心臓の破裂した、私の夏の夢。
心臓が破裂する夢を見た。
私が通う学校の体育館で夏休みが開始したことを告げる終業式が終わった後の、帰り道のこと。
部活が終わり、ただひとりで家に帰ろうとしていただけ。
ただ、なんとなく、夕方の帰り道で、ぼおとしていただけ。
そんなことが現実で、
しかも、全く持病なんて持たない、健康優良児の私の身にそんなことが起るのは、天と地がひっくりかえせるくらいの僅かな確率であるのは間違いがない。
故に、これが夢だと直ぐに理解できた。
まず胸の痛み。
次に心臓が破裂。
足元一面血だらけになるくらい、血飛沫が胸から噴き出す。
私は胸を押さえて倒れる。
意識など、とうの昔に消えている筈。
だが、私は自分を観測できた。
白く粉っぽいガードレールの隣に、私は轢かれた猫のように地面に倒れている。
腕も足にも血が充分に通っていないからなのか、ぴくりぴくりとしかそれを動かせない。
しかし、もう、失われている筈の聴覚と視覚が、私にはあった。
そこで、私はセミの五月蝿い鳴き声を聞き取った。
そこで私は、目が覚めた。
「夢……………」
座り心地の悪い木の椅子。
プリントが中にぐちゃぐちゃに詰めてある机。
私はそこで寝ていたらしい。
周りに人の気配は無い。
窓の外では、蝉がうるさく鳴いていた。
動かせる、右の手で胸の辺りを触る。そこには、いつも通りに動いている心臓の鼓動があった。
この、悪夢。
年々酷くなる、この夏の暑さが見せた、たまに見る悪夢のひとつなんだろうと思った。
だから、気にするほどことではない。
たが、私の中の、自分の中にある造語の一つなので、この感覚は伝わらないかも知れないのだが、夢遊感。夢に、遊ばれている、ような、そんな不気味さ。は、抜け切ることが無かった。
冷房も無いこの部屋は、ただじいっとしているだけで、湿気が熱波を運んでくるので、喉が乾いて仕方が無かった。
発汗で失われた、私の体内の水分を補おうとして、私は、教室の隣にある、水分補給用の水道水の蛇口を開いた。
そこで、まだ、私が、自分が夢の中にいると、分かった。
また、心臓が破れた。さっきと同じ様に、ただ破れた。
また、自分の身体の細胞は活動を停止した。
そうして、また、私は目を覚ました。
たが、ただ、目を覚ましただけ。
私は私が、この悪質極まりない夢からは、未だに覚めていないことを察した。
目が覚めるのと、夢から覚める、違い。
ただ動ける様になること、正気を取り戻すことの違いなど、はっきりしている。
私は、夢に囚われた。
夏の暑さが作る、正気ではないそれ、に。
私が次に目を覚ましたのは、学校の図書館だった。
「大丈夫?」
と、司書の女の人の声で、目が覚めたらしい。
「大丈夫です。」
私がそう返事をする。
「熱中症には、気をつけてね。冷房がかかっているとはいえね。」
「はい。ありがとうございます。」
司書の人は、持ち場に戻り、いつも通りの業務を再開する。
勿論私が私のほおをつねってみても、この夢からは覚めない。
私の夢遊感は抜けない。
私は図書館の椅子で、天井を見上げた。
私が定義する夢遊感というのは、時間という概念というものがまるで自分から失われたみたいな。文字にすればそんな感覚のことを指す。
夢遊感。それは、人が廃人と化す前兆の感情だ。
そんなのは、時間の流れで生きる人間が、本来感じてはならないものだと思う。
人は、1秒後を生きることしかできない。
記憶に思いを馳せることがあっても、時間はどうしても人間に、1秒後を絶えることなく運んで来る。
ずっと、『今』だけが続くことはあり得ない。
『今』に縋れば、その人間の時計の針は、たちまち錆び、動かなくなってしまう。
「帰り道は、何処ですか。」
私は司書の女の人に話しかける。
「本当に、お帰りになられますか。それは、何故でしょう。」
「私は人間でありたい。」
「人間ですか。それは何故?」
「私は、人として死にたいから。」
「理解しかねますね。辛い1秒後なんて、捨てて仕舞えば楽になるのです。心臓が裂けるなんてことよりも、何倍も辛いのです。生きる意味など無いのです。人生には。」
「その生きる意味を問い続けるのが、私の人生の意味です。」
私は、図書館の扉を開いた。
これは、私のひとつの夏の夢の記憶。
あの図書館の司書は、
人の生きる意味など無いと解いた。
今だけに縋って生きろと言った。
そうして楽をしてしまえと。
私が人間である限り、私は、その言の葉を無視することはできない。
あの夢での選択。
私は、時間の1秒後、というのに帰ることを選んだ。
心臓が破裂するあの夢は分岐路だったのだ。
未来への帰り道と、過去への帰り道。
あの司書と私の道が交差することはもう無い。
今年も、あの五月蝿い蝉の鳴き声が聞こえてきた。
足跡は、
もう、私の後ろだけにある。