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月みちる

作者: 裕久

「桜さく」の続きになります。


地下鉄から地上へと昇る階段を出て空を見上げると、大きな月が俺を見ていた。

凍えそうな真冬の月。

かじかんだ手を暖めるように、両手に白い息を吹きかける。


今日もまた、さよならを言うだけだった。


なにも、できなかった。


そんな自分が歯がゆい。


月が、遠い。

手を伸ばせば届きそうなほどの存在感があるのに。


家まで送ると言った俺を、月子さんはあっさりとかわした。

否と言われるとそれ以上はどうしても強く出れない。

ずっと見送ったその背中は、何度も俺を振り返った。

そのたびにひきとめようとするのだけれど、やっぱり言葉は出てこなくて。

笑顔でばいばいと言う月子さんを、ただ見送るだけだった。

もし、あそこで待ってと言ったら、そしたら月子さんは立ち止まってくれただろうか。

やっぱり送るよと言ったら、少し困った顔をしてそれでもそれ以上はだめだと言わなかっただろうか。


大きなため息が空へと消えていく。


いま、流れ星が瞬いた。

ような気がした。


もしかして泣いてるんだろうか。

滲んだ月は俺を笑っているんだろうか。


少しずつ小さくなってく月子さんの背中は、この空に浮かぶ月とおなじ。

近くて遠い。

手を伸ばしても届かない。

俺の声も。

気持も。



月子さんは、俺の彼女だ。

友達にも家族にもそう紹介する。

自分のやってるバンドのメンバーも、みんな月子さんのことを知っている。

どれだけ月子さんのことを好きなのかも。

最近増えてきた雑誌のインタビューでも、臆面もなく月子さんのことを話しているので先輩のハルさんに注意された。

何かあってからでは困るから。

月子さんに迷惑がかかっていはいけないから。

ファンというバンドにはありがたい人たちの中に少し困った人がいるのも事実だから。

だから最近では月子さんのことを公式に語らないようになった。

それでも昔からのファンは月子さんのことを知っていて、そして月子さんは何も言わないけれど月子さんに直接会いに行ったりする人もいたようだ。

その事実に脅えた。

自分のせいで誰かが月子さんを傷つけやしないかと。

この俺が月子さんをこんなに大事にしているのに。

大事にしすぎて、それで何もできないでいるというのに。


恋は人並みにしてきたつもりだ。

女の子と話したり、手をつないだり、キスをしたり、抱きしめたり、肌を触れあわせたり。

なのに、月子さんとはどれも満足にできない。

話をするだけでどきどきしてしまう。

月子さんは俺にキスをしてくれるけど、自分から月子さんにキスしたことはない。

そんなこと、とてもできない。

触れたら消えてしまうんじゃないか、って今でも思ってる。


だから、俺は月子さんからの連絡を待つだけ。


気が向いた時に、月子さんからの電話が鳴る。

今すぐ来てって月子さんに言われると、さんざん待てを食らった犬のようにしっぽを振って喜んで飛んでいく。

お酒の大好きな月子さんにつきあって、少しごはんを食べて、そして近くの駅まで送って行く。

いつも家まで送ると言うのだけれど、月子さんが頷いてくれたことは一度もない。

そう。

俺はまだ月子さんの家に行ったことがない。


その代りといってはなんだけど、月子さんが俺の家に来たことはある。

母さんは女の子がほしくてほしくてほしくて、それでも男の子しか産むことができなかったことを今でも悔やんでいるくらいの人なので、月子さんを連れていくととても喜んだ。

やっぱり女の子はいいわねえと、リビングでお茶を飲む月子さんをうっとりと眺めたりする。

中学生の時にぐれたのはそんな母さんのせいだ。

