護る者、守られる物
今朝交わした約束の通り、美鶴は急いでいた。
本当はもう少し早く帰ろうと思っていたが、通常より担任の話が長かったので焦っている。
真白のことだから怒りはしないと思う。
でも寂しがりはする、そう思って急いでいた。
今日、寒さこそ残ったが空は晴れ渡っていて雲ひとつない。
仕事は休みなのかな、と美鶴は空を見ながら思う。
角を曲がり門前にたどり着く。
息を整えながら、玄関に向かって歩いていった。
「ただいま」
玄関の扉を開けて、美鶴は言う。
中は相変わらず静まり返っていた。
真っ先に自室を目指す。
日の当たるところで気持ちよさそうに寝ている真白の姿が頭に浮かぶ。
だが襖を開けると、そこに真白はいなかった。
「……真白?」
名を呼んでみても返事はない。
姿が見えないのだから当然だろう。
とりあえず、鞄やコートを置いて真白を探そうと部屋を後にした。
美鶴の足音が響く。
足音以外、物音一つしない家の中。
たった半日一緒にいなかっただけなのに、美鶴は何か物足りなさを感じていた。
居間の前に来た美鶴は立ち止まった。
何故か分かる。
真白はこの部屋にいる。
そっと襖を開ける。
そこにはこたつで縮こまって寝ている真白がいた。
微笑ましくて、音をたてないように近寄っていく。
真白の頬にきらりと光る何かが見えて足を止め、真白を凝視する。
よく見ると真白は泣いていた。
眠っているのは確かだ。涙が頬筋をつたって流れていた。
「真白……?」
美鶴は近寄れなかった。
後ろから糸で繋がれているように、一歩も前へ進むことができなかった。
「…………さ、ま」
小さく真白が何かを呟く。
その呟きを聞いた瞬間、美鶴を繋ぐ糸が切れ、足は一直線に真白へと向かっていた。
「どうしたの、苦しい?」
そばに座って真白の涙を拭う。
その顔は、苦悶の表情を浮かべている。
一体どんな悪夢を見ているのか。
「か……あ、さま」
再度、真白が呟く。
とても小さいけど確かに母様と言った。
そして真白は目が覚めたのか、薄く瞼を開いて虚ろに宙を見つめていた
「大丈夫?私だよ、分かるでしょ?」
美鶴は空いている真白の手に触れる。
すると存在を確かめるように強く握り返してきた。
変わらず冷たい手は、心の陰の部分を表しているようで離せない。
瞳が美鶴を捉えてじっと見つめられる。
「うなされてたよ。ねぇ、大丈夫?」
息があがっている真白を落ち着かせようと美鶴は声をかける。
美鶴を見ている瞳は、奥底で不安と恐れに揺れて、とてもじゃなけど放っておける状態ではない。
「いか……ない、で」
懇願する声。
一体、何をそこまで恐れているのだろう。
ふと美鶴は気づく。
真白が見つめているのは、美鶴ではない。
彼女を誰かと重ね合わせているように思える。
「私は、どこにもいかないから」
どこにも行かない。
美鶴はその言葉を強く心に刻む。
「だから、おやすみ」
美鶴はそう言って強く手を握る。
真白は安心したように、弱く笑ってもう一度目を閉じた。
何故だろう。
先刻の真白は普段、美鶴には明かさない心を晒していたように見えた。
彼はその身の内に何を秘めているのだろう。
誰を自分に重ね合わせていたのか。
どんな夢を見ていて、何に恐れていたのか。
母様は、母親は。
昔、何があったのか。
期を見て話してもらおうと思い、美鶴はため息をついた。
数分後、真白は目を覚ました。
心配そうに自分を見る美鶴を見て、彼は首を傾げる。
「おかえり美鶴。どうしたの?」
真白は自分が泣いていたことが分からないようだ。
言わないほうがいいと思って美鶴は黙る。
でも夢のことを聞こうと思って、話し始めた。
「ねぇ、うなされてたみたいだけど、何の夢を見ていたの?」
真白は俯いてしまう。
僅かに見えた顔は泣きそうなのを堪えているように見えた。
「話を聞くことしかできないけど、話すだけで楽になることだってあるよ」
辛そうな真白なんて見たくない。
少しでも力になりたくて、美鶴の口は勝手にそう告げていた。
真白は顔を上げて美鶴を見る。
その顔は微笑んでいた。
優しい微笑みのはず、なのにどこか悲しさが見え隠れしている。
そして美鶴を心配させまいとつくった笑みのようだ。
美鶴は、自分と真白の間に壁があるように感じた。
そんな笑顔なんて、望んでいない。
「ごめん……」
美鶴が謝ると今度は純粋に不思議がるような表情になった。
「何故、美鶴が謝る?」
今度は美鶴が俯く。
とにかく笑顔を真白に強要したことを謝りたかった。
「謝るのは僕のほうだ。昔の夢を見ていた。でも内容は美鶴には話せない」
「どうして……」
真白を責めようとは思っていない。
でも自然に責めるような口調になってしまう。
「どうしても話せない。これは、僕の問題」
優しい拒絶だった。
どこまでも自分を気遣っている真白から、引き離されているようで悲しかった。
