第1章“入手” -7 出会い
九段下のホテル。
あと45分もすれば、藍澤くるみが出演する化粧品CMのメディア向けPRイベントが行われる。
クルミンは、30分ほど前に既に控室に入っているとの事で、今はメイク中。
これが終わり次第、統括ディレクターとMC役の女性、アテンド担当のアラタなど合計6名による今日の段取りの説明が行われる。
とはいえ、事前に台本などは渡して説明も済んでいるので、今日話すのは簡単な確認だけだ。
アラタ達4人は、会議室で彼女のメイクが終わるのを待っている。
中村はここにはいない。
中村はアラタ達アテンドチームのリーダーという立場なので本来は出席する筈なのだが、アラタが代わって貰ったのだ。
クルミンがもうすぐ入ってくると思うと、鼓動が速くなる。
ドアの向こうで足音が聞こえる度に心臓が跳ねあがる様になるのをさっきから繰り返している。
ここでは、まずアラタの名前を覚えてもらう事だ。他の事はどうでもいい。
しつこいくらいに名を名乗ってやろうと思っている。
イベントの段取りは既に頭に入っているし、アラタが説明する部分はほんのわずかなので、どうとでもなる。
アラタは頭の中で、“今回のアテンドを担当させていただきます深見アラタと申します。”というのを何度も練習していた。
コンコン。とドアがノックされた。
中年の小太りのオッサンが入ってくる。
「すみません、お待たせしてしまって…。」
クルミンじゃないのか…と思ったその直後、天使が部屋に入ってきた。
「すみませんでした、皆様。お待たせしてしまいまして…。」
そう言って天使は頭を下げる。
見惚れてしまって言葉が出てこない。指定された椅子の前まで来るのをジッと見つめる。
目が合った。
「今回のアテンドを担当させていただきます深見アラタと申します!」
“アッ”という顔で全員がアラタの顔を見る。
普通自己紹介は立場が上の者からするものだ。それで言うとアラタはこの中では5番目。
それが最初に大きな声で突然自己紹介したのだ。周囲が苦笑する。
クルミンもアラタの方を見て笑っている。ツカミはOKだろう。
「あ、あぁ、駒紡化粧品、広報の飯塚と申します。本日は宜しくお願い致します。」
クライアントが思い出したように自己紹介をすると、他のメンバーも続いた。
「統括ディレクターの木島と申します。宜しくお願い致します。」
「アシスタントディレクターの山田です。宜しくお願いします。」
「MCの飯田です。宜しくお願い致します。」
「あ、すみませんでした。アテンド担当の深見アラタと申します。フカミ、アラタ、です。宜しくお願い致します。」
「藍澤くるみのマネージャーの小島です。宜しくお願い致します。」
「藍澤くるみです。宜しくお願い致します。」
「ハハ。まったく、深見君の勇み足でなんか拍子抜けしちゃったな。」
統括ディレクターが今更ながらに突っ込む。全体を和ませようとしたのだろうが、ナイスアシストだ。
「ハイ、深見、深見アラタです!」
「わかったから!」
全員が笑い、クルミンもアラタの方を見て笑っている。これで顔と名前は一致しただろう。
その後、簡単に今日の流れを統括ディレクターが説明し、15分ほどで打ち合わせは終わった。
「では藍澤さん、入り時間になったらお迎えに上がりますので、しばらく控室でお待ち下さい。」
とアラタがクルミンに声をかける。
「はい。深見さん。フフ。お待ちしていますね。」
“覚えてくれている!!”
