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日和堂あやかし恋語り

作者: 雪嶺さとり

「ようこそ日和堂へ。お祓い、治療、なんでもいたします」


水明町の外れにある、小さな店。

手書きの暖簾をくぐれば、四方を薬棚に囲まれ、様々な物品の並ぶ異空間が広がっている。

その中央に鎮座するは、一人の娘。

彼女の名は静寂早苗(しじまさなえ)

この「日和堂(ひよりどう)」の主であり、れっきとした祓い師である。


ここへは様々な患者が救いを求めてやってくる。

というのも、彼らが患っているのは普通の病ではない。

呪詛、怨念、あやかしがらみ、そういった通常では治せない特殊な奇病だ。

早苗は自身の祓い師としての力を用い、彼らの病を取り除くことを生業としている。


そして、そんな早苗の隣に常にいるのは時仁(ときひと)という名の青年である。

彼は早苗の助手を名乗る、早苗の恋人である。

少し長い黒髪を後ろで軽く結い、黒の着流しをまとう姿は色男のようでありながら、その長身は威圧感さえ感じる。

しかし、そんな彼は口を開けば底抜けに明るくおおらかに笑う、見た目に反した性格をしていた。

冷静で落ち着いた性格の早苗と対照的に、明るく陽気な時仁は、ひっそりとした小さなこの店に、賑やかさを与えている存在だ。


しかし。


その男があやかしであることは、早苗しか知らない。



──────────────


ある冬の朝のことだ。


「はー、さみぃさみぃ……はやく早苗ちゃんにくっついてあったまりたいぜ」


水明町の外れにひっそりと佇む「日和堂」という店の前で、青年が雪をせかせか退かしている。

昨夜は雪がたんと積もった。

この調子ではおそらく明日も明明後日も変わらないだろうが、彼にとっては、大好きな恋人のためのお手伝いなら気にならないことだった。

彼の名は時仁。

この「日和堂」の店主である早苗の助手兼恋人の青年だ。


そこへ、一人の女性が遠慮がちに声をかける。


「あのう、どんな病気でも治せる祓い師さんがいらっしゃる店は……こちらでしょうか?」


縞模様の着物に羽織り姿の女性は怪訝そうな顔で、古びた外観に手作り感満載の手書きの暖簾という店に目をやる。

女性の手元には紙切れがあり、おそらくここの住所が書かれているものなのだろう。

しかし、本当にここで大丈夫なのかと疑っていて、どうにも足踏みしているといった様子。

そして、黒い着流し一枚という薄着で寒い寒いとぶつぶつ言っている大男が店先にいるのだから、尚更声をかけようにもかけずらい。

綺麗な顔をしているものの、鋭い目つきは凄味があって、この先にあるのが祓い屋というよりやくざ者の集まりと言われた方が納得できよう。


だが、時仁はそんな女性の疑いの目も気にせず、ぱあっと顔を明るくした。

道具を放り投げて一目散に店の中へ声をかける。


「早苗ちゃん早苗ちゃん!お客さん来たー!」


見た目は背の高いどことなく威圧感があるような青年だったのに、口を開けばこの様子だった。

大きな体で、子供みたいにはしゃいでいるものだから、女性は呆気にとられてしまっている。


「ようこそ、日和堂へ!外は寒いから、こっちであったまっててな!」


ぽかんとしている女性は、時仁に店の中へ連れられて、火鉢の前の座布団に座る。

手際よく、時仁が茶とお菓子を持ってきたので、居心地の悪さを感じつつもそれを味わいながら少しの間女性は店主が来るのを待っていた。


店内は四方を薬棚に囲まれ、何に使うのか分からないような道具が並んでいる。

祓い屋らしいお札や錫杖、裏表に鏡面がある鏡、妙な長さの定規など。

何のあやかしか分からないようなお面、天狗の扇のようなものまで。

中には舶来品と思しき珍しいものまであるが、店内の独特な雰囲気にのまれて、興味本位で迂闊に手を出すことははばかられた。


そうしているうちに、ふと、鈴の音が聞こえてきた。

しゃん、しゃん……という音と共に現れたのは、一人の少女。

薄藤色の着物をまとった小柄な少女は、鈴の音を鳴らしながら女性の前に座る。


「ようこそお越しくださいました。本日は、どのようなご要件で?」


見た目は十六、七ぐらいだろうか。

幼さが少し残る顔立ちに似合わず、淡々とした口調で少しも笑うことなくそう言う。

先程から居所を示すかのように鳴っている鈴は、髪を左肩の下で緩く結わえており、その飾りに鈴がついていて、それがずっと鳴っているのだった。


「あなたが、祓い屋さんなの……?お父上かお師匠さんはいらっしゃらなくて?」


女性はますます怪訝そうな表情になる。

風変わりな店内に、不思議な少女と傍らに寄り添う謎の男。

状況だけでも既に奇妙なことになっているのに、こんな年端もいかない娘が祓い師なんて言われても。

女性はそう言いたげに困り顔だ。


「お師匠は三ヶ岳の郷におります。父はおりません」


「あらあ、そうだったの、ごめんなさいね……」


なんの感情もなくそう言った早苗だったが、気を悪くしてしまったのかと、女性は慌てて謝った。


「いえ、良いのです。私が本物の祓い師か疑っていらっしゃるのでしょう。そういうお客様はよくいますので、お気になさらず」


これは早苗にとっては毎度のやり取りなのだ。

初めて来るお客はいつも、父親か師匠か、誰でもいいから他の者はいないのかと尋ねてくる。

だが残念ながら、この店にいるのは早苗と時仁だけだ。

むしろ易々と信じてしまう方が不安になるので、これぐらい疑ってかかられるぐらいの方がちょうどいい。


「お姉さん、一応言っとくけど、早苗ちゃんは凄腕の祓い師だよ。俺が保証する。心配しなくても大丈夫だって」


「あなたが保証したところでお客様にとって意味はありませんよ」


横からそう言った時仁を宥めると、彼は確かにと笑った。


「それで、要件を聞いても?」


「ああ、えっとねぇ……」


戸は閉まっているので誰かに聞かれる心配は無いが、女性はそわそわしながら声を潜めてゆっくりと話をはじめる。


「うちの妹が、その……変な病気にかかってしまってね。お医者様にかかろうにも、ちょっとあまりにおかしなものだから……」


色々と言葉を濁しているが、彼女が求めているものは何か、それだけですぐに分かった。


「なるほど、奇病祓いですね」


日和堂は普通の祓い屋ではない。

呪詛、怨念、あやかし……それらにまつわる奇妙な病。

早苗は、そういった不可思議なものを祓うことを生業としている。

