どうか、忘れないように
わからない、と思った。
グレン翁は、分らないと、思っていた。
けれど叩きつけられるそれから、飲みこまれるようなそれから、逃げることなどできなかった。
怜悧な美貌を湛え、いつでも冷たくて手酷くて、でもひどく優しかった少年は、
叫ぶ。
「俺を見ろ! 逃げるんじゃねえ!」
逃げているのだろうか、己は。グレン翁にはそれすら、もう自覚できない。
ただ怖いと思った。
吹き付けるような殺気が、ではない。
でもどうしようもなく、グレン翁は、怖かった。
ミコトが、怒っている。
美しく、優しい、あの子が。
いつのまにかその後ろに下がった、スラギが、アマネが、ヤシロが、
傷ついている。
理由はわからないのに、はっきりとその眼に浮かんでいる。
それらが、どうしようもなく怖い。
……怖い。
なぜだろう。……どうして、
グレン翁には、分らない。
わからなかったのに。
「――てめえのくっだらねえ矜持のために! 俺の大事なあいつらを! 貶めてんじゃねえよ!!」
腰髄まで揺さぶられるような怒声が。
喰らい尽くすような感情が。
グレン翁を襲う。
――リゼライア・グレミリオ・ディ・オロストは、神だった。
この世を作り、育て、回す、唯一の存在だった。
長く長く。
名前さえも初めは持たなかった。
ただ、そういう存在だった。
そういうふうに、産まれてきた。
そういうふうに、出来ていた。
例えばヤシロが魔王であるように、アマネが王族であるように、スラギが両性体であるように、ミコトが神であるように。
グレン翁もまた、神だった。
全て自分の手で行ってきた。
全て、自分で勝手に、行動してきた。
自分で決めて、進んできた。
放置したもの、失敗したもの、うまくいったもの、楽しかったこと、苦々しかったこと、面倒だったこと。たくさん、たくさん。
自分で、自分の手で、自分の意志で。
自分だけだった。
そうしてなんだって、どんなことだって、自分でやっていたから、
――グレン翁は知っていた。
己の次代には、どんな力が必要なのか。だって己の現身だ。知っていた。世界の発展を願ったことで、失敗した過去があったから、余計に。
……それでもスラギを、アマネを、ヤシロを、生み出した。力を、与えた。
知らないふりをして。
生み出した後だって、神たるミコト以外は、眷属とする必要もなかった。そのように器を与えたのはグレン翁なのだから、只人のように戻すことも簡単だった。
それも、気づかないふりをしていたのだ、本当は。
知らないふりをしたかったから、忘れていたんだ。
だって、グレン翁は神だった。
グレン翁は全て、自分の手で成し遂げてきた。
だからグレン翁は、独りだった。
長く長く。
目の前に激高する神がいる。その後ろに傷ついた眷属がいる。
怒っている。悲しんでいる。それをしたのは、
――ああそうだ、とグレン翁は唐突に理解した。
自分は彼らの存在そのものを、侮辱したのだ。
だから、こんなにも。
彼らは怒り、嘆いていて。――――だからこそ、グレン翁は恐れている。
どうしようもなく怖い。
お願い、嫌いにならないで。
ひとりぼっちは、さびしいんだ。