第1章“入手” -1 真っ黒のタブレット
深見アラタは26歳サラリーマン。
都内にある小さなイベント会社に勤務している。
イベントと言っても、タバコや飲料のサンプリングやデパートなどの入り口を借りて行う小さなものが殆どだ。
場内誘導の男性スタッフだったり簡単な問い合わせに答えられる様にトレーニングしたコンパニオン、だいたい5〜6名、多くても15人程度のチームをディレクションするのがアラタの役目だ。
肩書きはディレクター。
最初はその肩書きがカッコよく思えて友達に自慢したりしたが、クライアントや広告代理店、アラタのところよりも大きいイベント会社の意に沿う様に動き回る、と言うだけの仕事だ。
中には楽しいと思えるイベントもあるが、殆どは単調な作業の繰り返し。
辞めたいと思うほど嫌な仕事ではないが、一生この仕事をやっていくんだと胸を張る気はさらさらない。
辞めて何かをしたい、と思えるものもなかった。
転職サイトなどを見る事もあるが、高い給料を歌っているところは胡散臭いし、一流企業に転職出来るとは思えない。
転職してより厳しくなったと言う話もよく聞くので、結局踏み出せずにいる。
アラタが住んでいるのは横浜市緑区。東急田園都市線の長津田駅。ナガツダではなくナガツタだ。
そこから徒歩10分ほどのワンルームマンション。
家賃は5万8,000円。
ここから渋谷にある会社まで、乗車時間35分、ドアトゥドアだとだいたい1時間かけて通っている。
もう少し近くに住みたいが、今の給料で払える家賃としてはこの位が精一杯だ。
乗換無しで行けるだけ恵まれている方だろう。
朝のラッシュには毎朝ゲンナリするが、4年も続けていればそれも慣れる。
今日は接待だった。
アラタとアラタの上司、クライアントにあたる大きなイベント会社の社員が2人。
そのうちの1人、中村と言う背の高い男がアラタは大嫌いだった。
アラタだけではなく、下請けとして仕事をする連中はみんな中村を嫌っている。
上に媚び、下に厳しい、自分では何も出来ないのに「なんでその位の事が分からないの⁉」なんてことばかり言っている。
背は高いが、スーツのセンスもダサいし変なメガネを掛けているし、恐らく学生時代は友達がいなかったタイプだろう。
今日も酒の席で、「深見君もそろそろ自分でさ、クライアントがどんな事を考えているのかって理解できる様になっていかなきゃダメだよ。普通は他社の人間に対してこんなアドバイスなんてしないよ?言って貰えるうちが花だと思ってしっかり考えて仕事に活かさなきゃ。」なんて事をグタグタ喋っていた。
ハイハイ聞いていたが、鬱陶しいと言う以外の感想はない。
オマエのアドバイスは断じていらん。と頭の中で反芻していた。
10時過ぎには解散になっただけマシか。
2軒目に行こうなんて言われていたら本当にゲンナリするところだ。
間の悪い事に、その中村も田園都市線沿いに住んでいるらしく、帰りの電車が同じになってしまった。
鷺沼と言う駅で降りていくまで、中村は自分が如何に有能かを喋り続けていた。
それに対してアラタは無能だということも時々織り交ぜながら。
周りの人たちの目が痛かった。
中村が降りて行ったあと、向かいに座っていたサラリーマンが目で「お疲れ様」と言ってくれた気がした。
長津田駅に着き、家までの間にあるコンビニでビールとカップ焼きそばを買って帰った。
ビニール袋と鞄を片手で持ち、片手で鞄の中の鍵を探しながら階段を上がる。
すると、アラタの家のドアにタブレットが立て掛けられているのに気づいた。
部屋番号を確認するが間違いなくアラタの部屋だ。
だが、このタブレットに覚えはない。
B5位のサイズの黒いタブレット。裏を見てもメーカー名などは書いておらず、真っ黒だ。
交番に届けるか?と思ったが交番は駅の方まで行かなければない。
来た道を戻るのは面倒だ。
誰の落し物かは知らないが、届けるのはどっちみち明日で良いだろう、と思いドアを開ける。
家に入り、ジャケットだけ脱いでベッドに倒れ込む。
このまま寝てしまいたいが、腹が減った。
蚊取線香の様な電気調理器に水を入れたヤカンを乗せ、ビールを開けた。
テレビをつけようとリモコンを探していると、タブレットが光っているのが目に入った。
電源を入れた覚えはないのに、と思って持ってみると、
「所有者登録して下さい。」
と言う文字が表示されている。背景などはなく、黒い画面に文字だけが白く浮かんでいる。
“所有者登録?”
