3-7 島田 純哉2
告別式や御礼などで慌しい数日間を過ごし、3日後の夜、純哉は兄である拓哉と2人で酒を飲んだ。
兄と酒を飲んだ事はこれまでにもあったが、純哉の海外生活が長かった事もあって、こうして2人でじっくり話すと言う事は初めてかも知れない。
店は家の近くの、兄が行きつけだという日本料理店だ。
父とも何度か訪れた事があったらしく、店の主人はひどく気を使ってくれた。
父のニュースは目にしていたらしい。葬儀に参列できずに申し訳ないと何度も謝ってくれた。
店主とのやり取りが済むと、兄弟2人だけの時間になる。
やはり、父の話が殆どだ。
ロンドンで生活している純哉は、最近の父を殆ど知らないのに対して、兄は島田丸商事で父の部下として働いている。父は常務、拓哉は課長なので間には部長と本部長がいる。
会社の組織に対しても厳格な父は、当然その部長や本部長を飛ばして拓哉に話をする様な事はない。
だがそれでも、部長と一緒に仕事で何度もこっぴどく怒られたこと、拓哉のミスについて上司である父が社長に頭を下げたこと、拓哉自身が取り組んでいるエネルギー事業部の戦略を父がなかなか了承しなかった事、そして、島田という苗字である為に苦労してきたことなど。
基本的に父とのエピソードは仕事関連の事ばかりだ。
“父さんらしいな。”と純哉は笑う。
純哉が聞いたワールドカップの試合を生で観たという話、父はかなりのサッカーファンだったという話をしたところ、拓哉も知らなかった様だ。
ただ、前回のブラジルワールドカップの際にも現地を訪れていたとの事だった。
その時はブラジルやアメリカなどの企業の役員との会合だと言っていたので、サッカー観戦をしながら商談をしていただけだと思っていた、父がサッカーの試合を見て興奮しているところなんて想像できない、との事だった。
「ブラジルがドイツにボロ負けしたから、その後2週間も商談が全く進まなかった、と険しい顔して言っていたよ。」
「昔、メキシコワールドカップの時にマラドーナにイングランド代表がやられた時にもイギリス人と一緒に見てて全然商談にならなかったって言ってたよ。英国紳士然とした人がマラドーナを口汚く罵ってたって。はは。ワールドカップと父さんは相性が悪かったのかもね。」
「…そっか、お前とはそういう話もしたんだな、父さん。」
「まぁ、俺もそんな話をしたのは高3の時、1回だけだけどね。その時に、お前は好きな事をやれって、そう言われたよ。兄さんや姉さんはそうもいかないからって。」
「…。俺や姉さんにもそう言ってたよ。お前の事は自由にさせてやりたいって。」
「……。」
父を亡くしたばかりの兄弟2人、しかも酒が入っている。
どうしてもしんみりしたムードになってしまう。
「そういえば…」
兄は、思い出したように深見アラタと言う名前を出した。
1〜2ヶ月前に知り合った人らしいが、父が今まで見た事がない位にその深見と言う男の事を褒め、あぁ言う男に会社を継いで欲しい、とまで言ったそうだ。
実質的な後継者で、その為の勉強を続けて来た兄にしてみれば、笑って聞き流せる話ではなかっただろう。
しかも、聞いた事がない様な中小企業のサラリーマン、歳は純哉と同い年だとの事だ。
兄は、どちらかと言えば忌々《いまいま》しいと言う感情を持っている様だったが、純哉はその人物に興味を持った。
父は、サッカーの話はともかく仕事では厳格そのものだ。
それに島田丸商事の従業員は2,000人を超え、純哉から見ても優秀な人材は沢山いる。
にも関わらず、父が従業員を褒める事など殆どないし、まして後継者にしても良いなどと言う話は聞いた事がない。
兄の努力を純哉は良く知っているが、その兄でさえ足りない部分を指摘されている印象しかない。
その父が従業員でもない人間を後継者にしても良いなどと、それも兄の前で言うのだ。
兄を発奮させる狙いもあったのだろうが、だとしてもその対象に挙げる人物が凡庸な筈はない。
「純哉、お前は自由に生きろ。」
父から言われた言葉が頭に浮かぶ。
ただ、自由に生きるという事の意味は今ひとつ良くわからない。
突飛な事をしろ、と言う意味ではない筈だし、根無し草の様な人間が自由かと言えば必ずしもそうではない。
何が自由なのか、何をしたいのか。
純哉は溜息をついた。
今の職場である投資銀行の仕事はかなり忙しい。週に80時間以上働くことなどざらだ。
目の回る様な忙しさの中で2年間を過ごした事もあり、父の葬式が終わった後の何もする事のない時間は、純哉に自分自身を見つめ直す事を強要している様だった。
別に今のままでも良い、とも思う。
今勤めている投資銀行の従業員になるという事は簡単ではないし、しかも純哉はアジア人だ。