その手の病なら医者を頼ることもできないだろうし、なにより見た目がおかしくなる場合が多いので、近隣に知られることさえはばかられるものだ。

それでも、彼女は妹の為にここまで来てくれた。


「一体誰に相談しようかと悩んでたんだけどねぇ、遠十郎さんから、あなたたちを紹介してもらったのよ。遠十郎さんが言うならって来てみたんだけど……」


「遠十郎さんのご紹介でしたか。なら、お勘定は二割お安くしますよ」


遠十郎は反物屋の跡取りでありながら、祓い師の協会の運営に携わっている人物だ。

繊細な美しい顔立ちと対照的に男前な性格をしており、そういう対比が女性たちにとても人気がある。

早苗も昔から頼りにしている人で、あまり表立って活動しない日和堂に客を紹介してくれていたもする。


「まあそうなの?あっ、でもお値段って」


料金の話が出た途端、女性は不安げな顔になる。


「ウチはまともな料金でやってるから、安心してよ」


時仁がそう言うと、女性はようやくほっとする。

なんの霊力もないのに、祓い師を名乗り霊媒師気取りで詐欺まがいの商売をする人間が少なからずいるものだから、やはり料金は一番警戒するところなのだ。

しかし、日和堂は至って普通の代金しか貰わない。

日和堂だけ安く客を取れば他の祓い屋の客を取りかねないので迷惑になるし、逆に高く取っても同じことになる。

特殊な職種ゆえ、同業者との連携は大切だ。


「妹さんの症状について、教えていただけませんか」


「ええ……ですが、これは直接診ていただいた方が良いかと思うんですよ」


言いたくない、というよりも、どう言い表すべきなのか分からないということらしい。


「それほど遠くないので、一度、うちに来て診ていただけませんか?」


「もちろんです。行きましょう」


早苗が鈴の音を響かせながら立ち上がる。

仕事道具を携え、女性の場合の案内で彼女の家まで行く。


が、その前に。


「あ、時仁……その格好、どうにかならないかしら」


「どうって……どう?」


首を傾げている時仁の手を引っ張り、奥に引っ込んでいく。


「だから、普通の人はこの季節にそんな格好してたら風邪ひいちゃうの。もっと温かい格好にしてちょうだい」


早苗は問答無用で時仁の着流しを剥ぎ取ると、ちゃんとした服装になるよう他の着物を持ってきて、せかせかと着付けている。


「別に早苗ちゃんがやんなくてもいいよ」


早苗が手ずから着替えさせてくれたことで、時仁は照れたように嬉しがっているが、こちらはそれどころじゃない。


「私がやった方が早い。お客様をおまたせしてはいけないわ」


黙っていれば風流な色男に見えるが、真面目な顔つきも一瞬のこと。

時仁はへらりと笑った。


「ちゃんと人に見える?」


「ええ。そのかわいい耳を出さなければね」


早苗は手を伸ばし、時仁の頭を撫でる。

彼の頭部には、ふさふさの毛が生えた犬の耳が現れていた。

早苗が優しく撫でると、それはすぐに引っ込んだが、時仁は早苗に触れられると気が抜けるのか、耳やしっぽを出してしまう。

時折、わざとなのかと思うくらいには。


時仁は人間ではない。

狛犬のあやかしである。

郷で早苗と出会って恋に落ち、以来彼女の助手として早苗の隣にいる。


「なんか、こうやって着替えさせてもらうのは、昔を思い出すな」


「昔も、よくやっていたの……?」


時仁は早苗のことを愛している

例え、彼女が全てを忘れてしまったとしても。


「うん、まあな。そのうち思い出せるよ」


少し顔を曇らせた早苗を気遣うように、時仁は自分がしてもらったように、彼女の頭を撫でる。


早苗は過去の記憶がない。


一年前に全て、時仁に関する記憶だけを失ってしまった。

その経緯には深い理由と彼らの拗れた関係性があるが……今は、深く語るべきことではない。


感傷もわずかな間のことだけだと、二人は颯爽と店を出て患者の元へ向かった。



──────────────



依頼主の女性に連れられてきた家は、水明町から少し離れた先にある小さな家だった。

彼女の両親は商いをしており、今は仕事に出ている。

患者の妹は眠っているそうで、やけに静かで重苦しい雰囲気の中、妹の眠る部屋へと入らせてもらう。


成海(なるみ)、祓い師の方々に来てもらったわよ。もう大丈夫だからね」


狭い部屋で、成海という名前らしい妹は、布団にくるまるように横たわっている。

顔はこちらに見えないようにしているのか、向こうに顔を向けて全くこっちを見やろうともしない。


「姉さん……何を言っているの。祓い師だなんて、もうやめてちょうだい。どうせその人たちだって、霊験あらたかなんだとか言って変な水や札を置いていくだけなんだから」


なんとまあ、悲しいことに彼女たちは偽物に騙され続けてしまったようだ。

成海はもううんざりといった様子で、苛立ちすら感じられる。


「まあなんてことを言うの!この方たちは、遠十郎(とおじゅうろう)さんから紹介してもらったのよ。今までの祓い師とはわけが違うの」


「遠十郎さんが……!?」


成海の声色が一気に跳ね上がった。

彼女も遠十郎のことが好きなのだろう。

水明町の女性たちが遠十郎に向ける黄色い声とまるっきり同じだった。

まったく遠十郎も罪な男だ。そこかしこの女性を夢中にさせておきながら当の本人は色恋沙汰に毛ほども興味を持たないのだから。


だが遠十郎の話を聞いて少しは喜んだと思ったら、成海はすぐに落ち込んでしまった。


「でも、私のこんな姿を見たら、きっとあの人も私のことを嫌いになってしまうのだわ」


顔を腕で覆っておいおい泣きはじめた。

この調子では埒が明かない。


「そんなことないって。遠十郎は見た目で人を判断するやつじゃない。ま、俺に言われたって納得いかないだろうけどさ」


「確かに、遠十郎さんはそういう方ですけれど……」


時仁の言葉に、成海は上手く言い返せずに口ごもる。

この隙にと、早苗はそっと彼女の元へ近づき話しかけた。


「初めまして、成海さん。私は祓い師の早苗と申します。あなたはどのような病を患っているのですか?」


「あら、あなたが祓い師だったの?遠十郎さんが紹介してくれたのだから、話はしますけど……」


最初に話しかけた時仁の方を祓い師だと思っていたようだ。


「でもこれを見たら、きっとあなたも怯えて逃げ帰るわ」


隣にいる時仁が、ごくりと生唾を飲んだ。


ゆっくりと体を起こし、こちらを向いた彼女の半身は、『植物』に覆われていた。

