第2章“人脈” -7 桐山 朔弥1
桐山 朔弥。
出身は栃木県宇都宮市。幼少時の記憶は、父から受けた激しい暴力、それだけだ。
母と朔弥は日常的に長時間に渡って殴られ、蹴られ、掴まれ、投げられた。
父の前で土下座をする母と、その顔を蹴り上げる父の姿。
朔弥は何も出来ず、涙を流して震えながら見ている、そんな風景が目を瞑れば今も鮮明に思い出せる。
血を流す母から、父の目が朔弥に向く。
「何を見てやがる!」
ドスドスと音を立てて近づいてくる父に、朔弥は一言も発することが出来ない。
父の脚にしがみつき、止めようとする母の顔面を殴りつけ、その手を朔弥に向けて振り上げる。
そんな光景が日常だった。
そして朔弥が3年生のある日、父がビール瓶で母を殴りつけ、夥しい血と共に母は倒れた。
倒れた母に何やら怒声を浴びせ、出て行く父。
幼い朔弥はドアが閉まるのを確認し、足音が聞こえなくなるまで待ってから受話器を取り、119を押す。
診断は、頭蓋骨陥没骨折。3週間の入院だった。
入院して2週間と少しが過ぎたある日、母は朔弥を連れて病院を出た。
母の実家である新潟県の病院に移ると言う。
移動の車の中で、朔弥は父親の事を聞いたが、母は涙を流しながら首を振るだけだった。
“逃げるんだ、アイツから。”
そんな母の様子を見て、幼い朔弥少年は理解した。
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新潟での日々、朔弥はひたすら勉強に明け暮れた。
新しい学校に馴染めなかった事もあったが、幼いながらに父への復讐を誓い、その為にはどうすれば良いのかと母に尋ねたところ、返って来た答えが“勉強すること”だったのだ。
勉強してなぜ復讐出来るのかは分からない。母は「あの人みたいにならず、立派な人になること、それが一番の復讐よ。」と何度も言った。
物理的な復讐は必ず成し遂げる。
だがその為の方法が分からない朔弥は、母の言う通り勉強に打ち込んだ。
それこそ、寝る間も惜しんで勉強をした。
大学までの間、勉強以外をした覚えがない、と言う程だ。
母子家庭という事もあり、中学までは公立の学校に通ったが、成績は常にトップだった。
奨学金を受けて県内有数の進学校へと進み、そこでもトップの成績を維持した朔弥は、現役で東大に合格する。
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そして大学3年生のある日、アルバイトをしていた夜の新宿で、朔弥はある男を目撃する。
わけの分からないキャラクターが大きく描かれた黒いセーターを着て、少し色の入ったメガネ。太って髪の汚い中年女の肩に手を回して歩く初老の男。
見紛うことなき、憎き父の姿だった。
朔弥はその日から2週間を掛けて父を尾行し、生活パターンや通り道を調べた。
どこなら人目につかず、怪しまれずにあの男を殺せるか。
そのことだけを考えて過ごした。
該当しそうな場所が1つあった。
父が通る道の途中に、パチンコ屋のビルとハプニングバーや違法賭博が入っていると言う雑居ビルの間の1m程の隙間があったのだ。
父はその裏手の道を毎日のように通っているが、その道には人通りが殆どない。
上手くその路地に連れ込めれば、誰にも見られずにあの男を殺す事が出来る。
決行の日は小雨が降っていた。
どうやら酔っ払っている様子で、傘もささずに歩いている父の後をつける。
雨が少しずつ強くなり、父は小走りになった。
予定の場所に着くと、持っていた鉄パイプで後頭部を思い切り殴りつけた。
何やら大声で叫ぶ男を路地へと連れ込む。逃げようとする男の踝あたりを殴ると、のたうち回って命乞いを始めた。
「ヒィッ!た、助けてくれ!何でもするから!頼む!逃がしてくれ!」