そんな母さんがつけた「ミチル」という名前のせいだ。

どこから見ても女の名前をつけられた俺は当然この名前のせいでよくからかわれた。

いじめられた。

幸い体が小さくなかったのでひどいいじめをうけることはなかったけれど、女みたいな名前だとずっと言われ続けることはつらかった。

クラスの女子にまでミチルちゃんとからかわれることは屈辱以外のなにものでもなかった。


髪を染めて、たばこを吸って、悪い言葉を使って、精一杯いきがってみたけれどそれが限界だった。

不良にはなれなかった。


ミチルという名の少年。

10代のほとんどをその名前と闘ってきたと言っても過言ではないはず。


月子さんは、俺のことをさくと呼ぶ。

ミチルという名前ではなく、苗字の桜井からとって。


俺は、月子さんに救われたのだ。




「さく、今ね駅についたの。すぐ迎えにきて」

バイトが上がる少し前、携帯が鳴った。

慌てて居酒屋のエプロンを脱ぎ捨てて店を飛び出した。

後ろでバイト仲間がお疲れーーと叫んでいるのを聞きながら。

今日も、とても寒い。

もしかしたら雪が降るかもしれないと今朝の天気予報で言っていた。

駅までの道を、人ごみをよけながら駆けていく。

バイト中に来ていた半袖のTシャツの上にダウンジャケットを羽織っただけだったけれど、駅に着くころには汗が額に浮かんだ。

「おそい」

はーはーと肩で息をする俺に月子さんが鬼のひとこと。

「すっごくおなかがすいてるから、早くごはん食べに行こう」

そう言うと左手を取って歩き出す。

自分の心臓のどきどきが、走ったせいなのかそれとも月子さんと手をつないでいるせいなのかわからないまま月子さんについていく。

月子さんは、小さい。

めいっぱいヒールの靴を履いてるけど、俺と並ぶと頭のてっぺんが顎の下にくる。

でたらめな鼻歌を歌いながらつないでいる手をぶんぶんと振っている。

ご機嫌らしい。

「なに食べる?さく、お腹すいてるの。私、中華がいいんだけど」

月子さんの言い方がかわいくて笑うと、月子さんはむっとした顔で睨む。

「ごめん。中華でいいよ」

「なによそれ。中華で、って」

「ごめん。中華がいいです」

わざとらしく大きく頷いて月子さんは満足げ。

とても庶民的な中華屋さんに入ってくと、月子さんはとりあえずビールとお水を持ってきたおじさんに告げる。

おっさんだ。

絶対言わないけど。

「俺、ぎょうざ」

だと思った、と月子さんに言われる。

「さくはいっつも餃子だよね。餃子があればいいんだよね」

うん、俺三食餃子でも全然いいよと言うと、月子さんはふーんと聞き流す。

ひどいよね。

「餃子ね、餃子。あとニラレバ。麻婆豆腐とカニ玉も」

月子さんはさっさと注文を決めてビールを飲む。

「今日は、遅かったね。今まで仕事してたの」

お気楽OLの月子さんは五時が定時だ。

「そんなわけないじゃない。さっきまで涼子と買い物したりしてたの」

そうなんだ、と返事をすると月子さんがにらんでくる。

「え、なに」

別に、と月子さんがそっぽを向く。

またなにか、怒らせるようなことを言っただろうか。

月子さんの気持ちを汲むのはとてつもなく難しい。

昼間は一応大学に通って、夕方からバイトに明け暮れて合間にバンド練習やらライブやらを入れている俺の日常は忙しい。

毎日月子さんに会いたいけれど、それは難しい。

幸い月子さんから連絡が来るのが週に一回くらいなので、助かってる。

最近はライブにもあまり来てくれないのは、やっぱりファンを警戒してるんだろうか。

来てほしいんだけど。

って、言えないけど。

「俺、次のライブで、歌わせてもらえるんだ」

そっと言ってみる。

月子さんがびっくりした目で俺を見る。

「ほんと。すごい。聞きたい」

じゃ、聞きに来てよって言葉がどうしても出てこない。

「行こうかな、ライブ。久しぶりに」

