第1章“入手” -9 藍澤 くるみ
帽子を深めに被り眼鏡をかけているが、間違いなくクルミンだ。
発散される“良い女オーラ”。
服装は到ってシンプルだ。白いノースリーブのシャツに水色のデニムスカート。ベージュのストールを肩から掛けている。
特別目立つ格好ではないのに、ものすごく目を引くのは、アラタがクルミンだと知っているからだろうか。
周囲を見渡したが、意外と彼女を見ている人は少ない。
若手No.1女優だと気づく人はいないんだろうか。店のすぐ前に、クルミンのアップが写ったお茶のどでかいポスターが貼ってあったと言うのに。
「あ、あの…。」
思い切って声をかける。
「あっ!あの…、どうも…。」
まだ来ないと思っていたのだろうか。
声を掛けられた時の驚きの声が大きく、一瞬周囲の目が彼女に向いた気がした。
気づかれたりしたら面倒だし、彼女クラスになると所謂パパラッチが付いていてもおかしくない。
何を話せばいいのか分からないが、とりあえず注文して間を持たせる。
「あの…藍澤さんは何を飲まれますか?」
「えっと、じゃあウーロン茶で。」
“飲まないのか、ちょっと残念だな…。”
「すみません!」
店員に声をかけると、しずしずと近づいてくる。
以前かおりと一緒に行った店の様な勢いはない。洗練された所作、という感じだろうか。
座席のスペースも広いし、安い店にありがちなデカデカと貼られているポスターやメニュー書きは見当たらない。
薄い抹茶色の壁は清潔感があり、掃除も行き届いているのだろう。さすがは客単価15,000円の店だ、という印象を受ける。
「本日は北海道羅臼産の鮭がお勧めです。他にも・・・。」
店員さんがメニューを見せながら説明をしてくれている。
アラタは決してグルメな方ではないし、舌には自信がない。
大抵どんなものでも美味しいと言って食べられるのが自慢ではあるのだが、美味しいものを知っている大人というのはカッコいいとも思う。
クルミンの前だから、通っぽいものをオーダーしたいと思ったが、残念ながらよく分からない。
なので、2人の飲み物とお勧めにあった羅臼産だという鮭の酒粕風味焼きとサラダ、天ぷらの盛り合わせを注文した。
注文だけで汗を書いた様な気がする。
「素敵なお店ですね。良く来られるんですか?」
「いえ、2回目です。以前に一度だけ仕事の人に連れて来てもらったことがあって。」
嘘をついた。この店は初めてだし、アラタの給料ではよっぽどの記念日でもなければ来られない。
食通ぶりたかったというわけでもないのだが、慌てて口コミサイトで調べた、というのはどうもカッコ悪い気がしたのだ。
「そうなんですね。なんだか美味しそうで、楽しみです。」
そういって笑うクルミンは、天使そのものだと言っていい。また鼓動が早まるのを感じる。
「そうそう、改めて、今日はお疲れ様でした。」
アラタがそう言うと、思い出した様に少し息を吐いて俯く。
その様子もまた可愛いが、触れるべきではなかっただろうか。
「なんだか、私ちょっと落ち込んじゃって。今日の流れは頭に入っていましたし、マネージャーさんとも何度か練習してたんです。それがいざ本番になったら頭が真っ白になっちゃって…。」
何か声をかけるべきなのだろうが、何も出てこない。
アラタは黙って頷くだけだ。
「今までこんなことはなかったんですけど。皆さん、今日の為に色々準備して下さって、メディアの方も沢山来ていただいたのに、本当に皆さんには申し訳ない事をしてしまって…。」
相変わらず、言葉が出てこない。
「なんだか、最初に皆さんで打ち合わせをさせていただいた後から、なんだか別なこと…が…、えっと、ずっと頭から離れない感じになっちゃって、MCの方から話を振っていただいた時にもちゃんと聞いてなくって。本当に情けないし、申し訳なかったです…。」
「あぁ。でも、なんだかすみませんでした。僕が変なことを言ったからですよね。」
「いえそんな!私がキチンと仕事に集中していなければいけなかったんです。本当に申し訳ありませんでした。」
やはり、イベントの前にマインドコントロールパネルを仕掛けたのは間違いだったようだ。
