第4話 美容師の勘違い / 女装作戦開始
――― 翌朝。
エリシュは夜明けと共に目を覚まし、朝食をかき込むと街へ急いだ。
服装はいつもの薄汚れたズボンに、ゆるゆるのだらしない普段着のシャツだ。メイクや女装用の服にかかるお金だけを持って、美容院まで足を運んだ。
この街の美容師は朝早い。美容院でオシャレしてから出かけるような贅沢な庶民は、ほとんどいない。だがそんな庶民でも、特別なイベントがあれば、オシャレをしたいと張り切る事がある。
誕生日やデート、お見合いなどである。そういったイベントは、街のどこかで必ず毎日あるものだ。だから、美容院に勤務する美容師は、誰よりも朝早くからスタンバイしているのである。
「オシャレの門出は夜明けから」
これが、ロキシアの美容師の合言葉だった。
エリシュは、美容院というところに行ったことがない。幼い頃から、姉に髪を整えてもらっていたからだ。それも最近はサボるようになり、髪はすっかり伸び放題だった。面倒なのでいつも後ろで束ねて誤魔化していた。いわゆる男のポニーテールである。オシャレらしいことは、した事がなかったのだ。そして、エリシュにはおよそ男性らしくない一面があった。――― 髭である。
男が二十歳くらいになれば、髭が伸び目立つようになる。剃らずに1ヶ月も放置しておけば、人相が変わるくらい髭が生える者もいる。しかし、エリシュには髭がほとんど生えなかった。
元々体毛が薄い体質ではあるが、いつまで経っても肌はツルツルのままだった。稀にうっすらと生える産毛みたいな髭を、カミソリで一撫ですれば十分処理できていた。エリシュは「どうせ生えても剃るだけのものだし、手間が掛からなくてちょうどいいや」くらいにしか思っていなかった。
美容院のドアの前に立つ。こういうオシャレな雰囲気の店に入るのは初めてだ。緊張していた。ましてや、”男だけど女装したい”、と頼むのである。どんな扱いを受けるかわからない。下手をすれば、変態呼ばわりされ、叩き出されてしまうかもしれない。
「ええぃ! もういいや!」
覚悟を決めて思い切ってドアを開けると、カランカラーンと軽やかなベルの音がした。
「いらっしゃい。今日はどうしますか。髪型? メイク? それともお洋服かしら?」
気風の良さそうな中年の女性美容師が立っていた。にこやかに笑うその表情のおかげで、エリシュの緊張は少しほぐれていた。
「あ、あの……頭のてっぺんからつま先まで女の子にしてくださいっっ!」
「女の子に、って……。ああ! 今日は大事なデートの日なんだね? わかった、おばちゃんに任せておきなさい。とびっきりのお姫様にしてあげるから!」
どうやら通じてしまったらしい。エリシュは、「男のクセになんだい! あんたは変態かい?」と渋い顔をされると覚悟していた。だが、美容師は何の違和感もなく普通にエリシュを椅子に座らせ、そそくさとポニーテールを解き、髪をとかし始めたのである。
そう、美容師は完全にエリシュを女だと勘違いしたのだ。
「あ、あのぉ、俺は男なんで」
「そうかい、男の子とデートなんだねぇ。緊張するねぇ。でも大丈夫、あたしの手にかかればどんな娘よりも綺麗になるから。大船に乗ったつもりでいてね」
「は、はぁ……ありがとうございます」
エリシュは、男であることを告げようとしたが、美容師は勘違いしたままだった。
「それにしても、この辺りじゃ滅多に見ない美人だね。あたしゃもうここで30年も美容師やってるけど、今までのお客の中じゃ一番綺麗だよ。金色の髪はこーんなに滑らかで長いし、眼だって見事な蒼い猫目、鼻筋もすっと整ってて、唇も薄くて可愛いもんだ。色白でスベスベの肌だし……まったく、この世の者とは思えない小悪魔みたいなお嬢さんだねぇ。近所じゃさぞかし評判だろうね。今までは他の美容院に通ってたのかい?」
「……えっ、あっ、はい。隣町の美容院に」
咄嗟にウソをついてしまったエリシュ。せっかく上手く運んでいる女装である。バレるのが少し怖くなっていたのだ。
「そうかい。じゃあ今日は気合を入れてメイクアップするからね。もう隣町なんて行かなくていいくらい、おばちゃんが美容師人生賭けて、きっちりと仕上げてあげる!」
「は、はぁ、ありがとうございます」
エリシュは完全に気圧されていた。このおばちゃん美容師のやる気を刺激してしまったようだった。今さら「男です」なんて言える訳がない。とはいえ、結果オーライである。変態不審者扱いされず、女装することができるのだ。このくらいの勘違いは仕方がない。そう割り切ることにした。
