パーキング
小品です。。。
「どこか出かけようか?」
となりでポテトチップスを頬張りながら、バラエティ番組を見ていた彼女に声をかけた。
久しぶりに風が穏やかで、窓の外に春めいた青空を見たせいかもしれない。
「えっ、珍しい」とポテトチップスを持った手を止め、彼女が反応した。
「わたし、海がいい」
彼女が、テレビから視線を移してきてリクエストする。
このアパートから海までは、歩いて十五分ほどだ。平日とはいっても、この陽気なら砂浜は、サーファーやらサイクリングや散歩を楽しむ人たちが、そこそこはいるだろう。充実した休日を満喫するために。
そんな中に埋もれるのは嫌だった。やんわりと拒絶する。
「では」と、彼女が提示したのは、海とは逆方向に十分ほど歩いたところにあるショッピングモールだった。取るに足らないわずかな買い物と遅い昼食が理由だった。さほど食欲は無かったが、昼過ぎの時間でもあったので、ついつい同意した。外出を提案したことをちょっとだけ後悔してきた。
彼女はポテトチップスを一枚口に入れてから、手に付いた粉を払うため手を叩き、そして立ち上がった。
彼女は言った。
「さあ、行こう」
僕は、手に持っていた読みかけの文庫本を渋々と閉じた。
ショッピングモールは週末の半分くらいの人出だった。それでも思っていたよりは多い。この地域では比較的大きく、スーパーやホームセンター、ディスカウントショップ、本や衣料品などの専門店が集まっているだけのことはある。
二人でフードコートで軽い食事をとった。その間中、彼女は買いたいもの、見たい店を、さもリスト化されているかのように並べて話していた。
思えば、二人で買い物なんて久しぶりだ。フリーターで休みが不定期な彼女が訪ねてきた日は、大抵アパートで二人ともゴロゴロしている。部屋を出るのは、せいぜい外食に出かける時くらいだ。僕が失業してからのここ数週間はその外食自体すら減った。
今僕は自称、高等遊民__失業者だ。求職活動もさほど真面目にしておらず、日がな一日、本を読んで過ごしている。一件だけ、今までの職歴に比べたら地味で味気なく、更には薄給で堅実なことだけが取り柄の仕事で内定をもらったが、やはり断ろうと思っている。
「僕はテラスで本を読んでいるよ」
彼女は「あ、そう」と頷いた後、買い物リストの話はもうしなくなった。
「でも、せっかく来たから、私は一周りしてくるね」
もう付き合って九年目の彼女は、「せっかく二人で来たのに……」とか言わない。お互いマイペースだ。そして、この緩やかな関係が二人にとって、とても心地いい。だから結婚もせず、他人からみたら「ダラダラと」続いているのだろう。そして、お互い「婚期」と言われる年齢はとうに過ぎていた。
実家の母親からは、それなりのプレッシャーが以前にはあった。しかし、彼女の話を母にすることもなく、彼女にもそうした話をしたことはなかった。
二階にあるテラスは、L字型をした建物の外に面した広い通路の手すりに沿っている。そこにいくつもの木製のテーブルセットが並んでいた。老人が座ったまま居眠りをしている席の向かい側にある自動販売機でペットボトルの水を買う。そして、食事をしながら談笑している女子大生らしき二人組から離れている、日当たりの良さそうな席を見つけて腰掛ける。
ショルダーバックから読みかけの文庫本を取り出して、しおりが挟まれたページを開いた。
子どもの時から本は好きだった。でも、学生時代は「本ばかり読んでいる暗い奴」とか言われるのが嫌で、友人たちとつるんで遊び回っていた。それはそれで楽しかったが、読書量は減った。恋人ができて付き合っている間、さらに読書量は減った。その恋人と別れても、なぜか読書量は戻らなかった。就職すると、比較的忙しい業界でかつ多忙な職種だったためか、より一層読書量は減った。結果、書籍を手にすることがあっても、それはヘミングウェイや太宰の小説から、マーケティングやプロモーションなどについてのビジネス書に変わった。そして目で追う文字は、自分がーーまたは他人が作成した会議資料や企画書などとなっていった。
若い時は、ゆっくりと小説などの本を読む時間は、定年過ぎまでないかと思っていた。仕事を辞めてよかったと思う。今、このひとときは。
本から目を離し、ペットボトルの水を一口飲む。その時、手すり越しに下の駐車場を見下ろした。テラスからは地上の広い駐車場が一望だった。他に屋上や屋内にも駐車場はあるが、真夏以外の天気がいい日は、便がいい地上に停める車が多い。
ショッピングモールの建物に近い方により多くの車が、背中合わせに並んでいる。何台かは、少しでも建物に近い駐車スペースに自分たちの居場所を探してゆっくりと動き回っている。建物に近い場所から車が出て、駐車スペースが空くと、そこはすぐに他の車が占める。建物から離れたところはスカスカで、すぐに停められるのに。
