ある美容師の不思議な誇り
実銃を向けられたことがありますか。えっ。どういうことだ。実銃に関する物語がこれから始まるのだ。
「髪型は、どうなさいますか」
勲は、これをデンマーク語で発するのだ。ここは、デンマークの首都であるコペンハーゲンの美容室なのだ。
「いつもと同じような感じにお願いします」
若いデンマーク人男性がデンマーク語でそう答えた。
この日本人美容師は、一体なぜデンマーク語を話せるのだ。なぜコペンハーゲンで仕事をしているのだ。なぜなら、彼は、数年前にデンマーク人女性と結婚し、現在コペンハーゲンに住んでいるからだ。
美容室の入り口のドアが開き、またお客さんが入って来た。
「いらっしゃいませ。ご予約の方ですか」
「はい、十時からの予定をしています」
やはり、この美容室の中で飛び交う言語はデンマーク語である。
勲は、変わった人なのだろうか。コペンハーゲンで美容師をしているなんて。いや、変わった人ではない。彼は、多くの日本人と同じように、日本に生まれ育った。小さい頃から空手を習い、勉強はそこそこやっていた。特別変わったところがない、普通の日本人として育ったのだ。
だが、特別目立つところもなかったからこそ国内の恋愛市場において売れ余る存在に陥ってしまった。そしてそんな中、ふとしたきっかけで出会ったデンマーク人女性にどういうわけか魅力を発掘させられ、今に至るというわけなのである。
コペンハーゲンの日本人美容師と聞くと、奇人を想像してしまうけれども、むしろ本人は、日本人としては、普通の人なのである。以上が、勲の大雑把な経歴である。
また入り口のドアが開き、お客さんが入って来た。この美容室は、どうやら人気らしい。それは、勲のカットが上手だからなのか、時々顔を見せる彼の奥さんが美人だからなのか、よく分からない。
ところで、実銃の匂いがまだしない。一体どこで登場するのか。この美容室に実銃を持った男でも現れるのだろうか。そういうわけではない。実銃の話をするために、彼が日本にいた頃、それも学生時代の頃まで遡る。
彼が、中学生の時である。その日は、日曜日で、彼は、昼間に起き、それから二階の自室の中でずっとゲームをしていた。ゲームをしていると時間は気付かないうちに進んでいくもので、いつのまにか午後五時ぐらいになっていた。
すると、階段をゆっくりと上る足音が聞こえ始めたのだ。彼は、異様な気配を感じて、ゲームを止めた。そして、その足音はだんだん彼の方に近づいて来てーー本当に信じ難い話なのだがーー知らない男が、彼の前に現れたのだ。それどころか、彼は右手に銃を持っている。
勲は、その時、当然戦慄した。いや「戦慄」でも「震撼」でも表現し切れないほどの恐怖を感じた。なぜなら、知らない男が何も言わず、ただ銃を持って眼前に立っているのだから。そして、その銃は、彼の方にゆっくりと向けられた。彼は、そこで自分の死を感じた。気絶してしまった。
意識が回復すると、側には両親がいた。そして、さっきの知らない男は、両親の知己であり、勲に生きてることの素晴らしさなどを学んで欲しいためにあのような芝居をしてもらったんだと落ち着いて説明してくれた。聞いた直後は理解し難かった。
勲は、特に変わった人でもないが、ほとんどの日本人、デンマーク人が経験したことのない、この、実銃を向けられた経験というのをいつしか自らの誇りとして感じるようになった。先進国に住む人間でありながら、実銃を向けられた経験をもつということ。あれは実銃ではないはずだが、向けられた時、体は実銃と捉えたから、実銃としてもよいはずである。
当然ながら、実銃を向けられた経験は、現在のコペンハーゲンの美容師としての職業に、見える形では、何の役にも立たないだろう。軍人でもないんだから。ただ、人生はそういうものではないだろうか。漫画やアニメの中ではない、リアルな人生、本物の人生においては、何でもかんでも結びつくものではない。そして、リアルな人生では、大きなことなんて望めるものではない。だが、リアルな人生では、大したことのないものに価値を感じることがある。
勲にとって、どういうわけか、あの経験が愛しい。自分のアイデンティティを支えてくれる程のものに感じてしまうというのである。
勲は、日々、コペンハーゲンでデンマーク人の髪を切る。
「実銃を向けられたことがありますか」
と時々彼がデンマーク人に尋ねると、当然まずは驚かれる。
拙い文章を読んで頂き、ありがとうございます。あらすじや、本文中でも少し強調したように、この話は、「リアリティ」「現実味」を意識して書かれています。それは、色々と説明し難い、分かりやすくないという感覚です。
普段、生活していて、なかなか自分のアイデンティティを感じられない人をイメージしました。そんな中、自己の存在を回復させるにはどうしたらいいのか、それを追求しました。