それでも美鶴は受け入れることにした。
「……分かった」
「でも…………、美鶴に話しておきたいことはある」
そう言って急に真白が複雑な顔を見せて、口篭る。
言いにくそうだと、傍から見ても分かる。
「どうしたの?」
美鶴がそう聞くと真白は悪い思いでも振り払うように、首を振って美鶴を見据える。
ひとつ、ため息をしておもむろに話しを始める。
「前にも話したと思う。雪神を狙う者がいるという話、ひとつ大切な事を言っていなかった」
そこまで言って、真白はまた口篭った。
そんなに話し辛いことなのか。
美鶴はまた思う。
自分は真白に無理に話させようとしているのじゃないか。
「話し辛いのなら、無理に話さなくていいよ」
その言葉を聞いた真白は静かに首を横に振る。
美鶴を捉える瞳は強い意志を宿していた。
「雪神が力を宿すと、邪神や餓鬼などという存在が心臓を奪うことなど不可能になる。それならば、力の継承を阻止すればいいと思う奴らがいるんだ。だから、これからは美鶴を狙う者が出てくるだろう」
狙われる。
その言葉に胸が波立つ。
美鶴の血に刻まれた記憶が警鐘を鳴らしている。
この話、聞かなくても分かる気がした。
「注意してほしい。僕はずっとそばにいるわけにはいかないから、たとえそばにいるとしても僕には美鶴を守るだけの力はない」
切実だった。
真白の思いはその目を見れば分かる。
恐れ、憂い、屈辱感。
いろいろな思いが混ざっていた。
「でも」
小さく真白が呟く。
「美鶴は絶対に、たとえ僕が死んでも守るから」
そう言って笑う。
嫌だった。
真白のその笑顔には距離を感じて。
自分が死んでもいいなんて言い方が嫌だった。
「なんで……なんで、そんな風に言うの。なんで笑えるの」
気づくと美鶴はそう言っていた。
悲しみ、怒り、いろいろな思いが混ざって今の美鶴を満たしていた。
「簡単に、死んでもいいなんて言わないで」
真白は美鶴にとって唯一無二の存在、なのに。
それが分かってもらえていなくて、悲しかった。
「自分のこと、命が軽い存在だなんて思わないで」
泣きそうになり、震える声を必死で抑えて言う。
真白はどんな思いで自分を守ると言ったのか。
自分の思いを分かってくれただろうか。
美鶴には、分からない。
「元々、出来損ないのこの身。美鶴を護るためなら、喜んで捨てる」
「やめてよ!」
美鶴は声を荒げて言う。
どうして分かってくれないのか、悲しくて腹立たしかった。
自嘲的な笑いを見せる真白を見て、それでも自分を護ると言った言葉を聞いて、美鶴の涙が頬を伝った。
「私の血が護るのは、物じゃない!ちゃんと心が通った、真白。あなたを護るんでしょ……。だから、そんなこと言わないでよ……」
言い終わって、堪えられなくなり嗚咽する美鶴。
畳の上に跡をつくる涙を見ながら、泣き崩れた。
熱を持つ美鶴の頬に、冷たい指が這う。
その指が流れる涙をぬぐってくれた。
言わずとも分かる。真白の指。
「…………美鶴は、よく泣く」
柔らかい声。
小さくても、透き通るような声。
「多くの神々は自分の子孫を残してくれる娘を大切に護る。たとえ力がなくとも、必死で護るんだ」
ゆっくりと話をする。
その声は泣いている赤子をなだめるような声だった。
「雪神も例外ではない。だから、僕も本能で美鶴を護る。昔、本当に小さいころだけど母様に言われたことがある」
母様。
その言葉を聞いて美鶴はハッとする。
いつのまにか涙は止まっていて、美鶴はじっと真白を見つめていた。
懐かしそうな顔をして話す真白はとても優しい。
「あなたはきっと将来、深い愛情を持って花嫁と接する。だからその都度の花嫁を大切にしなさいって、母様は言った」
美鶴の一滴の涙を拭って、髪を指ですく。
大切に、愛おしそうに触れる。
「頼りないけど、美鶴は必ず護る」
決意に満ちた瞳だった。
あまりにも純粋に向けられる真白からの思い。
美鶴もただ受けるだけは嫌だった。
「じゃあ、私も真白を護るから。だから、もうあんなこと言わないで」
ちゃんと理解してくれたのか。
それは分からないけど、先刻の真白の話や今の言葉に頷く姿を見て、今はそれでいいと美鶴は思った。
真白についてもまだ分からないことがたくさんある。
甘えただったたり、急に引き離すようなことを言ったり。
何を恐れ、何から抗い、何を秘めているのか。
真白の心にある陰を知りたいと思う反面、真白は許してはくれないだろうという思い。
何より、真白の母親の事を知りたい。
本当に知らないことがたくさんあると分かったら、できることはひとつだ。
「真白」
じっと真白を見つめる。
真白も美鶴の思いを読み取るように、見つめ返す。
「社に、行こう」
美鶴がそう言うと、快く頷いて立ち上がった。
真白には薄いピンクのマフラーを渡して。
美鶴は部屋からとってきたコートを羽織り、二人は玄関に向かった。