少し小さな声になってる月子さんをびっくりして見つめた。

「なによ」

いやべつになにもとごにょごにょつぶやく。

「チケット、渡すね」

そう言うと、月子さんは満面の笑みで頷いた。


お店を出ると、空から白いものが舞っていた。

「うわぁ、雪だ」

月子さんがはしゃいで空を仰ぐ。

「でもさむーーい」

手に息を吹きかけてから、そっと俺のポケットに手を入れてくる。

どきどきして月子さんを見ると、知らん顔をして空を見てた。

左のポケットに入れられた手を、そっと握りしめた。

うふふと月子さんが笑って俺を見る。

えへへと笑い返して歩き出す。


今キスしたら餃子臭いかな、って月子さんが言うので、

「大丈夫だよ、二人とも餃子臭いはずだからわかんないよ」

と言うと、月子さんがめいっぱい背伸びをして俺にキスをしてくれた。

うふふと笑う月子さんに、俺は何も言えなくてうつむく。

隣で溜息をつく気配。

白い息が盛大に空に消えていく。

「雪、やんじゃったね」

そうだね、と一緒に空を見上げる。


いつもの駅の改札で、月子さんがじゃあねとポケットから手を出した。

つないだままの手を今日は離さないと、月子さんを見つめる。

「家まで、送るよ」

「いいよ、寒いから。さく、明日も学校でしょ」

「月子さんだって仕事でしょ」

そうだけど、と月子さんは首を少しかしげる。

「送りたいんだ」

つないだ手に力を込める。

うふふと笑う月子さんを、ちゃんと目をそらさずに見つめた。

「もう、ここで月子さんの背中を見送るの、いやなんだ」

つないだ手を引くと、月子さんを胸に抱く形になった。

どきどきして月子さんを見ると、そっと頷いてぎゅっと俺にしがみついてきたのがわかった。


月子さんは、一人暮らしをしている。

実家はそんなに遠くはないけれど、25歳を過ぎてから独り立ちせねばとアパートを借りたと言っていた。

ほんとに古くて汚いから。

しきりにそんな風に言って、眉を寄せる。

いつもの駅から五つ目の駅が月子さんの住む街。

俺が初めて降りる駅。

駅前にはコンビニとパチンコ屋と居酒屋がいくつか軒を連ねていた。

周りを大きく見渡していた俺の手をひっぱって、こっち、と月子さんが言う。

電車の中でもずっと離れなかった手だ。

「ちょっと前髪伸びたんじゃない」

月子さんが手を伸ばして鼻の頭にかかる髪をすくう。

その手がくすぐったくて、くしゃみが出た。

顔を見合せて、月子さんと笑う。

その横顔に、そっとキスをする。

びっくりする月子さんがおかしくて、こんどはひとりで笑う。

うふふと月子さんも笑う。

つないだ手が、とても温かかった。





今日はここまで。


月子さんの家のまえでその手を離した俺は意気地なしだっただろうか。

小さく手をふる月子さんを振り返り振り返り、俺は駅までの道を戻る。

とても幸せな気分だった。



それからしばらく会えない日が続いていた。

ライブのチケットを渡すという約束も果たせていないまま。

そんなある日。

「月子さん」

びっくりした。

月子さんが、店先でうふふと笑って立っていた。

今まで月子さんが突然こんな風にやってきたことは一度もなかった。

そのせいだろう、俺はかなり動揺していた。

なに、彼女かよー、とバイト仲間に言われてかっと顔がほてるのがわかった。

「どうして」

それを隠すために出たぶっきらぼうな声に、月子さんの笑顔が少し曇る。

「だって、会いたくて」

それでも笑顔を崩さない月子さんに、周りのみんながひゅーっとはやし立てる。

「なんだよそれ、中学生じゃないっつーの」

ほんとは、ただの照れ隠しだった。

月子さんを傷つけるつもりは毛頭なかった。それだけは誓える。

笑顔が凍りついたのは、一瞬だったので俺以外の誰も気付かなかったと思う。

