7.船 × 6.鼠
「鼠が船に入り込んだ」
そう、船員が通信機に向かって囁いているのを聞いた。
奇妙だったのは、その後間もなく、他の船員達も含めて焦った様子を見せ始めた事だ。それどころか、この船の船長まで慌てて廊下を走り抜けていく姿を見掛けた。
中世の航路において、鼠の侵入は決して無視出来る物ではなかった。大海原という閉ざされた空間において、予定外の乗客というのは邪魔になるというだけの話にはならない。行き着く先があるのかも分からない旅程。最も重要で節約していかなけらばならない食料を、鼠は齧る。干し肉の端に小さな歯型が付く程度で済めば良いが、残念ながらそう上手く行くはずもなく。天敵の多い小動物という物は多く産む事で遺伝子を残そうとする。まさに鼠算式に増える。そうなればどうしようも無い。
しかし、この現代の航路において、鼠に食料を、等と考える事はあるだろうか。確かにこの船は豪華ではないにしろ立派な客船。鼠に齧られた食材を料理として出すわけにはいかないのは当然だから、気にしない事は当然出来ないのだろうけれど。今は冷蔵庫という便利な物がある。家庭用の物とは比べようもない程大きく重い代物だ。カートゥーンの世界でもあるまいし、それを開けられる鼠がいるとも思えない。
バタバタと、男たちが走り抜けていく。コックたちまで麺棒を懐に抱え込み、網を持った者までいる。あんな物で鼠を捕まえようというのか。適当に罠でも仕掛けて捕まえる方が楽だろうに。
そう言えば昔は、ラットキャッチャーなる職業もあったと聞く。かつて、と言っても私が生まれるはるか昔、我が母国をも襲った黒死病は、ヨーロッパ人口の三割を死に追いやるという甚大な被害を齎した。そうでなくとも鼠というのは多くの病原菌を抱え込んでいる。それらに巣食うダニやノミとて馬鹿には出来ない。ラットキャッチャーというのは、要はそれを防ぐ為に鼠を捕獲する専門家のような物だが、この物々しさはそんな職業を思い起こさせる。確かに、乗客を病気にするわけにはいかない、というのは分かるが、それにしたって船員を総動員する程の事でもあるまい。鼠由来の感染症ならば、大概病院に行けば大事に至る程の事でもない物がほとんどのはずだ。
ひょっとすると、鼠を捕まえると褒賞でも出るのだろうか。この国の過去の海軍では、そんな制度もあったらしい。鼠一匹に対して上陸許可が一度下りるという物。その名残とも思えないが、そういった事に対してメリットがある、というのは十分に考えられる話だ。
波に煽られたのか、グラリと船が揺れた。蛍光灯がチカチカと瞬く。
鼠の害と言えばもう一つ。
鼠に限らず齧歯類というのは、兎角色々な物を齧る動物だ。齧りやすい大きさであれば、たとえ食物でなかろうと関係ない。彼らにとって、例えば電源コードなんて物は非常に手頃である。LANケーブルを齧られてネットワークから孤立した、というのもよく耳にする話だ。
今の蛍光灯の瞬きは、別段鼠とは関わりのない現象なのだろうけれど。
どうやら大半の船員は鼠に掛かり切りになっているようで、船の制御が疎かになっているのではないか、とすら思えてくる。勿論、沈むような事にはならないだろうが。
いや、しかし。そうは言ってもこの状況、私には好都合。
運良く数人と出くわしただけで、目的の扉に辿りついた。
これは鼠様様と言っておこう。いっその事、このままどこかの電源ケーブルでも齧ってしまって構わない。そうなれば、闇に乗じて逃げるだけなのだから。
私はほくそ笑みながら、船倉へと侵入を果たし――
――右足に喰らい付いたトラバサミの感覚に、その言葉のこの国でのもう一つの意味を、ようやく思い出した。