蔦がびっしりと肌に絡みつき、所々で芽が出たり、花が咲いたりしている。

素肌が出ている部分でもそうなのに、衣服には妙にでこぼことした膨らみがあるので、服の下はもっと悲惨なことになっているはずだ。

まるで、樹木に寄生されてしまったかのような異様な容貌で、確かにこれを見た人々は恐ろしくてひっくり返るだろう。


だが、早苗はこれで動じるような祓い師ではない。


「なるほど」


ただ一言、ぽつりと。


「化け物だって、言わないの……?」


成海は驚いたように、目を見開いている。

だがその目は充血していて、何日も泣き腫らしたであろう疲労が見えた。


「言いませんよ。安心なさってください」


化け物もなにも、早苗はあやかしたる時仁と毎日寝食を共にしている。

物の怪だろうがなんだろうが、そんなの今更だ。

人によっては樹木の物の怪に見えるだろうが、早苗からしたら草木の精霊に見えなくもない。

それに、この手の症状には見覚えがあった。


「あなた、何か植物の種のようなものを食べませんでしたか?」


「種……?」


成海は姉と顔を見合わせて首を傾げる。


「種かどうかわかんないけど、これのことかしらねぇ」


姉が持ってきたのは、飾りのつい小さな丸い箱だった。

化粧道具の一種か何かのような見た目をしているが、中に詰まっているのは紅でも白粉でもない。

ぱかりと蓋を開けると、乾燥した小さな木の実のようなものが何粒も入っていた。


「時仁」


そっと一粒つまみ上げ、彼に手渡す。

時仁はそれを眺めてから、すん、と匂いを嗅いだ。


「ああ、これは……『花木羅草(かじゅらそう)』の種だな」


時仁の声色が険しくなっていく。

聞きなれない名前に、姉妹はきょとんとしている。


「この世にはない……隠世のものだ」


「ということは、もしや……」


時仁はゆっくりと頷く。

嫌な予感しかしなかった。


「これ、どこの誰から貰ったんだ?」


時仁がそう聞くと、成海は恐る恐る答えた。


「薬売りの方から買いました。美容にいいと仰っていて、その時はみんな薬を買っていたし、まさか私だけこんなことになるなんて、そんな……」


「それは、六壇天山(ろくだんてんざん)という男でしたか?」


早苗の言葉に真っ先に反応したのは、姉の方だった。


「そうよぉ!たしかそんな名前の人だったわ!知ってたのね」


勢いに気圧されつつも、なにがあったのか話を聞いてみる。


「最近、ううん、少し前かしらね。若い女の子たちに、美容とか健康に良いって薬を売りに来た人がいたのよ。なんだか、見たことも無い珍しい商品を安く売っていてね、物珍しさにみんな集まってて、興味を引かれて買っちゃったのよね」


「そうでしたか……」


六檀天山という名の男は、異界の物や呪物を、そうとは知らせずに人に売りつけるという恐ろしい行為をしている人物だ。

最近になって出没するようになったが、それ以降から祓い師の協会でも問題視されており、皆で一丸となって捕縛に向けて策を練っているが、六檀をなかなか捕まえられずにいる。

奴は以前は行商人として現れ、呪物を売りつけていたが、その次は遠くで卸問屋をしているとの情報がはいっていた。

それが、いつの間にかこちらまで戻っていたのか、今度は薬売りときた。

現れる度、職業だけでなく年齢や姿かたちまでも変わるので、いくら警戒していても六檀だということに気づけなかったりもする。

一体いくつ仮面を持っているのやら、腹立たしいことだ。

祓い師たちの中では、実は六檀は複数人いて、入れ替わりで悪事を働いているのではという説も浮上したりしている。


奴は知識のない一般の人にとっては、極悪非道な存在でしかない。

成海は不運なことに彼の企みに巻き込まれてしまったのだ。

おそらく、他の人に売った薬は乾燥させた豆や木の実を入れているのだろうが、一つだけ本物を混ぜておき、どの人間が当たるのか試していたのだろう。

以前も同じようなことをしていて、引っかかった人から早苗に診てほしいと依頼がきた。

おそらく遠十郎がこの姉妹に日和堂を紹介したのも、遠十郎も情報を仕入れており、六檀ではないかと疑っていたからだったのだろう。


そうして、成海に起きたことの見立てを全て彼女たちに話すと、成海は呆然としたように項垂れてしまった。


「私が迂闊だったから……騙されてしまったんです。どうして、こんな……」


「そう落ち込まないでください。不安にならなくても大丈夫ですよ」


その手の謳い文句なら誰だってつられてしまうものだ。

周りの空気に飲まれたのもある。

悪いのは悪人であって、決して成海が責められる必要などない。


だが、何度諭そうとしても、成海に早苗の声は届かない。


「もういいんです……きっと私はこのまま、死んでしまうのだから。こんな化け物になってまで、生きたいなんて思わないわ」


「いいえ、そんなことはありません」


「そうよ、成海!どうして諦めてしまうの!」


姉も加勢して、成海を宥めようとしてもますます酷くなる一方。

成海は火がついたように、激昂してしまう。


「うるさい!こんな、こんな化け物になった私の気持ちなんて誰にも理解できないのよ!もううんざり!早く殺してちょうだい!」


その言葉に、姉は何も返せず、涙を堪えながら俯いてしまった。

周りに知られたくないはずだろうに、わざわざ日和堂まで訪ねてきて、妹の為ならとできる限りの策を尽くしてきた姉としては、その拒絶の言葉は何よりも辛いものだ。

家中に漂っていた重苦しい空気が、ますます増していくようだった。

これ以上、このやり取りを続ける意義はないだろうと、早苗は割り込むように淡々と口を開いた。


「そうですね、他人の気持ちなんて一生かけても分からないものです」


「だったらなんで……!」


「分からないものを他人に求めるより、今は確かな結果を私に求めてください」


「え……?」


思わぬ返しに戸惑っている成海をよそに、早苗は札を一枚取り出し、彼女の腕に貼る。


「『応えよ』」


その瞬間、札が青白くまばゆい光を放つ。


「な、なに……!?」


姉は腰を抜かして驚き、成海も怒りを忘れて、幻でも見ているかのような驚愕の表情になる。

早苗は構わず、力を込めながら話を続けた。


「言霊という言葉があるように、言葉は力を持ち、やがてそれは祝福になり呪いにもなります。あなたが自分を責める言葉を、自分を蔑ろにする言葉を吐く度に、それは呪いとなってこの植物と共にあなたを縛りつけてしまいます」


