秋飽きもせず空きの明き
「ほんま〇〇ってふじい(※)行かんよな。すぐそこにあんのに通り過ぎて天下一品ばっかり行きよってさ」
「まぁそうね。それはそう。ずっと勧められとるし、また明日行くわ。ヘッドホン買いに行くついでにさ」
「〇〇ってヘッドホンとか使うんや。意外」
「意外ってなんやねん。どういうこと?」
「いや、耳に直接挿すんかなって」
「挿すって何をやねん」
「プラグ」
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ええと……長月でしたっけ。その末の土曜日に、友人らと飯を食いに行った。皆で選んだ、結婚祝いの品を渡す口実に。
ところは近所、海老江とか野田とか、あるいは梅田の一歩手前とかいったあたりの……どっかそのへんである。別にネガティブなことを書くつもりもなし、店の具体名を出してもよいのかもしれないが、半端なネットリテラシーの行使により、そこはなんとなくぼかされるのだ。誰が得をする配慮なのかは、私には分からない。そもそもラーメン屋の店名はぼかしてないし。
なんにせよ、冒頭であったのは、実際にそこで話されていた話題の一つである。
私が永遠にこすっている摩訶ダミアナッツの話から推察されるように、こういう頓痴気な話を始めるのはいつも私の方だと誤解されているかもしれないが、当の友人も大概、時折わけの分からん話をする。
そもそもテレビや音声出力系のデバイスに関しては、イヤホンジャックは受けの形をしているものであって、その常識に則るならば、如何に私が改造型便利人間であったとしても、私の耳の穴にプラグを挿すのは概ね無理筋だろう。
故に、私が
「いやいやいや! テレビから伸ばすってこと!? なんでオスオスのケーブルで繋ぐ話になっとんねん! あるわけないやろ! 普通はこっちからケーブル伸ばして挿すんや!」
という旨の返事をしたのも、至極自然だといって差し支えない。
その話の背景にあたる、「最近使ってたヘッドホンが断線して左耳側が聞こえなくなってて」という話は基本的にどうでもいいとして。
その場でも話はしていたが、空想に関してもその認知のアプローチは二系統あるのではないかと仮定しており、つまりは
・現実に存在する概念の外形的特徴を基点に、そこから発展した空想を織りなす(見た目重視の空想)
・現実の規則や条件を基点に、それに適合可能な空想を織りなす(理屈重視の空想)
という、片方は少なくとも私の目から見れば荒唐無稽な理屈で、もう片方は(無論不可能ではあるにしろ)まだ実現可能そうな理屈である、似て非なる手段が利用されているのではないかと思ったわけだ。
もちろん、実際のところの実現可能性でいうのであれば、製品間のデータ伝送の手段は決め事でしかないはずで、たとえオスオスのケーブルで繋ぐ「仕様」になっていたとしても、それは設計がクソすぎるだけで、必ずしも悪であるわけではない。
そういう意味では、確かにどちらも間違いではない。強いて言うなら、おかしいのは前提の方だし。
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まぁ私がそういう機能を持つ改造人間だったとするなら、音声入力の端子はどうせ付けるなら体に格納されるオスのコードにしておいてほしいし、それが耳から出てくる必要もあまりないし、なんなら無線接続対応とかにしといてくれとは思う。
そんな感じの……狂気に片脚を突っ込むような話は流石にそれくらいだったとは思うが、取り留めもなく意味もない話を、相も変わらず続けていたわけだ。傍らには美味い飯を食いながら、時折は酒を飲んで。カルピスチューハイを酒にカウントすることを許容しない人もいそうではある。
なんとなく覚えている範囲では、
・「唐揚げにレモンをかける」行為を純粋に味で嫌っている人は珍しいのでは仮説
・話題が変わる時に「全然関係ない話していい?」と聞くのは偉い
・我が兄とは普段の会話では「コミュニケーション」をしてはいない気がする
みたいな話をしていた。無論他にもあったとは思うが、飲みの場で逐一メモをとるほどの熱量は持ち合わせていないので、今後はやってみてもいいかもしれない。
まずは「唐揚げにレモンをかけておく」みたいな、所謂「気の利いた人」アピールに関して、これを逆に(?)感じが悪いと評価する感情の方が先行して、唐揚げに柑橘の汁がかかっていることの善し悪しよりも先に、行動の是非を否定しているだけであって、別に味の側面でレモン汁を嫌ってはいないのではないか、という仮説を立てていた。
