第1章“入手” -2 検証
百貨店の入り口付近に設置されたイベントスペースでは、コンパニオンたちが声をあげて新商品の飲料を通行人に手渡している。
その中の一角、裏手にある一平米ほどの狭いスペースに深見アラタはいる。
手には何の変哲もない、黒いタブレットだ。
だが、その真っ黒のタブレットの能力を理解し始めたアラタは、これまでにない位に興奮していた。
「おい。」「はっ!」
「いや、呼んでいない、独り言だ。」「失礼いたしました!」
ついさっきまでアラタに対して嫌味しか言ってこなかった中村が、アラタに対して土下座せんばかりの勢いで服従している。
これはスゴイ。漫画みたいな話だ。中村が何らかの目的で演技をしているのかもしれないとも思ったが、どう考えても中村にそんな事をする理由があるとは思えない。
スゴイ。漫画みたいな話だ。
このタブレットがあれば、金持ちになる事もハーレムを作ることも好き放題できる。
改めてタブレットを見る。
そういえばカメラのレンズもない様だし、充電器を差し込む様な穴もついていない。そもそも充電器なんてない。充電が切れたらどうすればいいのか。
電源のスイッチもない。昨日もそうだったが、さっきも勝手に立ち上がった。
「被操作者を入力して下さい。」
今も勝手に立ち上がっている。消そう、と思ってもスイッチがないし、と思っていたら、画面が暗転した。
今は勝手に消えたな。
もう一度つけてみよう、と思うと液晶に明かりが入り、「Mind Control Panel」のロゴの後、だいたい2秒もすれば「被操作者を入力して下さい。」というテキストが現れる。
中村のケースでだいたいの事は分かった。
ただ、中村の場合には主従を選んだが、思いの質というか、どういう関係性なのかを愛情・友情・主従の中から選べる様だった。
そうなると、まずは女の子だな。
絶世の美女を彼女にしたい。
絶世の美女と言えばクルミンだ。
女優の藍澤くるみ。
あの子が彼女になってくれるならもう望みは殆ど叶った様なものだ。
クルミン、藍澤くるみは若手No.1とも言われる女優で、この2年ほどCMやドラマ、映画などで見ない日はないという程の女優だ。
大きな目と少し厚めの唇、モデルの様な細い体型が人気で、アラタの年代の男性ならみんなが彼女にしたいと願っている事だろう。
「被操作者を入力して下さい。」
空欄に「藍澤くるみ」と入力し、対象者を深見新、愛情に設定し、+100%、登録!
…と思ったら、登録ボタンを押せない。
ひょっとすると藍澤くるみというのは芸名なのかな、と思い、自分の携帯で調べてみると、どうやら本名らしい、という事が分かった。
ではなぜだろう?う~む、と考えていたら、休憩室に息を切らせて上司が入ってきた。
「深見!お前何してるんだ!中村さんに働かせてなんでお前がこんなとこに!」
「あ、いえ、中村さんに休んでいるように言われまして。」
「そんな事を本気にするやつがあるか!ほら、俺も一緒に謝ってやるから一緒に戻るぞ!」
その後、頑としてアラタが働くことを拒否する中村に対して、アラタが命令する形でここ以外の場所へ行くようにと指示を出した。
上司の前なのであくまで丁寧に。
続きは仕事が終わってからにしよう。
その日の仕事が終わり、帰ろうとすると中村が来ていた。
「深見様、お疲れ様でした。このまま帰宅されるのであればご自宅までお送りいたします!」
「いや、構わない。一人でしたい事もあるしな。」
「はっ!では駅までお送りいたします。どうぞ!」
「イベントの終了報告は良いのか?」
「何かございましたか?」
「いや、中村の変貌ぶりに驚いたこと以外は何も。」
「さようでございますか。では社への報告書は私の方で作成して提出しておきますので、このままお帰り下さい。」
「そうか。なら任せる。あぁ、送るのはここまでで良いぞ。もう駅はすぐそこだし。」
「いえ!深見様にもしものことがあっては大変ですからお送りいたします。」