当初はイベントの最中に仕掛ける予定になっていたが、それでもきっと駄目だったろう。終了を待ってからが一番良かったのだとは思うが、とはいえもう済んでしまったことだ。
アラタの自分勝手でクルミンに迷惑をかけてしまったが、まさかマインドコントロールパネルの事を話すわけにもいかないし、クルミンとしてもそんなことは思いもしないだろう。
「まぁ、過ぎたことは気にせず、気持ちを切り替えていきましょう。」
どの面下げてそんな慰めをかけるのか、と自分では思ったが、アラタ自身も気にしていたって仕方がない。
「そうですね、ありがとうございます。」
「じゃあ、話を変えましょう。僕、『半地下ブラスバンド』、3回位見ましたよ!」
『半地下ブラスバンド』は、クルミンの出世作と言っても良い映画で、田舎の高校のブラスバンド部が全国大会で優勝するまでを描いた青春映画だった。
『天使にラブソングを』の日本版だとか言われたその『半地下ブラスバンド』は大ヒットし、主演のクルミンはそこからドラマやCMに引っ張りだことなり、去年NHKの朝ドラの主演を演じたことでその人気を全国区にした。
「本当ですか!?ありがとうございます!」
「面白かったですよね、あの時は何歳位ですか?」
「撮影の時は、17歳でしたね。公開された時は18歳で、お正月の公開だったのでギリギリ高校生でいられたって感じでした。今見るとなんだか眉毛とかも太くてちょっと恥ずかしいんです。」
クルミンは今、23歳の筈だ。という事はもう5年も前の映画なのか。
クルミンは恥ずかしいと言うが、今より幼さの残るクルミンは可愛い。
実は中村からクルミンと一緒の仕事が出来るという事を知らされてから、この2週間だけでアラタはこの映画を6回も見ているのだが、さすがにそれを言うのは恥ずかしいし、ストーカーだと思われても困るので言わない。
もっと言えば、クルミンがこれまでに出ていたドラマや映画はこの2週間でだいたい目を通している。
その中でも『半地下ブラスバンド』は秀逸だと思う。
「いえいえ。今も勿論素敵ですけど、あの頃もメッチャクチャ可愛いですよ。」
「ふふふ。そういって貰えると嬉しいです。ありがとうございます。」
店に入り、最初は緊張していた2人だが、少しずつ緊張もほぐれ、帰る頃には2人で声を出して笑う様にもなった。
海外ロケから帰って来たらまた食事に行く事を約束し、別れる。
食事代を出すと言って聴かなかったが、アラタは断って全額を自分で支払った。
32,380円。
ウニを頼まなければ良かったとか、ビールを飲み過ぎたとか色々思ったが、それよりも金額には換算できないものすごく楽しい時間だった。
朝まで一緒にいたいとか付き合って下さいと言おうかどうしようかと散々悩んだが、会って初日でそこまで行くのはおかしい、と言うのと、まだ断られるかも知れないという怖さがあって言わなかった。
マインドコントロールパネルの力はもはや疑いようがないが、それでも怖いものは怖い。
彼女をタクシーに乗せ、アラタは電車に乗る。
>
「御馳走様でした!」
深見さん、今日はありがとうございました!とっても美味しかったですし、深見さんとのお話も楽しかったです。また是非、ご一緒させてください!
御馳走様でした!
>
数分後に、クルミンからメールが入った。
5分と経たずに返信をすると、クルミンからも数分で返ってくる。
家までの間に6往復もしたが、クルミンは明日から海外で朝が早いと言うので、アラタの方からおやすみなさい、と言ってやり取りを終えた。
最高の気分だ。
こんなに最高の気分は生まれて初めてだろう。
叫びだしたくなる衝動で、結局外が薄明るくなるまで眠る事が出来なかった。
いつもマインドコントロールパネルをお読み頂き、ありがとうございます。
明日から3日間(2016.9.28〜30)、6:00と18:00の2回更新にしてみます。
ちょっと試しで…。
楽しみにして頂ける方がいて下さるなら幸いです。
ブックマークとか評価とかご感想とか、して頂けると嬉しいです。
引き続き宜しくお願い致します!