画面をタップしてみると、名前を入力するらしいフォームが表れた。
“誰かの落し物なんだろうし、俺が登録しちゃうのはマズイよな…。”
とりあえず今日はもう寝よう。大きく息を吐いた後、簡単にシャワーを浴びる。
バスタオルを洗濯していなかったことを思い出し、洗濯機の中からまだ湿っているバスタオルを取り出し、身体を拭く。
背中などにまだ水滴が残っているのを感じるが、気にせず全裸にバスタオルを巻いただけの状態でベッドに腰掛ける。
明日もあの中村と同じ仕事だ。
渋谷のパルコ前のスペースを借りて、飲料メーカーの新商品サンプリングを行う。
木・金・土・日と4日間行われる事になっていて、今日はその初日だった。
まだ3日もあの男と一緒だと思うと気が重い。もし遅刻でもしようものなら何を言われるか、そう考えただけで腹が立つ。
ビールを飲み干すと、ベッドに寝転がって目を閉じた。
“あ、歯磨きしてねぇや…。まぁいっか。”
歯磨きの為に立ち上がるのは億劫だ。酔いも手伝い、あっという間に眠りの世界へと引き込まれた。
翌日、案の定中村は細かい文句を言ってきた。
声が小さいだのコンパニオンにしっかり教育させてるのかだの。途中、クライアントらしき人が視察に来たが、その時の態度の変わりように改めて腹が立つ。
あたかも全て自分が仕切っているかのように、今回の案件がどれだけ好意的に受け止められているか、自分よりも背の低いクライアントに目線を合わせる様に腰を折り、手もみをしながら話す。
“ろくに現場を見てもいねぇ癖に、あの野郎。”
アルバイトのスタッフに交代でランチ休憩を取らせて、3時に近い時間になってアラタもようやく短い休憩を取る事が出来た。
会場から少しでも離れたくて、弁当を持って徒歩2分ほどの小さな公園を目指して歩く。
自動販売機で缶コーヒーを買い、公園のベンチに腰を下ろした。
“この公園を知っていて良かった。”
渋谷では、ふと座ると言ってもなかなかその場所がない。
ファーストフード店にでも入るか、少し時間があるならマンガ喫茶にでも行くか。どちらにしても、30分後には戻っていないといけないのだから、そんな余裕はない。
ベンチに座って弁当を食べ、コーヒーを飲んでタバコの1本でも喫えれば十分だ。
鞄から昨日のタブレットを取り出す。
朝、時間があれば交番に届けようと思っていたのだが、思ったよりもギリギリだったのでそのまま持ってきてしまった。
“もうこれ、貰っちゃっていいよな、交番に届けたりするのも面倒だし…。”
後ろめたい気持ちはありつつも、タブレットを持つと画面が出てきた。
「所有者登録して下さい。」
昨日と同じ画面だ。タップすると、昨日も見た名前を登録する画面に切り替わる。
入力するのは名前だけで、所属とか住所とかはないらしい。
名前を入力すると、「Mind Control Panel」というロゴマークが出てきた。
“マインドコントロールパネル?なんだそりゃ、そんなメーカー聞いた事もないな。中国製の安物か何かかな…。”
怪訝に思っていると、数秒後「被操作者を入力して下さい。」という文言とその横に入力できる枠が出てきた。
“被操作者?なんだろう、当然操作されるものって意味だろうけど…。まぁ、ゲームかなんかのキャラを設定するんだろうな。”
誰にしようか、頭の中で何人か思い浮かべようとするが、なかなか思い浮かんでこない。
“操作出来るんなら嫌なヤツの方が良いよな。じゃぁここはあの中村にしてやろう。アイツを操作して服従させてやるってのはゲームとはいえ爽快だ。”
入力する欄が二つに分かれているところをみると、当然苗字と名前を入力するのだろう。