それでも月子さんは健気にも笑顔を通した。

「なーんてね。たまたま通りかかったから、どうしてるかなーって思って覗いただけよ。これから涼子とご飯いくの。じゃあ、またね」

そうやって手を振る。

ごめんねが言えずに、手を振り返すこともできずに、ただ突っ立ったまま月子さんを見送った。

月子さんは、一度も振り返らなかった。


ほんとうは、とてもうれしかったんだ。

会いに来てくれて。

ほんとうは、とても会いたかったんだ。

月子さんに会いたかった。

それでも俺の日常が、それを阻んだ。

練習のためにスタジオを借りるのにはお金がかかる。

ライブをやるのだって、お金がかかる。

だからそのためにバイトに出なくちゃいけない。

学校だって行かなくちゃいけない。

会いたいけど、俺には時間がなかった。

それは言い訳なんだろうけど、その時の俺は自分のことしか見えてなくて、それが精いっぱいだったんだ。



そして、それから一か月、月子さんから電話が鳴ることはなかった。



初めの一週間は、あれ?って思ったけど忙しさにかまけてすぐに忘れた。

次の一週間は、あれれ??って思ったけど、それでも忙しい日々に考える間もなかった。

さすがに次の一週間は、電話が来ないことに焦りを感じるようになった。

それでも自分から電話はできず、時々携帯を睨みつけて、一週間は矢のように過ぎた。

さらに次の一週間は、今さら自分から電話もできずに悶々としてた。



「さっき、スタジオの前で月子さん見たぞ」

部屋に入ってきたハルさんが呑気そうにそう言った。

「え」

ものすごい形相でハルさんを振りかえったんだろう。

「な、なんだよ、ミッチー」

「月子さん、今どこに」

ハルさんに詰め寄ると、ハルさんはたじろいで持ってた煙草を灰皿に押し付けた。

「いや、声かけたらなんかびっくりしたみたいにして帰ってったけど」

「どうして引きとめてくれなかったんですか」

「どうしてって、なんだよ、お前たち喧嘩でもしてんのかよ」

呑気なことを言うハルさんの言葉にまともに返せず、いや別にとかなんとか口の中でもごもごと言う。

「そういえば俺もこないだ月子さん見かけたよ、ライブハウスらへんで」

ギターの浜地さんがこれまた呑気に言う。

「なにしてんの、って声かけたら、ストーカーごっこ、って言ってた」

わははと、笑う。

いや、笑いごとじゃないし。

「最近ライブにも来てないよな、月子さん。お前、なにやったんだよ」

にやにやして浜地さんが小突く。

「なにもしてませんよ」

ストーカーごっこだから、お前には内緒にしておいてくれって言われたんだった。

と浜地さんがしまったと呟く。


スタジオを飛び出して、月子さんの家にむかった。

鞄を置いてきたので、携帯も財布も持ってなかった。

ズボンのポケットにあった小銭をかき集めて、月子さんの住む街までの切符を買う。

電車に揺られてる時間ももどかしくて、駅から月子さんの家までをずっと走った。

一緒に歩いたことのある道。

手をつないで、その手をポケットで温めながら歩いた道。

その道をひたすら、走り続けた。


「月子さん」

呼び鈴を鳴らしても、ドアをノックしても、月子さんの気配はなかった。

まだ帰ってないんだ。

心臓が破裂しそうなくらいばくばく言ってて、口の中に鉄の味が広がる。

こんなに走ったのは久しぶりだ。

月子さんの家のドアに背中をつけて、ずるずると座り込む。

はぁはぁと肩で息をしているうちに、ぽつぽつと空から滴が落ちてきた。

雨だ。

「月子さん」

会いたくて。

月子さんに会いたくて。

ひたすら走ってきたけれど、会えなかった。

どうしよう。

携帯も財布も置いてきた。

帰ろうにも、帰れない。

しばらく玄関先で座り込んでいたけれど、同じアパートの住人が訝しげにしているのが気になって、アパートの階段をおりた。

