳を擦った。
爪の先が黄ばんで、畳に小さな線を残した。
「どうすれば…」
私は問いかけた。声は弱く、膝が少し震えた。
古老は答えなかった。
ただ「返す」という言葉だけを繰り返し、唇を湿らせた。
私はそれ以上聞けず、集会所を出た。
外の風は湿り、海の塩気が強かった。
足元の砂利がざらつき、音が背中を追った。
*
仏間で線香に火をつける。
煙は床を這い、壁の染みに絡みつく。
蝋燭の火が揺れ、柱の影が伸びる。
「ねえ」
障子の向こうから声がした。
弟の声だった。
同じ高さで、同じ癖で、同じ間で。
私は立ち上がり、障子に手をかけた。
紙は湿って、指に張りついた。
ゆっくり開けると、廊下の奥が黒く沈んでいた。
突き当たりの柱に、白い筋が一瞬走った。
筋は消え、空気だけが冷たく残った。
台所から鍋の蓋が鳴った。
かたかた、かたかた。
湯気は立たないのに、生臭い匂いがした。
流しの下の扉が震えた。
「こっち」
声は配管の奥から来た。
私は膝を折り、扉を開けた。
暗い管が伸び、冷たい風が吹いた。
舌で上顎を鳴らす音がそこから聞こえた。
私は扉を閉め、背中に冷気が這った。
裏口の鍵に手を伸ばす。
外の霧が窓を叩いた。
*
裏山への石段は苔で滑った。
霧が濃く、懐中電灯の光がすぐ途切れる。
藪が湿り、草の先に水滴が光った。
祠は小さく、屋根は欠け、苔が深かった。
賽銭箱は木が痩せ、口が歪んでいた。
中の白蛇像は苔の下で湿り、腹が脈打つように見えた。
背後で草が倒れ、何かが通った。
海の霧が背中を押し、足元の石が冷たく滑った。
私はポケットから薄いものを取り出した。
石段の夜に拾った抜け殻の欠片。
乾いて軽く、紙よりも静かだった。
賽銭箱に硬貨を落とす。
木と金属の音が重なり、森が短く震えた。
私は膝を折り、額を低くした。
舌は乾いて張りつき、声はかすれた。
「連れていかないで」
言葉は小さく、喉が焼けた。
「これは返すから」
欠片を賽銭箱の縁に置いた。
白い薄片は闇に溶け、像の湿りに映えた。
掌を合わせる。骨と骨が触れ、小さな音が出た。
這う音が止んだ。
森が一度、大きく息を吸った。
藪の奥で水が動き、土が湿った。
私は目を閉じた。
誰も名前を呼ばなかった。
声もなかった。
長いようで短い時間が過ぎた。
立ち上がると、膝の裏が冷えていた。
光を当てると、像の腹の湿りが薄れていた。
振り返ると、石段に水が溜まっていた。
光が揺れ、そこに白い線が走り、すぐ消えた。
私は頭を下げ、石段を下りた。
背中は掴まれず、霧は静かに引いた。
*
台所で水を飲む。
水は冷たく、舌の裏が痛い。
排水口は黙っていた。
仏間の線香の灰が倒れ、畳に小さな島を作った。
私は指で集め、香炉に戻した。
指先に灰が残り、鼻にかすかに入った。
障子の穴から薄い青が覗いた。
朝は海から来て、山に引っかかってから降りてくる。
光は弱く、息だけが温い。
私は座布団に膝を折り、掌を合わせた。
骨と骨が触れ、小さな音がした。
目を閉じても白い腹は来なかった。
夢ではまだ、蛇は来るだろう。
名前を呼ばれてる夜もあるだろう。
それでも朝は来て、空気は薄く明るい。
私は息を吐いた。
外でカモメが鳴いた。
声は短く、波に切られていった。