賛美歌と象徴詩
種子島からこのかた、神の言葉を説明してきたのは日本においてもラテン語だった。この国に信教の自由な時代が到来した時は、西洋においてもラテン語の時代は終わり、列強の言語で書かれた聖書や聖歌、賛美歌がやってきた。これ等の翻訳は一大事業となり、日本語の表現力を充実させるのに大きな影響を及ぼした。
さて、時は過ぎて新体詩たけなわの時代、日本語詩に多大な影響を与えた物のひとつに象徴詩がある。残念ながらフランスのオリジナルな象徴詩とはズレた方向に進んでしまったが、詩に言葉以上の何かを語らせようという試み自体は悪くない。翻訳詩に常につきまとう言語の壁の問題を打ち破る可能性をそこに見る。
【賛美歌】
街に流れる賛美歌が、街行く人を駆り立てる。
かつて多くの賛美歌の、翻訳進めた時代には、
調べに乗せる工夫やら、歌詞の格調高くする
あまたの工夫と情熱の、ありったけをぶつけてた。
賛美歌の訳は日本語の表現力を育んだ。
今じゃ季節の風物詩、百九番は有名だ。
【象徴詩】
言語の意味は置いといて、別な何かを感じ取れ。
象徴、印象、ニュアンスと、言い方色々あるけれど、
言葉の示す先の先、つまるところは感性の、
おもむくままに描くもの。だから、読み手も詩心と
創造力を持たないと、これを読むのは難しい。
作者が描いたイメージと、読者が感じた印象が
同じであるとは限らない。黙読、朗読、映像や、
音楽さえも動員し、イメージ作りに役立てる。
書き手も読み手も詩人だな、と思う私は不調法。
言葉の意味に囚われず、感じる処がゴールなら、
訳詩が抱える問題は、ここでは気にする事は無い。
言語の壁を越える詩を、期待させてくれそうだ。