「髪型の希望はあるかい?」
「……いえ、お任せします」
そういって2時間後に出来上がったのは、絵に描いたような見事な縦ロールパーマだった。貴族のお嬢様がよくやる、あの有名な髪型である。
「いやーやっぱりよく似合うね。あたしも久々に気合が入ったよ!」
「は、はぁ……」
「じゃ、次はメイクしていくよ」
「お、お願いします!」
すっかりペースを取られてしまったエリシュは、成す術なくおばちゃん美容師の言いなりになるしかなかった。
辺りに化粧品独特の匂いが立ち込める。一体どうなってしまうのだろうか。エリシュは不安だった。女装するのはいい。だが、ギルの印象に残らなかったら意味がないのだ。
一方、おばちゃん美容師は激しく燃えていた。
久々にやりがいのある客だ。これほど化粧ノリの良さそうなモチ肌は、初めてだったのだ。これまで培った全技術を駆使して、エリシュをメイクアップしていく。
……1時間も経っただろうか。美容師はため息をついた。
「はぁー。ごめんなさい、ダメだわ……」
「ダメ? 一体どういうことですか?」
エリシュは内心焦っていた。男の自分に女の化粧をしても、おかしな顔にしかならないのではないか? ベテラン美容師でさえも困ってしまうような、とんでもない仕上がりになっているのではないだろうか?
「あのねぇ……お客さん、あなた元の顔が良すぎるのよ。メイクってのはね、女をより綺麗になるためにする魔法みたいなもんなのよ。でもね、元から綺麗な顔には余計なお世話ってことになっちゃうのよ」
「ご、ごめんなさい」
「いえ、謝るのはこっちよ。メイクは薄目のナチュラルメイクにしておくよ。メイク料取るなんて言わないから、それで勘弁してちょうだいね」
「はい、わかりました……」
一体、おばちゃん美容師は何に怒っているのか、エリシュにはよくわからなかった。きっとメイクアップの職人として、仕事を果たせなかったのが、癇に障ったのだろう。
「次は服だけど……それにしてもお客さん、酷い服装だね。コレ、普段着かい?」
「ええ、そうですけど」
「よっぽどずぼらな性格してるんだねぇ。いくら美人だからって、そんなんじゃ男が逃げてくよ。もっとしっかりしなきゃ」
「は、はぁ」
エリシュは説教されていた。勘違いしたまま、どこまでも転がっているような気がする。こうなったら最後までバレないよう、隠し通すしかない。
「そうだねぇ、お客さんに似合う服装ってのもなかなか難しいね。ドレスかゴシック調のワンピースかねぇ……」
「それも、全部お任せします!」
エリシュには、女の服の種類などよくわからない。母はエリシュが幼い頃に他界している。姉は男の服しか着ない。だから服やファッションのことなど、家族で話題になったことすらないのだ。
「うん、ワンピースにしましょう!」
美容師は散々考えた挙句、店の奥からワンピースを何十枚と持ち出して来た。それをかわるがわる片っ端からエリシュにあてがっていった。
「よし、これだね、これなら大丈夫……」
服選びに1時間もかかったが、ようやくそれらしい服が決まったようだ。
「あ、じゃあ自分で着替えますので……」
エリシュは焦っていた。もし、着替えまでやってもらうことになったら、下着姿を見られてしまう。そうなれば、さすがに男だとバレてしまうだろう。
「何言ってるんだい、あたしが責任もって着替えさせてあげるから」
そう言って、おばちゃん美容師は素早くエリシュのシャツを脱がせた。今は暑い盛りの夏である。当然シャツ一枚しか着ていない。つまり、今、エリシュは上半身裸になってしまったのである。
「ハワッ、ごめんなさいっ!」
反射的に、エリシュの口からは謝罪の言葉が出ていた。男であることがバレ、怒られると思ったのだ。
だが、美容師の反応は意外なものだった。
「えっと……こんな美人さんでも神様は平等なんだねぇ。天は二物を与えずって……」
「……えっ?」
「ごめんなさいねぇ、あたしったらつい。……まさかお客さん、こんなに胸のない人だとは思わなかったもので。さぞコンプレックスだったでしょうねぇ。でも気にすることないよ。女の価値は胸なんかじゃ決まらない! 愛嬌よ、愛嬌! ハハハハ~」
豪快に笑うおばちゃん美容師。キツネにつままれたような顔をするエリシュ。
そう、おばちゃん美容師は、あくまでエリシュを女としてしか見ていなかったのである。これも、あまりに(女として)美形なエリシュのなせる業であろう。