“中村は確か、下の名前は義行だったな。義を行うって感じは全くないけど。
すると次は「対象を入力して下さい」だ。ここは当然アラタ自身だろう。深見新、と入力する。
次はドロップダウンパネルで愛情・友情・主従が選べる様だ。
“主従だな。あの野郎を従属させてやると思うと気分が良い。愛されたり友情を持たれるのも気持ち悪い。”
そして、その下にあるレバー状のもの。マイナス100%~プラス100%まで設定できる様だ。従属する度合いって事か。ならもちろんプラス100%だ、絶対服従。ざまぁみろ。
登録ボタンを押した。
何も変わらない。
“そりゃそうか。まぁなんかちょっと気が晴れた気がするし良いかな。残り3時間、とっとと終わらせちまおう。”
イベントスペースに戻ると、中村の姿が見えない。
「あれ?中村さんは?」
「お昼じゃないですかね?フラッとどっか行っちゃいましたよ。」
“あの野郎、サボってやがるな。腹立つ。まぁ俺としてはいない方がやり易くていいけど。”
暫く声を出していると、中村が戻ってきたらしい。話すのも面倒なので気づかない振りをする。
すると。
「深見様!失礼いたしました!ささ、どうぞ奥で椅子に座ってらして下さい!」
「は?」
「いえいえ、ここは私がおりますので、深見様はお休みいただければ!」
「いえ、ついさっきお昼休憩をいただいたんで大丈夫ですよ。というか深見様?どうしたんですか?中村さん。」
「いえいえ、私の様なものにさん付けなど滅相もございません。呼び捨てでけっこうでございます。とにかく、この様な場所におられてはお疲れになるでしょう。どうかお休みになられますように、ささ!」
周囲の目が痛い。どういうジョークだよコイツ。とりあえず、この雰囲気から逃れる為に控室、と言ってもセットの裏側にある、荷物を置くのと椅子が1つあるだけの、1平米くらいのスペースだが、そこに中村を連れて移動した。
「ちょっと中村さん、どういうおつもりなんですか?コンパニオンの子たちもびっくりしてたじゃないですか。」
「も!申し訳ございません!ただ、深見様の様な方があのように路上で大声をお出しになるなど、無礼極まりないと思いまして。とはいえ仕事として誰かがやらなければいけないのであれば私が変わるのが当然でございましょう。どちらにせよ私はさしてやる事もない身ですから、深見様の代わりにこの身をささげさせていただく所存です。」
やることないって言っちゃったよコイツ。
「では失礼いたします!」
と言って中村は足早に休憩スペースから出て行った。
なんだったんだ、今のは。
“というか、さっきのタブレットか?”
荷物の中からチラッと真っ黒のタブレットが見えている。
“それしかこの状況は考えられないよな…。”
他人の心を自由にコントロール出来る能力がついているタブレット。
そんなわけはないと思うのだが、先ほどの中村の様子を見ている限りそうとしか思えない。
「中村さん。」「…はい!私の事は中村、とお呼び下さい。」
「そうか。」「はい。それで、御用はなんでしょう。」
「いや、なんでもない、仕事に戻れ。」「はっ!」
「おい中村。」「はいっ!」
「…なんでもない、仕事に戻れ。」「はっ!」
名前を呼べば3秒もせずにやってくる中村。冗談にしては顔がマジだ。2回同じことを繰り返しても何も言ってこない。
「おい中村。」「はいっ!」
「…なんでもない、仕事に戻れ。」「はっ!」
畏怖、というのはこういう事を言うのだろう。
恐怖と尊敬、その両方の感情が深く入り乱れている様な、中村はそんな表情に見えた。