先程から成海は、自暴自棄になって自らを傷つけるような言葉しか言わなくなってしまった。

あの様子を見るに、ああいったやり取りは何度も繰り返していたのだろう。

ここまで酷い状況になっているのもそれが原因だ。

この家に来た時から、漂う鬱屈とした空気に察しはついていた。

そういうものは、呪詛を育てるにはうってつけの素材になるからだ。


「治したいのなら今すぐ口を閉じなさい。あなたの本当の望みは、『それ』じゃないでしょう。現実に悲嘆するだけでは何も変わりません」


「要するに、早苗ちゃんが言いたいのは、これが治るか治んないかは、あんたの気持ち次第だから頑張れってことさ」


力を込め続けている早苗の肩を、時仁が支える。


「でも、気持ちって……」


「『花樹羅草』は、霊力を吸って成長する植物だ。そんで、吸い尽くして咲き誇ったあとは、枯れるだけ」


「あなたの体にある僅かな霊力の流れを止めて、代わりに私が種に霊力を溢れるほど注いでいる状況です。あなたが弱気になってしまえば霊力の流れに影響がでてしまうのですよ」


これは、『花樹羅草』という異界の植物の特色を逆手にとった戦法だ。

取れないのなら、いっそ最後まで咲かせて枯らせてしまえばいい。


「私がありったけの霊力を送り込んで、すべて咲かせてしまえば、あとは力づくで引っこ抜かなくても剥がれますから……っ」


くらりときてよろめきそうになるが、時仁の腕が早苗を抱きとめる。


「無理はするな。俺を頼れ」


なかなか見ることのできない、時仁の真剣な表情だった。

植物を咲かきるには、普通の人間なら命に関わるような量の霊力を必要とする。

元々霊力が高く祓い師をしている早苗ならば問題はないが、苦しくないわけではない。

真冬だというのに早苗の額に汗が浮かび、腕は震える。

だが、数ある祓い屋の中から日和堂を選んでくれたのなら、その思いに応えたいのだ。


「早苗、俺のを使え」


「……っ、ありがとう」


早苗を支えていた時仁が、霊力を早苗に流し込む。

純然たるあやかしの時仁の方が霊力は高く清らかだ。

なんの耐性のない人間に流し込むのは危険だが、耐性のある早苗を介してなら危険性はなくなる。

清らかな霊力を感じ、苦しかった胸がすぅっと楽になっていくようで、少しだけ、早苗は時仁に体を預けた。


植物はどんどん育ち、大輪の花をいくつも咲かせるが、それはすぐに萎んでいく。

そうして、しばらくすると彼女の半身をおおっていた蔦や花がぼろぼろと枯れて灰になっていった。


「もう大丈夫ですよ」


懐から持ち歩いている手鏡を取り出して、成海に渡してやる。


「本当……!元に戻ってるわ!」


鏡に映っているのは、植物に体を覆われたりなんかしていない、ただの涙目の女性だ。


「成海、成海!よかったわ、本当によかったわ」


姉がぎゅっと抱きついて涙を流す。

何度も成海の名前とよかったという言葉を繰り返しては、また涙を流す。


その時、成海の体の影から、黒い母家のようなものが離れて消えようとしていた。

早苗がそれに気づき、時仁に声をかけようとした時にはすでに、彼は動き出している。


「……っ、よっと!」


持ち前の素早さでばっと手を伸ばして捉えたそれは、逃げるのを諦めたのか小さな紙切れに形を戻してしまった。

狛犬のあやかしの手中にあるのだから、逃げようとするだけ無駄なことだ。


「い、今のは……?」


「お気になさらず。塵を捕まえただけですので」


塵とは捕まえるものであったかと不思議そうにしているが、彼女たちに六檀のことを深入りさせるのはまだはばかられるだろう。


「六檀が式神を使役しているという説は、本当のようね」


「あとで遠十郎んとこ行くか」


明らかに不自然な式神は、どう考えても六檀のものだ。

ご丁寧にも成海が苦しむ様を見ていたらしい。

これらも全て遠十郎に報告して、あとは解決を願うばかりであろう。


これにて治療は無事に終了。

あとは姉妹水入らずの時間で、と早苗たちは代金を貰って帰っていく。

こういう時、早苗はこの仕事をしていて良かったりするのかもしれない、と思ったりするのであった。




依頼を受けたのは早朝の出来事だったので、帰り道はすでに十時頃になっていた。

静かだった通りも、賑わっている。

隣で時仁が、ぐうと腹を鳴らした。


「そういえば、朝ごはん食べ損ねた……」


「帰ったら作るから我慢しなさい」


かつてはどうだったのかは知らないが、時仁は早苗の作るご飯が大好きだ。

特に凝ったりしているわけではないが、早苗が作ってくれたという事実だけでも至上の食事になるらしい。

なんとなく複雑な気持ちになるが、時仁がそれでいいのなら早苗もそれでいいのだが。


「今日の早苗ちゃんもかっこよかったぞ」


にこにこ笑ってそう言ってくれるが、なかなか早苗の気持ちは上がらなかった。


「……そう」


「あれ。嬉しくない?」


ひと仕事終えたあとなのに、どこか沈んでいる早苗に、時仁はなにか気分を悪くさせてしまったのかと動揺している。


「だって結局……あんなの、きれいごと、じゃない」


成海に散々言った言葉は、結局のところ綺麗事にしかならない。


「それがいいんだよ。あの人たちには、そのきれいごとが必要だったんだからさ」


確かに、あの家に流れていた暗い気を浄化するにはそういう言霊が必要だったことは分かっている。

だが、早苗はどうしても言い表せない歯がゆさを抱えてしまう。


「都合のいいことばっかり言って、自分のことすら治せないくせに偉そうにして、私は……」


どれほど奇病を祓うことができても、自分の記憶はどうしたって治せやしない。

その事実だけが唯一、早苗の心にわだかまりとなって固く重くのしかかっている。

そんな未熟者の言葉に、なんの価値があるのだろうか。

全部忘れた薄情者の自分の隣で寄り添ってくれる時仁を見ていると、どうしても、それだけが早苗の心を覆い隠してしまう。


だが、早苗が次の言葉を紡ぐことは無かった。

少し無遠慮に、時仁の唇が、早苗の唇に重なる。


「そういうこと言う口は、黙らせようかな」


いたずらっ子のような口調で、妖しい笑みを浮かべている。

ほんのわずかな口づけだったが、早苗を黙らせるには十分すぎるほどだった。



──────────────



午後から早苗は遠十郎の元を訪ねた。

もちろん、今回の件を報告する為である。

時仁には店番をお願いして、早苗は遠十郎に事の発端を話し、拾った式神を渡す。


「やはり、あの男がいたのか……」


予想通り、彼も六檀が関わっていることに気づいていた。

ふむ、と考え込んでしまう。

美形が真剣な表情で黙り込んでいるのは大変絵になるので、この様子こそ皆が見たがっているものなのだろうなぁと思ったり。


「早苗、今回の件は何も言わずに任せることになってしまってすまなかった。俺の不手際のせいだ」


「そんなの気にしないでいいわ。遠十郎さんにはいつもお世話になっているから」


遠十郎には本当に世話になっている。

早苗が記憶をなくしてからも、早苗のことを心配して面倒を見てくれていた。

彼いわく、早苗は妹みたいなものだからということらしいが、要するに他の人よりも幼く、頼れる大人もほとんどいない早苗を心配してくれているのだ。


「あとは俺たちに任せてくれ。褒賞は何がいいだろうか……」


「いつも通りにお任せするわ。私たちは偶然関わっただけだもの」


遠十郎は色々あれが良いかこれが良いかと呟いてから、おもむろに早苗に向き直った。


「早苗、何か悩みでもあるのか」


「別に、ないけど……」


目敏い男だ。

明らかにありそうな返事なのに、遠十郎は敢えて聞き出そうとはしなかった。

彼の優しさと気遣いが、ますます荒れかけの心にしみるようだった。


「そうか。気をつけて帰れよ。また何かあれば俺に連絡してくれ。もちろん、相談事も受け付けているぞ」


朗らかに笑って早苗を送り出してくれたが、早苗は未だに先程のことで悩んでいた。


記憶をなくしてから、もうすでに季節が二つも変わった。

このまま永遠に時仁とのことを忘れたまま、上書きしていくしかないのだろうか。

そう考えると、時仁に対する申し訳なさが溢れてしまってどうしようも無くなる。


記憶を失って目覚めてから今日まで、ひたすらに早苗に尽くしてきた彼に、何も与えられていない。

好きの気持ちも思い出せないのに、もらってばかり。


(なんて狡いのか……)