「じゃあ下着と靴も用意しておくから、店の奥で着替えてらっしゃい」
「あ、ありがとうございます」
「本当にごめんねぇ、あたしったら全然気が利かなくて……」
エリシュは用意された服と靴、それに下着までも付けることになった。
「……でも女の下着ってどう着ければいいんだよ。まぁいいや、今回はつけずに出ることにしよう」
美容師から手渡された女物の下着を、自分が脱いだ服の中に隠すと、ワンピース姿でおばちゃん美容師の下に戻った。
「……さすがだねぇ。こんな容姿端麗なお嬢さん、見たことないよ。さぁさぁ、どうぞご自分でもご覧になって」
そう言われてエリシュは、店に備え付けられていた大きな姿見を覗いた。
そこには、金髪碧眼の見知らぬ美人が立っていた。いや、それはエリシュだった。
「ブフッ、……」
あまりの衝撃に思わず吹き出すエリシュ。鏡に映っているのは確かに自分である。だが、信じられないほど高貴で麗しいお嬢様に仕上がっていた。身内ですら、エリシュだとわからないかもしれない。ましてや、あのギルでは……。
「どう、仕上がりは?」
「よ、良いと思います。ありがとうございますっ!」
「そうそう、ずっと考えてたんだけどね、お代はその姿を写真に撮らせてもらうってことでどうだい?」
「写真を? ……どうしてですか?」
「店のディスプレイに飾って宣伝したいのよ」
エリシュは考えた。これだけのメイクとコーディネートだ。それなりの金がかかるだろう。それを無料にしてくれるという提案は魅力的だ。しかし自分の姿が写真に撮られ、人目に晒されるのには抵抗がある。この姿をエリシュと認識できる者は、たぶんいないだろう。だけど気分は良くない。
「お願いだよ、考えてくれないかねぇ」
手を合わせてエリシュに懇願する美容師。もう、店の宣伝に必死なのだろう。何しろ美容院はライバル店が多い。専属のモデルを雇って撮影するのは、多額の費用がかかる。客にモデルとして登場してもらえば、写真撮影のコストしかかからないのだ。しかも、エリシュのような美形モデルは、探そうと思っても滅多にいない。居たとして、出演料としてかなりの費用が必要になる。つまりエリシュの女装は、店にとっても願ったり叶ったりなのである。
エリシュは……ふと思いついた。
写真は高級品だ。撮影してもらうだけでも、結構な金が必要になる。庶民がおいそれと手にできるものではない。平均的なロキシア国民が写真を撮る機会は、生涯で1~2回程度だろう。実はエリシュもまだ撮ってもらったことはない。それならば、この機会を利用してギルとの記念写真を撮っておくのはどうだろうか。
「写真に写るのは問題ないです。でも、友人と2人で写ってもいいですか?」
「ああ、友人って言っても彼氏の事だね? もちろん大丈夫よ。むしろ恋人と2人で写ってた方が自然でいいわよ」
「ありがとうございますっ!」
エリシュは、嬉しさで胸がいっぱいになっていた。何しろ、もう二度と見られなくなってしまうかもしれない親友とのツーショットを、写真で残しておけるのだ。自分が女装姿というのが玉に瑕ではあるが、それも良い思い出になる。10年後に見れば、笑い飛ばせるような些細な問題だろう。
「じゃあ、夕方にまた来ますので!」
「はいよ、じゃあ待ってるから、名前を聞いておくね……」
「えっと……」
エリシュは迷っていた。本名を名乗ってしまったら、素性がバレてしまうかもしれない。何しろここロキシアの首都は小さい街である。本気で探そうと思えば、数日で自分まで辿り着く可能性もある。
「どうしたんだい? 名前はないのかい?」
「……いえ」
「あっ! わかったよ。あんた、もしかして貴族の御令嬢のお忍びかい? だから綺麗な顔の割に、小汚い服装してたんだね。変装って訳だったのかい。お忍びでデートなんて……お熱い話じゃないか」
「え、あ、まぁ……」
「そうかい、そうかい。それなら仕方ないね。名字はいらないから」
「エリシュ……です」
「はい、エリシュさんね。あんたくらいの別嬪、この街で探そうと思ったら直ぐ見つかるからね。もうわかったから、夕方またおいで。彼氏付きでね、アハハハ」
どうやらこの美容師は、思い込みの激しい人のようだった。それが今のエリシュには吉と出た。ギルが彼氏設定というのが、これまた凄い展開になりそうだが、ネタとしての思い出作りにはちょうどいい。エリシュはそう考えることにした。