「命令だ。ここまででいい。」
「はっ!畏まりました。それでは失礼いたします!」
中村と別れ、田園都市線に向かう階段を降りる。
さすがに電車の中でマインドコントロールパネルを立ち上げる訳にもいかない。早く触りたいが、家まで我慢だ。
田園都市線はいつもの様に混雑している。
アラタはマインドコントロールパネルを車内で操作したい欲求を必死で抑えながら帰路についた。
本能的に、マインドコントロールパネルの存在を知られるのは不味い、という事が分かったからだ。
ただ、普段であれば携帯でゲームをしたりニュースを読んだり、SNSで友人の情報を見たりしている筈の時間だが今日に限っては全くスマホを見ようとも思わない。
2度ほど手には取り、ソーシャルゲームを立ち上げたりもしたのだが、意識が全くゲームに向かわず、1分もしないうちに後ろのポケットに戻した。
結果、渋谷から長津田までの永遠とも思える時間を、アラタはただ窓の外を眺めながら停車駅を指折り数えていた。
駅に着くと、家までの道のりは自然と小走りで進んだ。
早くマインドコントロールパネルを試してみたい、という一心で、いつもより遠く感じる家までの道を急いだ。
家に帰ると携帯が鳴った。中村義行、と出ている。
「深見様、ご自宅に戻られましたでしょうか?」
「あぁ、何かあったのか?」
「いえ、無事に戻られたのかどうか確認させていただきました。」
「そうか、今後はこういう電話を禁止する。何か連絡や報告がなければ電話をかけて来るな。」
「はっ!失礼いたしました。」
着くタイミングを見計らっていたのだろうか。なんだか見張られている様なタイミングで怖い。
これはこれで鬱陶しいな。どこまで行っても中村は鬱陶しいままなのか。
そもそも、中村が心からアラタに忠誠を誓おうと、アラタは中村に対してネガティブな感情しかないのだから鬱陶しいだけだ。
さて、とりあえず一人の時間になった。
なぜクルミンに対して発動できなかったのか、さっきの続きを考えよう。
アラタは買ってきたお茶をグラスに注ぎ、深く深呼吸をした。
鼓動がやたら速くなっているのを感じる。
“待て待て。少しは落ち着けよ、俺。とりあえずは検証してみる事だ。”
タブレットを取ると、自動で電源が入る。「被操作者を入力して下さい。」といういつもの画面。
よく見ると、右下に?マークがあった。チュートリアル的なものがあるのか。
?マークをタップする。
「マインドをコントロールする相手の名前です。対象者との面識がなく、顔と名前が一致しない場合には適用外となります。」との事だ。
面識がないと登録出来ない、となると当然クルミンはアラタの事を知らないので登録できないという事になる。
クルミンと付き合う為にはまず会わなければいけない。
いや、ただ会うとか、見かけるというレベルではダメという事だ。
顔を合わせて自己紹介をしなければいけない。
自己紹介が出来たとしても、例えば握手会とかみたいな、数百人を相手にする様な場面だと難しいだろう。
すぐに誰が誰だったか分からなくなる。
“考えてみれば当たり前のことだな。会ったこともない人と付き合うなんてそりゃあり得ないか…。”
アラタはお茶を口に含んだ。思ったよりグラスにはお茶が残っていなかった。
グラスの8分目ほどまで入れたはずなのに、もうなくなっている。
2口ほどで飲んでしまったが、そのおかげで少なくとものどの渇きは落ち着いた。
もう一度お茶をグラスに注ぐ。
思考をクルミンに戻そう。
クルミンの様な人気女優に会える機会、それも少人数で自己紹介が出来る機会なんてない。
それに、中村の様子がこのタブレットの凄さを物語ってはいるが、この力が誰にだって使えるのかどうかは分からない。
もう少し試してみる必要があるだろう。
試すのは当然女だ。
せっかくだからこの力を使って酒池肉林のパーティーとかをしてみたい。
思い浮かんだのは、3ヶ月前に振られた元彼女、池上かおり。