口づけ一つで忘れられたら、どれほどよかっただろう。




あの日、記憶を失って初めて目が覚めた日のことだ。


ぱちりと目を開けると、いつもの天井が視界に飛び込んでくる。


「起きたか!大丈夫か、早苗」


枕元にはなぜか遠十郎がいて、まるで、病人でも看病していたかのよう。


「遠十郎さん……?」


起き上がろうとすると、頭に鋭い痛みが走った。

遠十郎が心配そうに早苗の背を支えてくれる。


「頭が痛いのか?無理はいけない。他に痛いところは?」


「いえ……痛いところはありませんが、なんだか、変な気分ですね」


心にぽっかり穴が空いて、なくしてしまったかのよう。

なにか、忘れているような。

そんな気がしてならない。


とにかく、状況を確認したくて遠十郎になにがあったのかを聞こうとしたその時。

ガタンっと障子が開け放たれて、見知らぬ青年が飛び込んできた。


「早苗……!」


早苗は彼のことをまったく知らないが、彼は早苗の名前を呼び抱きついてくる。


「よかった……!起きれるようになったんだな!」


そう言った声はとても嬉しそうで、心の底から早苗を慈しんでくれているのは分かる。

けれども、早苗にとっては知らない男にいきなり抱きつかれて、困惑の気持ちしかない。


「あの」


早苗は彼の言葉を遮る。


「どちら様、ですか」


「───────……え」


そういったときの、彼の絶望の表情が忘れられない。


「さ、早苗……!まさかお前」


「遠十郎さん、この方はどなたなのですか?」


遠十郎は目を見開いて、呆然としてしまった。


「時仁のことが、わからないのか……?」


早苗は、わけもわからずにただ頷いた。


早苗と時仁は恋人だ。

郷にいたころから時仁とはそういう関係で、郷を出てからは二人で水明町で店を開いている。


そう遠十郎から教えてもらったが、いまいちピンとこなかった。

早苗の記憶の中では、郷では師匠と二人暮しで、独立してからはここで一人で店をやっているはずだった。

師匠のことも、遠十郎のことも覚えているのに、時仁という男性のことは何一つとして頭にない。


だが、この家にある二人分の食器や布団、男性の衣服などを見る限り、彼が共に生活をしていたというのは確かめるまでもなく事実である。


遠十郎がる医者を呼んでくると言って、家を飛び出していく。


二人きりで室内に残された早苗は、気まずさを感じて、自分の家のはずなのに居心地が悪かった。


「ほんとに、何も覚えてないんだな……」


蒼白な顔で呟いた時仁の声は、震えていた。


「ごめんなさい」


「謝んなくていいよ。早苗ちゃんは悪くない」


少しの沈黙のあと、時仁は決心したかのように口を開いた、


「早苗ちゃんさ、郷に帰ってしばらく休んだ方がいいよ。俺と一緒に暮らすのも嫌でしょ。それか、俺が出てこうか」


確かに、彼の言うことには一理ある。

ここにいたところで、何も覚えていない恋人だった人と生活しなければならなくなるのだ、それならいっそ、郷に戻って体を休めれば思い出したりするかもしれない。

けれど、早苗はどうしてかそんな気にはなれなかった。

悲しそうな時仁を、これ以上突き放すことができなかったのだ。


「いえ、今まで通りにしてください。私たちは恋人だったんでしょう。そうしていれば、思い出すこともあるでしょうから」


以前のようにしていれば、何かの拍子に思い出すものもあるはずだ。

それに、忘れてしまったからさようなら、で終わらせてしまうのは、あまりにも時仁に申し訳ない。


だが、早苗の言葉を聞いた時仁は喜んだりはしなかった。

何かを思い詰めたような表情で、後ろめたいことでもあるかのように、早苗から視線を逸らしている。


「俺の本当の姿を見て、それでもそう言えるのか……?」


震える声で彼はそう言った。

その言葉とともに、彼の姿は徐々に変化していく。

黒髪の間から獣の耳が生えてきた。

口元には鋭い牙があり、ただでさえ長身で迫力のある彼の姿が、より一層恐ろしさを増していく。


人狼、否……彼は狛犬だ。


なぜだろうか、直感ですぐにそう思った。

霊力が高いのか、巧妙に化けている。

これほど近くにいても、今の今まで気づかなかった。


時仁に強い力で腕を握られても、早苗は一切怯まない。

彼がわざと怖がらせる為にやっているのだと、早苗はすぐに気づいた。

先程抱きしめられたときは、綿でも触るかのように大切に優しく触れられたのだ。


「あなた、あやかしだったの。かわいい耳ね」


早苗はそっと手を伸ばして、その頭を撫でた。

途端に、鋭い刃のようであった彼の目付きが元に戻っていく。


彼は、自身のことを乱暴で恐ろしいあやかしだという印象を早苗に植え付けて、遠ざけようとしていた。

多分、今までのことを全て忘れてしまった早苗にとって、あやかしである彼の正体は受け入れられないものだろうと考えたのだろう。

あやかしは人に恋焦がれるが、人はあやかしを忌み嫌うからだ。


「昔、最初に会った時も同じことを言ってた。俺の耳をくすぐって、尻尾を引っ張って、かわいいって笑ってたよ」


そう言って彼は、早苗の肩に顔を埋める。

温かな彼の体温が伝わってきて、そのぬくもりが、不思議と心地よく感じられた。



──────────────



何も思い出せないまま、無情に時は過ぎていく。