少し先に、今は珍しい公衆電話のボックスがあった。

力なくドアを開いて、中で座り込む。

「月子さん」

会いたい。

ただ、会いたいという気持ちを持て余す。

時間だけがゆるゆると流れていく。

雨は次第に強くなって、街灯に明かりがともった。

今、何時だろう。

月子さんは傘を持ってるだろうか。

駅からどうやってかえってくるんだろう。

足の先が冷たくなって感覚が鈍くなってゆく。

どれだけのわがままを月子さんに押し付けてきたんだろう。

忙しいから、会えない。

せっかく会いに来てくれたのに、邪険に追い払う。

月子さんの愛情を疑わずに、どっかりとその上に胡坐をかいて、俺はいったい月子さんに何をしてあげたんだろう。

月子さんが、俺のことを好きでいてくれたから、俺は安心して日々の生活を送れていたというのに。

俺は何一つ確かなものを月子さんに上げられなかった。

なのに、信じて欲しいと無理強いした。

何も言わなくてもわかってほしい。

会いたくても会えないのを我慢してほしい。

傲慢な俺の気持ちに月子さんが愛想を尽かさないという保証はどこにもないのに。

「さく」

こんこんとガラスを叩く音に慌てて眼を上げると、そこには月子さんが立っていた。

びっくりしたように大きく目を見開いて。

赤い傘をさしている。

よかった。傘を持っていたんだ。

「どうしたの、こんなところで」

ずっとしゃがんでいたせいで、膝の感覚がおかしい。

「うち来るなら電話してくれたらよかったのに」

「・・・携帯も財布も置いてきちゃって」

え、と月子さんが驚く。

「どうしたの。いつから待ってたの」

コンクリートの上に座り込んでいたせいでお尻も痛い。

前かがみになる俺を支えるようにして、月子さんが腕をつかむ。

「早く、家、行こう。濡れちゃってるじゃない」

隙間から入り込む雨で、いつの間にか全身ぬれ鼠だった。

「風邪ひいちゃったらたいへん」

月子さん、と俺がつぶやくと月子さんは俺の顔をのぞき込んで、なあにと聞く。

「月子さん」

名前を呼ぶしかできなかった。

会いたかったんだ。

とても。

あなたに会いたくて、ずっと走ってきたんだ。

月子さん。

「さく」

気付かないうちに涙があふれていた。

自分の顔を濡らすのが涙なのか雨なのかわからなかった。

ただ俺の腕に伝わる月子さんの温もりが切なくて、その腕にすがった。

会いたかった月子さんに、すがった。

赤い傘が、風におあられて飛んでゆく。

月子さんまでが雨に濡れて、ひたすら俺をだきしめてくれた。

「月子さん」

雨音が大きくて、俺の言葉は月子さんに届かない。

会いたかった。

会いたかった。


会いたかった、月子さん。


いつの間にかアスファルトの上に膝をついて月子さんにすがっていた。

雨に打たれながら、月子さんは俺の背中を抱く。

さく、と耳元で呼ぶ声が聞こえる。

会いたかった。

月子さんの声が響く。


会いたかったよ、さく。






後ろ手でドアを閉めて、そのまま月子さんを後ろから抱きしめた。

二人とも雨が滴り落ちたまま。

電気もつけないまま。

濡れた服越しに、月子さんの体温を感じる。

奥の部屋の窓から差し込むわずかな月明かりが、月子さんの顔を浮かび上がらせていた。

月子さんの体が強張ってるのが、よくわかった。

「さく」

それでも腕を振りほどこうとはしない。

「さく」

震えるようなかすかな声で月子さんが名前を呼ぶ。

「なに」

抱きしめたまま、月子さんの濡れた髪に唇を寄せた。

「さく」

まわした腕にぎゅうっと力を込めると、月子さんの手から鞄が落ちた。

長くて黒い髪をかきわけ、うなじに顔をうずめて唇を押し付けると、月子さんの体がびくっと反応した。

「さく」

なに、と言いながら、唇で唇を探す。