かおりは1年ほど前にイベントで知り合ったコンパニオンで、顔はさして可愛くないがスタイルが良かった。
女優を目指しているとの事で、舞台に出たり地下イベントの様なイベントに出演しているらしいが、それでは食えないらしく、ちょくちょくコンパニオンの仕事に来ていたのだ。
普段から人前で話したり歌ったりしているだけに、コンパニオンとして声を出すことを厭わないし、お客さんの扱いも上手いし、受け答えもしっかりしている。
アラタとしてもイベントを上手く回すにあたり“いてくれればありがたい存在”という認識でいた。
イベントの打ち上げの帰り、同じ田園都市線沿いに住んでいた事もあり、一緒に帰って仲良くなり、何度かデートをして付き合う事になった。
4ヶ月ほど付き合ったが、彼女が舞台で一緒になった俳優の卵らしきヤツの事が好きになったという事で振られた。
すごく好きだった訳ではないつもりだったが、振られた時はショックだった。
3ヶ月が経って、それほど未練があるわけではないが、思い出してみると会いたいという思いがアラタの中で強まっていった。
「被操作者を入力して下さい。」
池上かおり、と入力する。
次は「対象を入力して下さい」だ。ここは当然アラタ自身。
深見 新、と入力する。
登録のボタンを押すことが出来た。
ふぅ…と深く息をつく。
ひょっとしたら、中村のケースが特殊だったのかも知れない。
自分から電話をかけてみるべきか、待つべきか。
そもそも、マインドコントロールパネルで入力してから作用するまでどの程度の時間がかかるのかも分からない。
中村のケースでは入力してから1時間も経っていなかっただろう。
とするとその位の時間はかかると見るべきか。いや、中村がどこにいたのかは知らないが、少なくとも移動して来た筈だ。
となると、登録ボタンを押してすぐに作用し、急いで駆け付けてきたのかも知れない。
“それまでどこにいたのか確かめておけば良かったな…。”
携帯を手に取り、中村の番号にかけようとして思いとどまる。
仮に確かめたからと言って全員が同じなのかどうかも分からない。
時計を見ると、20時少し前。
普段だったらまだ会社にいるか、電車に乗っているかという時間だろう。
中村が報告書を引き受けてくれたことで、少し余裕のある時間に戻ってこれたことが大きい。
登録のボタンを押してから、15分ほどは経ったろうか。
待つだけなら、テレビでもつけようかとも思ったが、全く気持ちがテレビに向かない。
かおりからメールでも来ていないかと何度も携帯の画面を見ては戻す、それを繰り返していた。
30分も経つと、やっぱり中村が特殊だったんだ、と思うようになった。
“そんなに上手く行くはずはないよな…。”
と思うと、なんだか腹が減った。
冷蔵庫を開けてみるが、食べられるようなものは入っていない。
買った覚えもないのだから当然だ。それに、気づいてみたらスーツ姿のまま着替えてもいない。
普段であれば少なくともジャケットをハンガーにかけてネクタイを外し、シャツとズボンを脱いでからベッドに横になるのに、と思うと今日の自分がどれだけ慌てていたのかが分かった。
“とりあえず、飯でも食いに行くかな…。”
行くとしたら、駅まで行ってパスタを食べるか、途中にある定食屋に寄るか。それともコンビニ弁当で済ますか…。
“パスタかな。少し歩くけど、頭を冷やすのにはちょうどいいだろう。”
そう決めると、着替えを済ませ、携帯と財布を持って玄関に向かう。
駅に続く閑静な住宅街の道を歩いていると、お尻のポケットに入っていた携帯が振動するのが分かった。
取り出して画面を見る。
「着信:かおり」という文字が画面に浮かび上がっているのを見た瞬間、心臓が大きく弾んだのを感じた。
3回ほど深呼吸をしてから通話ボタンを押す。
「アラタ君?久しぶり。」
3ヶ月ぶりに聞く元彼女の声は、ただでさえ速まっているアラタの心臓をさらに速めた。