時仁はそれでもいいと笑ってくれるが、自分の病すら祓えない己への不信感は募るばかりだった。


今帰っても、時仁に無駄な心配をかけるだけだろう。

そうしてしばらく落ち込んだ気持ちのまま、わけもなくぶらぶらと歩く。

日が出ているとはいえ、真冬の外は寒い。

雑踏の中、しゃん、しゃんと早苗の鈴の音だけがいやに耳につくようだった。


「お嬢ちゃん、考え事かい?」


ふと、背後から声をかけられて振り返る。

赤みがかった髪の、知らない男性がいた。

彼は人の良さそうな笑顔で、早苗に近づていくる。


「迷子かなって思ったけど、なんだか深刻そうな顔してるから気になっちゃった」


「迷子じゃありません。それにもうそんな歳でもありません」


彼は時仁と同じくらいの外見年齢で、知り合いにこんな人がいただろうかと思ったが、やはり初対面だった。

まさかこの歳で迷子に間違えられるとは思わなかったが、見知らぬ人から声をかけられるほど沈んだ顔をしていたなんて。


「お気遣いありがとうございます。ですが、私のことは気にしないでいただけると」


「そんなこと言わずにさ、俺に相談してみなよ。よく知らない人の方が気兼ねなく話せることもあるだろ」


軽薄そうな笑顔だが、言っていることは確かにと頷きたくはなる。

だが、他人に話して解決する悩みなら、こんなに長い間苦しんだりしない。


「ですが、本当に私は……」


「そうだ!俺、この町には来たばかりでよく分かってないんだよね。良かったら、あんないしてくれないかな」


断ろうとすれば、強引に話をすり替えられた。

一体なんなのだと思いつつ、聞けば、寺に用があるのだが場所が分からないのだと。

迷子はそちらの方じゃないかと言いたくなる気持ちを抑えて、しぶしぶ早苗は彼を案内することに。


「お嬢ちゃんってもしかして良いとこの娘さんだったりする?」


早苗の身なりをみてそう思ったのだろう。

相手に見くびられないよう、できる限りきちんとした格好を心がけているが、見ようによればそう思えなくもない。


「いえ、私は祓い屋をやっております」


「へぇ!そりゃすごいな!」


彼の声が一段と跳ね上がった。

早苗は一瞬驚くと、彼の顔をまじまじと見る。


「ああ、疑ったりはしてないからね?俺、祓い屋さんにはお世話になったことがあるから、君のこと尊敬するよ」


「……別に、私なんて尊敬されるような人ではありませんよ」


無意識的に、拗ねたような返事をしてしまった。

嬉しそうな顔で祓い屋へ感謝している彼を前にすると、どうにもその賞賛が受け取り難かった。


「もしかして、仕事で何か嫌なことでもあったのかい?」


気遣うようにそう尋ねられて、こくりと頷いた。

そんなつもりはなかったのに、彼の人懐こい雰囲気につられてしまったのだろうか。


早苗は祓い師としての自信を無くしかけているということを思わず話してしまった。


もちろん、時仁のことや具体的な名前などは伏せて。


「そうかぁ……それは、大変だっただろうなぁ」


話を聴き終わって、彼はしみじみとそう言う。


「あんたは偉いよ。よく頑張ってる」


立ち止まって、早苗の瞳をしっかり見つめる。

飾り気のない素朴で率直な言葉は、早苗の心を溶かすようだった。


「……ありがとう」


小さな声で呟く。

いつしか早苗は敬語も忘れて、友人に話すように、ふっと表情を緩めた。


「もう少し、頑張ってみようと思う。きれいごとでも」


早苗の言葉に、彼は大きく頷いてくれた。

苦しい思いを抱えているよりも、こうして、誰かに話すことで楽になる。

成海たち姉妹に言ったように、きれいごとでもその言霊は早苗の心を支えてくれるようだった。


目的の寺はもうすぐそこのはずだ。

思いがけない巡り合わせだったが、そろそろ別れなければ。


「ただ、俺が思うに……今の君に本当に必要なものは、もっと別にあるんじゃないかな」


「……え?」


思わぬ言葉に、早苗は足を止める。

どういうことだろうか。

先程と変わらないような笑顔なのに、その視線は早苗を射抜くような鋭いものだった。

なんだか急に、彼の雰囲気が変わってしまったような……。

いつの間にか、早苗の鈴の音が鳴らなくなっていた。


「もっと別って、」


「例えば、失った記憶を取り戻す薬、とか」


早苗は息をするのを忘れてしまったかのように、かたくなってしまった。


「なん、で……」


先程まで隣にいた彼と、今目の前で喋っている男は、本当に同一人物だろうか。

屈託なく笑っていた彼のその眼差しは、真冬の冷たさそのものだ。

早苗の鼓動が早くなる。

その言葉は、まるで協会で問題となっているあの人物、六檀のようではないか。

甘い言葉で素敵な薬を売りつけて、人が呪いに蝕まれる様を眺めるような、そんな男。


「あなた、まさか六檀……っ!」


いつの間にか、周囲の景色が今まで通ってきた道と違うことに気づいた。

気付かないうちに、結界に引きずり込まれたのか。

一体いつ、どうやって。

彼は祓い師ではないはずだ。

隣にいた時、こんな結界を作り出せるほどの霊力は感じられなかった。

混乱する中、なんとか札を取り出して身を守ろうとするが、いくら霊力込めても術は発動されず、早苗の指が震えているだけ。


「嬉しいねぇ、俺のことを覚えてくれてるなんて。君さえよければ、俺と一緒においでよ。君の悩みなんて、いくらでも解決してあげるさ」