表立った人種差別は会社としては当然行わないが、白人に比べると有色人種が採用される事は難しいというのは周知の事実だ。
アメリカでも英国でも、差別を受けた経験は純哉にも当然ある。
実際に今の投資銀行に採用が決まった時、大学院時代のいけ好かない同級生には「なんで日本人のお前なんかが…」とあからさまに言われた。
その同級生は不採用になったらしく「シンプルに能力の問題だろ。」と言い返してやったら掴み掛かって来たものだ。
つまりその位、英国人でも憧れの職場だと言う事だ。当然待遇も良い。かなり高給取りだと言えるだろう。
アメリカの超大手には劣るが、ヨーロッパでは有数の投資銀行で、名刺を出すだけで結婚したがる女性が幾らでもいると言われる位だ。
島田家の名前からも自由でいられるし、肩書に誇りを持ってもいる。わざわざ変える必要などない。
「純哉、お前は自由に生きろ。」
それなのに、何故か父に自分の生き方を否定されている様な気がしてしまう。
もし父が生きていたら、「自由に生きているよ。」と答えられるだろうか。
「姉さんに頼んで、その深見アラタって人に会ってみよう。」
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深見アラタと言う人物は、正直最初は期待外れだと思った。
特別なビジョンもないし、それほど賢い様にも思わなかった。
着ているスーツも安物で、洗練とは程遠い。なんで父さんはこんな男の事をそんなに褒めたのか、と言うのが第一印象だった。
それなのに、気づけば彼の会社で共に働く約束をして別れた。
この人の為に命を懸けよう、と思ってしまっていた。
なぜかは分からない。
彼が立ち上げる会社に魅力を感じたのかと言えばそうではないのは確かだし、ついて行こうと思ったわけでもない筈だ。
こんなに重大な結論だと言うのに、ほんの1時間程で決めてしまったのだ。
何が理由だったのかは分からない。
だがいずれにしても、純哉は深見アラタについていく、そう心を決めた。不思議なほど気分がすっきりしていた。
母や姉、兄に報告をすると、驚かれはしたものの止められはしなかった。
かつて父に言われた様に、自由にやりたい事をすればいい、と3人は口を揃えた。
母は日本に帰って来る事が単純に嬉しかったらしい。
夫を亡くした直後だ。家族に少しでも傍にいて欲しいと考えるのは当然のことだろう。
ロンドンに戻る前日、夜中まで起きて引き継ぎの資料を作っていると、兄が起きてきて純哉に声をかけた。
「眠れないのか?」
「うん、まぁそれもあるけど、時差ボケ対策だよ。飛行機の中で寝ようと思って。」
「そうか。けどまぁ、今回の事は驚いたよ。なんていうか、お前はそんなに冒険心のあるヤツだと思ってなかったからさ。」
「…そうだね。自分でも驚いているよ。」
「やっぱりその、深見ってヤツは父さんが褒めるだけの事はあるのか?」
「う〜ん…、どうなんだろうね…。正直、スゴく優秀って訳ではないと思うよ。ただなんて言うか…、う〜ん、なんて言ったら良いのかな。」
「なんだよ、自分でも分からないのか?」
「そうだね、分からない。」
「おいおい、大丈夫なのかよ?そんなヤツと一緒に独立するだなんて。」
「まぁ当然リスクはあるよ。ただ、救われた…かな。そう、表現としてはそれが一番の近い気がする。俺は、あの深見さんに救われたんだよ。」
「救われたって、何からだよ?」
「何からと言うか、心を自由にして貰ったって感じかな。とは言っても、何かにスゴく悩んでたって訳でもないんだよ?仕事もこれ以上ないって位にキツかったけど、遣り甲斐はあったし。たださ、人間生きてりゃ色んな悩みは常にあるものじゃん。コンプレックスとかも含めてね。そう言うものから不思議なほどに今は解放されてる。自由になったって言うか、そんな感じ。」
「へぇ…。そう言う人徳と言うか能力がその深見ってヤツにはあるって事か。まぁ悩みから解放されるってのは羨ましい話だけど、なんか宗教みたいだな。」
「あぁ、言われてみればそうかもね。実際、そんな感じかも知れない。深見さんと一緒に仕事をするって決めてから、なんだかスゴく落ち着いているんだよ。宗教についてはよく分からないけど、こう言う感じなのかも知れないね。」
「ふぅん…。まぁとにかく、お前が決めたんだ。その深見ってヤツがどんなヤツであれ、そいつに頼るんじゃなくお前が絶対に成功させるんだってつもりでやれよ。」
「もちろん、そのつもりだよ。」
純哉は翌日英国に一度戻り、1ヶ月後にはアラタが設立する新会社の常務取締役となっていた。
前回と今回は純哉視点でした。
純哉もサクと同様、終盤に近付くにつれてかなりのキープレイヤーになっていきます。
そして、次話はそのサク視点でお送りする予定です。
是非ご期待ください。