朔弥は男に顔を近づける。
「俺が分かるか?」
「…。あ、あ、シャイニーのもんか?あれは違うんだ!俺はハメられただけで!」
「シャイニー?何だそれ?もっとよく見ろよ。」
「ち、違うのか!じゃあ新山のオヤジのトコのもんか⁉︎あ、あれは違うんだ!俺じゃねぇんだよ!オヤジと話させてくれよ!」
顔を見ても何も思い出さない様だ。
朔弥は呆れた。自分はこの男の顔を忘れた事なんて一度もなかったと言うのに。
鉄パイプで今度は顔面を殴りつける。
助けてくれ!と叫びながらのたうち回る男。
朔弥は興奮していた。
「もっと泣けよ!喚け!」
何度も、鉄パイプを男に打ち付ける。
「ホラ!どうしたよ!もっと泣き叫んで許しを請えよ!」
何度も何度も、鉄パイプを打ち付ける。
朔弥は不思議な感覚を覚えた。
これまでの人生は勉強しかして来なかった。友達もいないし、喧嘩もした事がない。人を殴った事などないのだ。
実際、今回の計画を練っている間、朔弥が最も不安に感じていたのはその部分だった。
相手が立ち向かって来たら勝てるのか、という事と、そもそも自分に人が殴れるのか、という事。
それも、鉄パイプでだ。
だが、殴り始めると、そんな感覚は消え去り、殴っている事が、朔弥の振り下ろす鉄パイプが父親の骨を砕く事が、泣き喚く声を聞く事が、楽しくて仕方がない。
口元が緩む。
「おい!どうしたよ!もっと喚け!」
顔面を守ろうとした両腕は、既に骨が折れているのか、手応えがなくなってくるのが分かった。
既に何十回、鉄パイプを振り下ろしたのか分からない。
次第に声も出なくなり、一言も発しなくなった。
さらに殴りつける。
もはや何の反応もない。
鉄パイプを振り下ろす手を止めても、呼吸を整えるのに時間がかかる。
朔弥は、軍手をはめた手で男の懐を弄り、財布を取り出し、その場を離れた。
鉄パイプを3つに分割し、軍手とともにビニール袋に入れてカバンへ入れた。
接続具にねじ込むことで長くする事が出来る鉄パイプを用意していたのだ。
財布は、現金だけを抜き取り、近くの自販機横にあるゴミ箱に捨てた。
捨てる前に免許証を確認すると、谷塚と言う苗字。
3年生までの朔弥の苗字だった。
心の昂りが抑えられない。
罪悪感は微塵もないが、あの泣き喚く父の表情を思い出すと興奮を抑えられなかった。
翌日、30分ほど電車に乗り、凶器となった鉄パイプを荒川に投げ捨て、軍手と返り血のついたシャツ、ズボンは家の風呂場で燃やした。
ニュースで殺人事件の様子が流れている。
「練馬区の56歳無職、谷塚浩太さんが16日深夜、帰宅途中に何者かに殺害された事件で、犯行に使われた凶器は発見されておらず、被害者の財布が数10メートル先のゴミ箱に捨てられ、現金は全て抜き取られてていた事から、物盗りの犯行と見て捜査を進めています。それでは続いてのニュース…」
それから数ヶ月間、朔弥はいつ自分のところに警察が来るか、と言う恐れと、父親の泣き喚く様子を思い出すと止められない興奮の中で過ごした。
引き続き、ひたすら勉強を続けていた。
1年が経ち、大学を卒業する頃になると、警察に対しての恐れは少しずつなくなっていった。
しかし、泣き喚く様子を思い出す時に得られる興奮は色褪せる事なく、鮮明な記憶として朔弥を興奮させ続けた。
“もう1度やりたい。もう1度、あの声を聞きたい。もう1度、あの涙と鼻水でグチャグチャになった顔面を鉄パイプで思いっきり殴ってやりたい…。”
いつか、対象が父であるかどうかは問題ではなくなった。
“誰でもいい。俺の前に跪かせて、涙と鼻水でグチャグチャにして許しを請わせてやる。”
自分の中に流れているサディストの血、それこそがあの男から受け継いだものなのかも知れない、と思う様になっていた。