彼……否、六檀は早苗に恭しく差し伸べたが、当然その手をとるわけがない。

こんな男についていってしまったことを心底後悔する。


「あやかしを恋人に持つ、不思議な術師の娘……君がいれば、きっともっと楽しくなる」


「……っ!」


六檀は時仁のことを、知っている。

時仁の正体は、早苗とごく一部の人間しか知らないはずのことだ。

それにも関わらず、初対面であったはずのこの六檀が知っているということは、入念に調べ尽くしたとしか考えられない。

今日出会ったのは偶然ではなく、仕組まれたものだったのだ。


嫌だ、嫌だ。

はやくこんな奴、霊力で吹き飛ばして退治してやりたい。

でも、体は縛られたかのようにまったく動かない。

真冬の寒さも忘れ、早苗の首すじを冷や汗が伝う。


「だめ、負けない……!」


それでも早苗は諦めなかった。


「帰らなきゃ。時仁が待ってるから」


早苗の言葉に、六檀は眉をひそめる。


「忘れてしまった男への未練は捨てた方が君の為だと俺は思うよ」


「それでもいいの。それに、忘れてしまったけど、彼のことをもう一度好きになったっていいでしょう」


初めて、六檀が表情を崩した。

明らかに苛立って、嫌悪感をあらわにしている。

早苗はそれに構わず、今度は軽やかに札を振るった。


「『応えよ。現世の道を示せ』」


景色がぐらりと揺れる。

少しの間、霧のようなものに視界が包まれ、それが消えると早苗は元の世界に戻っていた。

どこから道を支えられていたのか、水明町の外れにある林の中に来ていたようで、当たりは雪と木々以外何も無い。


早苗の鈴が、しゃんと鳴った。

その直後、早苗の予想通り、彼の気配がした。


「───────お前、俺の早苗に手ェだしやがったな」


現れた時仁は真っ先に六檀の顔面に殴りかかった。

狛犬のあやかしだというのに、恐ろしいほどの鬼迫で六檀を攻撃している。

顔の次は六檀の腹に蹴りをいれると、凄まじい音と共に六檀はよろめいた。

しかし、殴られっぱなしの六檀だったが、この程度で倒れる相手なら協会は苦労しない。


「乱暴だな。これだからあやかしは」


血の混じった唾を吐き捨てると、ぱちんと指を鳴らした。


「待てっ!」


六檀の姿が、幻影のように消えてしまう。

だが、直前に間一髪で時仁が掴んだものは、成海のところで捕まえたものと同じ式神の形だった。

時仁は悔しそうにそれを握り潰すと、早苗の元へ駆け寄ってくる。


「早苗……!」


時仁は時々、動揺したりすると早苗のことを呼び捨てにする。

彼の素の顔が垣間見えるようで、早苗はそう呼ばれるのは嫌いではなかった。


「ただいま、時仁」


「おかえり、早苗ちゃん」


時仁はそう言うと、早苗に勢いよく抱きついてきた。

その弾みで雪の上へ押し倒される。

降り積もった雪はまだ誰にも触れられておらず、ふかふかで柔らかく、早苗と時仁を受け止めてくれた。


「心配した。また、どっかに消えるんじゃないかって……!」


もう二度と離さないと言わんばかりに、時仁は早苗をきつく抱き締めて離そうとしない。

『また』、ということは、過去に消えたことがあるのだろうか。

だがこれで一つ、過去の手がかりが増えた。


「大丈夫よ。私は消えたりしない」


「記憶なんかもうどうだっていいんだ。早苗ちゃんが俺の全部を忘れたままでも俺はいいんだよ。だから、一人で悩んだりなんかしないでくれ!」


時仁が早苗の肩に顔を埋めた拍子に、また鈴が鳴る。


「早苗ちゃんがあの男に着いてったかもって思うと、俺は……」


「そんなことありえないわ」


六檀について行くなんて、そんなことは絶対にありえない。

しかし、彼の言葉に心が揺らいだのは確かな事実だ。

どうしてあんな言葉に騙されてしまったのか、自分で自分を信じられなくなる。

それでも、早苗は絶対に時仁の傍を離れたりしないと約束する。


「嘘だ。早苗ちゃんは、俺のこと好きじゃないんだから……」


何を不安がっているのかと思いきや、まさかそんなことだったとは。

さっきまでの鬼迫はどこへやら、甘えたがりな子犬のように早苗に頬を寄せている。

これほど毎日共に暮らしてきて、あんなに近い距離にいるのに伝わらないなんて。

まったく、恋愛とはややこしいものだ。


「捨てたりなんかしないわ」


時仁を宥めるように、自分の気持ちを素直に口に出す。


「だって私、あなたのことが好きだもの」


「え」


予想外だなんて言わないで欲しい。

そもそも、好きでもない男からの口づけなんか受け入れたりしないのだ。

早苗の居所が分かるように、妖術のかかった鈴を身につけさせたり、早苗が悲しんでいる時には笑顔にさせようと必死になってくれたり。

あの時の口づけだって、人前でそういうことをするのは苦手なのに、早苗のためにわざとしたのは分かっている。

今だって、必死になって探して助けに来てくれた。

目が覚めた時からもうずっと、時仁にこんなに愛されて、好きにならないわけが無い。


「本当に……?」


「ええ」


早苗は時仁を見つめ、はっきり言う。


「もう一度、あなたのことを好きになったのよ」


「早苗ちゃん……!」


二人して雪の中で抱きしめあって、その拍子に転がったりして。

着物が雪に塗れるのも構わず、そうしていると、ふと、早苗の頭の中に似たような光景が浮かび上がってきた。