僕はふと、ひと月前に退職した会社でフロアに並んだデスクを思い出していた。窓を背にした席が部長クラスの席だ。通路を挟んだその前には、向かい合わせに並んだデスクで作られた島があり、役職が高い者ほど窓に近い席が割り当てられている。そして、ほとんどの者が少しでも窓に近い席を手にしようとアクセクしている。僕の席は、僕がいた島では窓に最も近かった。でも今は、他の誰かが既に駐車しているかと思うとなんか可笑しい。
そんなことを考えて駐車場を眺めてみる。ディスカウントストアの入口前に止まっているあの高級車は、見栄っ張り。ショッキングピンクのあの軽自動車は、目立ちたがり。少し斜めに止まっているあのワンボックスカーは、多分ズボラ。いろいろな個性がある。
今駐車場に入ってきた白いハッチバックの車は、丁度空いたスペースに駐車しようとバックするが、入りきらないとみて、車を少し前に出してから再度バックをする。しかし、まだまだ入りきらなさそうだ。再び切り返すために前進する。きっと不器用な人なのだろう。僕みたいだ。
そうかと思えば、少し離れた場所では、背中合わせにある駐車スペースの両方とも空いているところに、頭から突っ込んで、奥のスペースまで進んで停まった要領のいいヤツもいる。
あっ__あれは。見慣れたスタイルの古い銀色の車が、道路から駐車場へ入ってきた。色は違うが、昔実家で父が乗っていた白いセダンと同じ車種だ。
その銀色のセダンは、迷わずに建物から少し離れた、誰も駐車していない場所へ向かい、苦も無く、まさに流れるような所作で、バックして駐車スペースに停まった。
古い銀色のセダンからは、初老の夫婦と思しき男女が降りて、二人並んで談笑しながら建物に向かってくる。
既に実家近くの施設に入っている父は、根っからの理系で口下手な技術者だった。企業の研究機関で、定年退職するまで勤め上げた。退職後は、そんな父と違い、社交的で快活な母からその無愛想ぶりを責められ、詰られて暮らしていた。その母が亡くなってからは施設に入っている。
今はもう無人になっている実家の近くに嫁いだ姉からは、「たまには帰ってこい」「転職するなら実家から通える仕事場を探せ」と時々連絡が来る。正直うざったい。
白いセダンが現役だった頃の週末は、行動的な母が父を急かして、小さかった僕と姉を乗せて、よくドライブに出かけたものだった。
帰りの渋滞中、みんなが疲れて車内で寝ていても、黙って運転し続けた父。人付き合いが苦手できっと苦労していた会社で__でも家族のために、定年まで勤め上げた父。話好きで話題が多い母から、どんなに詰られても言い訳せずにひたすら母の愚痴を聞いていた父。
父は今施設では、いつも黙ってニコニコしている人柄からか、さほど手がかからないので、お世話をしてくれる人たちからの評判は悪くないようだ。
ペットボトルの水を一口飲んで、駐車場を改めて見下ろす。形も大きさも様々な車たちが、それぞれの色で自己主張して、器用だったり不器用だったり、高級志向だったり実用志向だったり、それでも決められた線で区切られた枠の中に背中合わせに並んでいた。少し離れた場所には、見慣れた古い形のセダンが、やや黄色くなった陽の光を反射して一台ポツンと止まっている。
なぜか目が潤んできた。
そうか。そうだ。そんなこと、わかっていたことだったんだ。
大きなビニール袋を一つぶら下げて、彼女が近づいてきた。
慌てて目をこする。
「お待たせ」
文字通り音を立てて、テーブルの上に袋を置く。
「寝てた?」
テーブルをはさんで、向かい側の椅子に座った彼女が、僕の顔を覗き込んで尋ねてきた。涙ぐんで赤くなった目を見られたのだろう。
しかし、僕の答えを待たず、レジで前の客が大量の買い物だったせいで時間がかかったなどと、さほど不満そうでもなく、笑顔で話し始める。
突然、自分が可笑しく思えた。声を出して笑いだす。
彼女は大丈夫かと尋ねてきながら、不審げな眼差しを向けてくる。それはそうだろうね。それがまた可笑しくて笑いが止まらない。
きっと僕は、地味で味気ない、薄給でも堅実な仕事に就くだろう。
また、彼女を実家のある街へと誘うだろう。そして、施設にいる父や実家の近くに住んでいる姉夫婦に会わせようとするのだろう。
「海へ行こう」
笑いを押し殺しながら、僕が言う。
「えっ」と声に出して驚く彼女をしり目に、文庫本とペットボトルをバックにしまい、立ち上がって、テーブルの上に彼女が置いたビニール袋を手に持つ。
「ちょっと、どうしたの?」
また、笑いがこみ上げてきた。君が可笑しいんわけじゃないんだ。自分自身が可笑しいんだ。僕は実は弱い人間なんだ、言い訳して、逃げてばかりいる。そうだったんだよ。でも、声に出すときっと泣き出すか、笑いが止まらなくなるので、黙っていた。
イグニッションキーを回すんだ。やっと言えた一言。
「さあ、行こう」
僕たち二人は、海へと続く片瀬川沿いの遊歩道に向かって歩き出した。
初投稿でした…