もちろん、それ自体は当たり前なのかもしれない。「嫌いな人もいる」から、不可逆的な作用として共有された唐揚げに対してレモン汁をかけるのは、必ずしも好ましいこととは言えないだろう。それは単体で認められ、特に疑問を挟む余地のない話に過ぎない。
一方で、唐揚げにレモン汁がかかっていることを好む人と、ついでに別にどちらでも良いような人もいるわけで、個人的な直感で言うのであれば、唐揚げにレモン汁がかかっているのが明確に、またはどちらかと言えば嫌いという人は過半数でもないだろうし、意外と許容されてもおかしくないのではないか、と思う。
まぁ誰かの手で触れたレモンの汁が自分の食う飯にかかるというのが単に気色悪い、という話かもしれない。それはそう。
無論、私も自分の皿に取ってからかける派閥である。かける理由は、どちらかというと単にそこにあるからというのが一番大きい。美味いけどね。
んで、飲み会の場ではちょくちょく「相互間の関連度合いが低い」話題の変遷が生じるものであるが、その前置きに
「全然関係ない話していい?」
という決まり文句を置くことで、新しい話題に移ることを円滑に進める姿勢を、少なくとも友人は見せていた。
思い返すと、私は基本的にそういう断りをいちいち入れていなかったような気がする。そもそも話題などはその場で浮いて消えていく儚いものに過ぎず、確かな根と葉の連続によって生じるものではないのだから、話題とは流れ行くままに感じ取り状態を知るだけのものであり、そこに心構えを要するとは思っていなかったのである。
これは恐らく、我が兄と時折会って話をする際に、相互にほぼ好き勝手に話していた弊害であるように思う。
無論、全く話を聞いていないということはない。心底真面目に傾聴しているかと問われれば首をひねるかもしれないが、ちゃんと相手の話す言葉を解釈してから適切な(?)反応を返してはいる。正直、普段の会議中よりも聞いている度合いで言えば高いだろう。……それはそれで会議に真面目に向き合えという感じではあるが。
そういったやり取り――情報交換や感情の共有という目的ではなく、ただその場において思考を相手に伝える行為を、一般的な意味でいうところの「コミュニケーション」だと断言出来るのかについて、改めて問いかけられると答えに窮したわけだ。
では、そもそも「コミュニケーション」とは一般的に何であるのかということだが。
軽く調べた限りでは、コミュニケーションとは意思や感情の伝達を指す言葉であるようなので、ここでこれに疑義が生じたということは、我々の話にはその要素が足りていない……つまりは、
「マジで中身のない話には、意思や感情が伴っていない」
という仮説が導出される。流石にここまでいくと過言過ぎるが。
どちらかというと、一般的なコミュニケーションの概念に対するある種の神聖視が、それに満たない振る舞いを一端のそれと認めていないだけなのだが、よくよく考えてみると、意思疎通や情報伝達を目的とした会話だけがコミュニケーションだというわけでもない。
そういう厳密な意味で再解釈する限りでは、我々は確かにその場で「コミュニケーション」を行っていた、というのは間違いないだろう。
一方で、それは決して直感的には認めていないようでもある。「誰が」といえばそれは私だし、「何故」といえばそれは知らん。我々の知らない不明瞭な何かが、神秘的な要素の欠損をそこに認めている、そういう話だ。
……どういう話だ? まぁ、欠損も美徳の一種ですからね。
欠けることのない玉が至宝であるとしても、歪な枝が芸術たり得ないわけでもなく。そのように生きてきた、自体無意味でもそこに価値を認められる何かがそこにあってもいい。もちろん、なくてもいい。
綺麗であることに価値を認められた玉は、瑕が価値を損なうものになっても。
長く生き抜いてきたものにとっては、瑕は誇りであるのかもしれない。
関係性も振る舞いも、結婚したからといって変わることはないのか、それとも時間が経てばいずれは変わるのか。いや、私と結婚したわけではないが。
先の見えない人生ではあるが、それは別に行く先が闇だから見えないとかではなく、どうであれ未来は誰も知らんのである。ごく短期間の限定的な要素なら、予測出来ることもあるだろうけど。
いつになるかは不明でも、永遠に続かずいずれは終わる命であるが。心地よい関係性は、なるべく長く続くと良いですよね。そうなることを願います。
※中華そば ふじい:野田阪神駅の程近くにあるラーメン屋。私は頻りにそこを進められているにもかかわらず、そこを越えて少し先にある天下一品のラーメンばかり食っているのである(なので怒られた)
翌日食いに行ってみて、実際美味かった(特に半炒飯)けど、一方で天下一品の「代用」足りえるかというとそうでもないというか、方向性がだいぶ違う