そろそろと月子さんがこっちを向く。

ようやく探し当てた唇に強くキスをする。

抗うように月子さんの体が離れようとするのをかまわず抱き寄せた。

今まで何を遠慮していたんだろう。

月子さんに触れるのを、どうして我慢してたんだろう。

「さく」

キスの合間に呼ぶ声が、段々切なげになる。

月子さん。


月子さん。


どうしてこんなに愛しいんだろう。


あぁ、月子さん。


こうして触れるまで、どれだけの時間が必要だったか。


月子さん。


自分のことで精いっぱいで、あなたのことを思いやる間がなかったことを、ほんとうに悪かったと思ってる。


こんなにも好きなのに。


ずっと触れたかったのに。


あなたのすべてが、ほしかったのに。


すべてがほしいと、言えずにいた。


月子さん。


月子さん。



月子さん。






朝の陽ざしと、月子さんの寝顔。

とても愛しくて、かわいくて、嬉しくて。

こんな日が永遠に続けばいいのに。


月子さん。



「さくちゃん、月子が大変なの」

ライブが終わったあとの楽屋に月子さんの友達の涼子さんが血相を変えて飛び込んできた。

「え」

とても久しぶりに月子さんが歌を聴きに来てくれて、とてもいい気分だったのがいっぺんに吹っ飛んだ。

「さっきここの階段から落ちて」

涼子さんの言葉を最後まで聞かずに楽屋を飛び出した。

いつかのハルさんの忠告が頭の中でリフレインする。

何かあってからでは困るから。

月子さんに迷惑がかかっていはいけないから。

ファンというバンドにはありがたい人たちの中に少し困った人がいるのも事実だから。

くそっ、と口の中で呟く。

遠くで救急車のサイレンが聞こえる。

ライブハウスの入り口には黒い人だかり。

それをかきわけて階段の下にたどりつく。

「月子さん」

足と手を押さえて横たわったままの月子さんを見て、めまいがした。

「どうして」

抱え起こそうとして、スタッフに止められた。

「折れてるかもしれないから、動かさない方がいい」

その言葉にかっとなる。

人混みをかきわけ、涼子さんが現れた。

「救急車、来るから。私がついてくから、さくちゃんあとから来な」

車に乗り込む時、こっそり涼子さんがささやいた。

「言いたくないけど、あんたのファンの子だと思う」

さっと血の気がひく。

そして同じ速さで頭に血が上った。

さっきのライブの客たちは、まだほとんどが入口付近に残っていた。

たぶんものすごく険しい顔をしていたのだろう。

何人かが俺を見て道をあけた。

「おい、誰だよ。月子さんに、あんなことしたやつ、誰だよ」

それまでのざわめきが一瞬で消えた。

もちろん名乗り出るやつなんていない。

その場にいる奴らを全員見回した。

誰も俺と目を合わそうとしない。

「俺は、絶対にゆるさない。いいか。次はないからな」

そして、怒りを壁にぶつけた。

コンクリートの壁に打ち付けられた右手から、血が流れた。

それを見て小さく悲鳴を上げるやつがいた。

こんな血くらい。

そばのごみ箱を思いっきり蹴飛ばして、俺は大声で叫んだ。


どうしてこんなことに。


「前にも、何回かあったのよ。人ごみの中でちょっと押されたり、どさくさにまぎれて殴られたり。階段から突き落とされるなんてのはさすがに初めてだけど」

病室の前で、涼子さんは声を殺して怒っていた。

「わかってるでしょ。さくちゃん。あんたのファンが、月子に嫌がらせしてんのよ」

耳が痛い。

心も痛い。

「幸い、手首にちょっとひびが入っただけってことだけど、これで頭のうちどころが悪かったりしたら、シャレになんないことになってたんだからね」

念のために撮ったCTで異常が見られなくて、心の底からほっとした。

涼子さんに礼を言って、そっと病室に入った。

「さく」