「前にも、こんな風に雪の中を転げ回ったことがあった……」


郷にいた頃の出来事だろうか。

断片的だが、今より少し若い時仁が、雪を背景に早苗に向かって笑顔で手を伸ばしていた。

今年の冬が記憶を失ってから時仁と過ごす初めての冬なので、これは過去のことになる。


「思い出した?」


「ちょっとだけね」


驚く時仁に、いたずらっぽく笑い返した。


「帰りましょう、日和堂へ」


六檀のことも遠十郎に報告へ行かなければならない。

まだまだやることは山積みだが、もう早苗は先程までのように悩んだりはしなかった。


ほんのちょっとした気の迷いからだったが、どうにも自分は大切なことに気づいていなかったようだ。


記憶が戻らなくても、自分を治せなくても。

時仁が隣にいてくれるのなら。

よそ見なんかしなくたって、早苗を一番大切にして慈しんでくれる彼がいるなら大切なことを見失ったりしない。

失くした記憶の欠片は、こうやって時仁と一緒に少しずつ拾っていけばいいのだと。




後日、遠十郎のところへ時仁と共に報告に行ったところ、先日の依頼で治療した成海が来ていた。


「まあ、早苗さんと時仁さんではありませんか!ここでお会いできるなんて!」


時仁がよっと手を振って愛想良く笑うと、成海も嬉しそうに手を振り返してくれる。


「成海さん、もうお元気になられたのですね」


「ええ。本当に、早苗さんたちには感謝しています。これも、遠十郎さんが日和堂を紹介してくださったおかげですね」


成海は、先の件での感謝を述べるため、遠十郎に挨拶に来ていた。

その後で日和堂にも寄ろうとしていたらしく、ここで会えてちょうどよかった。

もうすっかり元気になったようで、いい笑顔を見せてくれる。


「俺はただ紹介しただけさ。ともかく、成海さんが元気になって本当によかった」


「遠十郎さん……!」


成海が遠十郎に向ける視線は夢見る乙女のものだったが、肝心の本人にはまったく届いていない。

思わせぶりな優しい態度を取っておきながら、本人は恋愛をまるで解さないのだから、今だって成海の気持ちにこれっぽっちも気づいていない。

罪な男だと早苗は内心思いつつ、冷ややかな視線を送っておき、成海が帰った後にようやく本題に入る。


遠十郎と別れたあと、六檀天山と邂逅したという話。

彼から、誘いを受けたという話。


全て聴き終わった後、遠十郎はふむと声をこぼした。


「まさか早苗の所にも来ていたとはな……」


すっかり頭を抱えている。

ということは、早苗以外にも遭遇した祓い師がいるということか。


「あの野郎、他の祓い師のところにも来たのか?」


「ああ。複数名報告は聞いているが、早苗のところに現れた赤毛の青年とは少し違うな。妙齢の女性だとか、腰の曲がった老人だったりとか」


恐らく、そのどれもが式神を使った実体のない幻影のようなものなのだろう。


「だが、これで六檀は仲間割れを狙っていると見て間違いないな。六檀の目論見通りにさせてたまるものか。次の会合で皆と話し合わなければな」


呪詛を人にばらまくような人間だ。

祓い師たちが内部分裂する様を見て楽しみたいというあくどい思考が透けて見える。


「あ、そうだ。遠十郎、これあげる」


時仁が思い出したように差し出したのは、ひしゃげてぼろぼろになった式神の形だ。


「六檀が置いてった式神。俺の霊力でぐちゃぐちゃになったけど」


「お、おお……。いつ見ても時仁の霊力は凄まじいな。是非とも修行をして祓い師になって欲しいところだが」


遠十郎はぎょっとしつつも、時仁にお決まりの言葉を言っている。

彼は時仁の霊力を見込んで、祓い師になることを何度も勧めているのだ。


「えぇ、俺は早苗ちゃんの為に生きてるからそういうのは断っとくよ」


しかし、時仁の返事は変わらない。

時仁の霊力が人ではなくあやかしのものであると遠十郎なら気づいているだろうが、黙ってくれているのだろう。

あやかしでありながら祓い師をする、というのは聞いたことがないが、かなり強力な戦力になることは間違いない。

それでも無理強いせず、時仁の答えを相変わらずだなと笑ってくれるのは彼の優しさだ。


「ところで早苗。悩みは晴れたようだが、どうだ」


「ええ。もうすっかりね」


「遠十郎、恋は人を強くするんだぜ」


早苗があえて何も語ろうとしないでいると、背後から抱きついてきた時仁がそんなことを言った。

恋は『人』を強くする。

それは、きっと、あやかしも同じなのかもしれない。


「ん?どうしたお前たち。何かいいことでもあったのか」


心做しか普段から近い距離がもっと縮まってないかと遠十郎は笑っている。


「早苗ちゃんがいるなら毎日いいことだらけだよ」


「またそんなこと言って」


そう言ったが、早苗もそれは同じだった。

時仁がいてくれるから、早苗は幸せでいられる。


これからきっと大変なことが続くだろう。

六檀のことも、記憶のことも、解決していないことはたくさんある。


けれども、それらに立ち向かう為の不思議な薬も特別な何かも必要ない。

恋があるのなら、きっと大丈夫なんだ。


早苗は今日もまた一つ、記憶を積み重ねていく。

忘れてしまったものを辿るのではなく、今の早苗と時仁の記憶を。

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