天使が自分の名前を呼んだという事がかなりの衝撃で、思わずビクっと身体が動いてしまい、それを見てまたクルミンが笑いながら会議室を出て行った。
「深見君、緊張してるの?クルミンがいるからってあんまり意気込まないでよ。ハハ。でも、おかげでみんなリラックス出来たよ。今日は良いイベントにしようね。」
統括ディレクターが声をかけて来る。なかなかいい人の様だ。
イベントの開始はもうすぐ。
クルミンは5分ほどの商品紹介の後にステージに上がるので、出番まではおよそ15分と言うところか。
「すみません、僕、ちょっとトイレに行ってきます!」
そう言うと、カバンからマインドコントロールパネルを取り出してトイレへ駆け込んだ。
“予定より早いが、この時間にコントロールをしてしまおう。コントロール後の接点はなるべく多くした方がいい。”
トイレの個室に入り、マインドコントロールパネルを立ち上げる。
ロゴが出る時間がもどかしい。
「被操作者を入力して下さい。」
藍澤くるみ。
「対象を入力して下さい」
深見 新。
愛情を+100%に設定する。
登録ボタンが点滅している。押すことが出来るのだ。
深い深呼吸を3回した後、登録ボタンを押した。
その後数分、トイレの中で呼吸を落ち着け、個室から外に出た。
クルミンの入り時間までまだ10分ほどはあるだろうか。
念の為、最初の会議室に戻り、モニターを確認する。タイマーが残り2分に設定されていた。
「オッケー、あと2分です。MC飯田さん、OKでしたら右手を上げて下さい。」
そう統括ディレクターが声をかけると、画面の中でMCの女性が手を上げる。
「ハイ、あと1分です。各自準備をお願いします。深見君、クルミンのアテンドお願いね。」
「もう行っちゃって良いですか?」
「うん。お願いします。」
予定より早い気もするが、まぁディレクターが良いと言っているんだから良いだろう。
クルミンの控室まで行って、ドアをノックする。
「藍澤さん、そろそろ準備をお願いします!」
「はい、分かりました。」
図太いオッサンの声だ。1分ほどでドアが開き、オッサンの後に天使が出てきた。
入口で待つアラタを見て、天使は目を見開く。2度ほど口を開けては閉じ、唇を舐める。
殆どの人がやったら鯉か鮒の様に見えるだろうが、クルミンはそんな仕草も可愛い。
既にコントロールは利いている様だ、とその様子を見て確信する。
「よ、宜しくお願いします。」
「はい。では行きましょう。」
アラタ、クルミン、オッサンの順で会場に向かう廊下を歩く。先頭を歩くアラタは、後ろから見えない様にガッツポーズをし、ゆっくりと会場に向けて歩いた。
---
90分後、アラタはクルミンの控室の前で聞き耳を立てている。
「まったく!何をやっているんだよ一体!」
マネージャーのオッサンの野太い声が聞こえる。
クルミンは、このイベントで殆ど言われたことを話すことが出来なかったのだ。
特に自身で商品を使ってみた感想はどうだったか、というクライアントからすると最も重要な質問のところで言葉が出てこず「え~、え~っと…。」としどろもどろになってしまったのが大きかった。
場数を踏んだMCの機転がなければ、恐らくクライアントが激怒していてもおかしくない状況だ。
「ごめんなさい…。」
「何度も練習したし!今回の案件が重要だってのは分かってたろ?全く!こういう小さなことで人気なんてすぐになくなっていくんだぞ!」
「はい。すみません…。」
「とりあえず俺はクライアントさんに謝りに行ってくるから!」
そう言うと、ドアに向かってくる足音が聞こえたので慌ててドアから離れる。
オッサンはアラタを見ると、「今回は本当に申し訳ございませんでした。」と頭を下げ、会議室の方に向かっていった。
だが、謝りに行くべきクライアントは中村の仕込んだ下剤によってトイレにこもっている筈だ。すぐには戻ってこないだろう。
もっとも、予定では中村がマネージャーを呼び出すはずだったので、予定とは少し違うが、今控室にはクルミンしかいない状況だ。
“どうする、ノックするか…。”
と迷っているところに、後ろから声が聞こえる。
「深見様!深見様!」
中村だ。声が大きいよ!
口の前に人差し指を立て、“シーッ!”というジェスチャーで中村の声を抑える。
「失礼いたしました。」
小声になった中村と共に、少しクルミンの控室から距離を取ろうとした時、ドアが開いた。
「あ、あの、深見さん…。」
開いたドアから天使が顔を出す。
「はい!?あ、あぁ、お疲れ様でした。」
「すみません、私ったら全然話せなくて…。」
「いやいや、良いんですよ!全然!藍澤さんの美しさがあれば、今回の商品も大ヒット間違いなしですから!お気になさらず!」
「はい。ありがとうございます…。」
と、後ろにいる中村から化粧品の入った紙袋とクリアファイルが渡された。
クリアファイルには、透明な側に分かる様にアラタの名前とアドレスが書かれた紙が入っている。
うむ。ナイスアシストだ中村。後で褒めてやらねばなるまい。
「あの、これ、今回の商品、藍澤さんがお気に召したとお伺いしておりますので、2パック程入った紙袋と、ノベルティのクリアファイルです。宜しければお持ち帰りください。」
紙袋を渡し、続けて透明な側を上に、メモがクルミンの目に入る様にクリアファイルを渡す。
“あッ!”という表情でクリアファイルを受け取った後、アラタの方を見た。
天使はニコリ、と小さく笑う。
「ありがとうございます、深見さん…。」
目で“連絡しますね”と言った気がした。
後ろからドタドタと言う足音。オッサンが戻ってきた様だ。
俺と中村の方を向いて軽く会釈をすると、クルミンの方に視線を移して言った。
「クライアントさんが体調を崩されて救急車で運ばれたとの事で、お詫びには後日お伺いする、という事になった。とりあえず今日は帰ろう。」
「え!そうなんですか!?」と驚いた表情のクルミン。
救急車?いったい何を飲ませたんだよ、中村…。
振り返ると、してやったりという顔でアラタにウインクする中村がいた。
褒めてやろうと思っていたが、この中村という男が怖くなった…。