俺を見て笑顔になった月子さんは、ごめんねと言って唇をかんだ。

「どうして月子さんが謝るんだよ」

「だって、ライブハウスに迷惑かけちゃって」

包帯の巻かれていない方の手を握る。

「そんなこと」

俺のほうこそ、謝らなくちゃいけないのに。

俺のせいで。

「さくのせいじゃないよ」

「俺のせいだよ」

涙が落ちそうになるのを必死でこらえると、声が震えた。

「月子さん、どうして言ってくれなかったんだよ。今までにも、誰かに何かされてたんだろ。知ってたら、俺、月子さんにライブ、来させなかったのに」

握りしめた右手に唇をつけた。

「さく」

頭、なでてあげたいのに、こっちの手、使えないから。

そう言って月子さんは弱く笑う。

いやだ。

そんな笑顔は見たくない。

「お願いだ、月子さん。もう、ライブ、来ないでくれ」

その言葉に月子さんは泣きそうな顔になる。

「さくの歌、聞きたいのに」

「お願いだ。頼むから、もうこんなこと、たくさんだよ」






月子さんを傷つけてまで、俺はいったいなにを守ろうとしたんだろう。

月子さんが聞いてくれなくちゃ、歌う意味なんてないのに。

月子さん以外の誰に歌を聞かせたいんだろう。

そんな人間はいない。


だったら、俺が歌う意味はない。



バンドをやめると言うと、ハルさんはその美しい顔を曇らせた。

「月子さんの事故のせい?」

頷くと、ハルさんは大きなため息をつく。

「もったいないな」

すみません、と頭を下げる。

「実は、俺もやめようと思ってたんだ」

え、とびっくりしてハルさんを見た。

「もともと俺の道楽で始めたようなもんだし。最近事務所のほうの仕事が忙しくなってきてさ。そっちの方に本腰入れようかと思って」

うちのバンドは、ハルさんのその美貌が目玉だった。

そんなハルさんは、最近ではモデルとして雑誌やCMに出るようになっててどっちが本業か分からないくらいの多忙を極めていた。

ハルさんの人望で集まった仲間だった。

ハルさんがやめるというなら、きっと異論はないはず。

「俺よりずっといい歌うたうから、お前にバンドまかせようって考えてた」

尊敬するハルさんにそう言われて、涙が出るほどうれしかった。

でも。

「まぁ、好きな女守れないようじゃ、ツライよな」

そら見たことか、とハルさんは言わない。

もとはと言えば俺の軽率な発言が原因なのに。

月子さんをみんなに見せびらかしたかった。

俺の彼女なんだって、世界中の人に言って回りたかった。

まさか俺の彼女であることで月子さんを傷つけることになるなんて、考えもしなかった。

「お世話になりました」

再び頭を下げると、ハルさんはめんどくさそうに手をふった。

「お願いがあるんですけど」

そう言うと、怪訝な顔をしてハルさんは振り向く。

「スタジオ、使わせてもらっていいですか」



月子さんが好きだと言ってくれた、俺の歌。

月子さんがそう言ってくれたから、俺は自信を持てた。

名前にコンプレックスを抱いて、誰も信じられず、何も信じられず、自分すら信じられなかった。

月子さんが好きだと言ってくれたから、だから続けてこられた。

その月子さんを傷つけることになるなら、いつだってやめられる。

でも、最後に。

月子さんのためだけに、俺の歌を残しておきたいと思った。

他の誰も聞いてくれなくていい。

月子さんさえ聞いてくれるなら。


たった一人のために、俺は歌う。


見上げればいつもそこにある月。

月は日々満ちてゆく。

月子さんを満たすのは、俺でありたい。


初めて、自分の名前に意味を見つけられた気がした。

月子さんを満たすものでありたい。


月子さん。



春の話の続きが冬になってしまいました。

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