返金率は、百パーセント。
返金率は、百パーセント。
僕が母の五百万円を取り戻したことは、地元の新聞に載った。
その翌週、会社の受付に、知らない老人が一円玉を持って訪ねてきた。
「これも、五百万円にしていただけますか」
老人はそう言って、応接室のテーブルに一円玉を置いた。
爪の厚い、節の曲がった指だった。
僕は冗談だと思って、少し笑った。
老人は笑わなかった。
鞄から、二つ折りの新聞記事を取り出した。
僕と母が並んで写っていた。
〈息子の尽力で、老後資金が全額返還〉
老人は、写真の母を見つめた。
「お母様、お喜びだったでしょう」
「……ええ」
「そうでしょうね」
それから、自分の持ってきた一円玉を、指の腹で押さえた。
「私も、同じだけ預けたんです」
*
老人が来る三か月ほど前、母は電話口で、先に謝った。
「ごめんね。仕事中に」
「どうしたの」
「ちょっと、相談があって」
相談、と言ったあと、やけに長い沈黙があった。
母は昔から電話が下手だった。
宅配便を送るという連絡でも、天気と膝と近所の犬の話をしてから、ようやく伝票番号にたどり着く。
だから僕は、その日も急かした。
「要するに、何?」
返事は、さらに小さくなった。
「お金が、戻ってこなくて」
金額を聞いた。
五百万円だった。
僕は聞き返した。
母が答えた。
もう一度聞き返した。
三回目には、母は数字だけを答えた。
「五百万」
地元の資産運用会社に預けたという。
小型倉庫の賃貸事業に出資し、毎月、利益の一部を受け取る。
第一期募集は、地域の住民限定で百名。
一人一口、五百万円。
最初の数か月は、配当と説明された入金があった。
その後、設備の更新費用だとか、システムの切り替えだとかいう説明が続き、支払いが止まった。
母は契約の解約と元本の返還を申し出た。
担当者は、少々お待ちください、と繰り返し、やがて電話に出なくなった。
「なんで、先に相談しなかったんだよ」
「ごめん」
「五百万だぞ。どれだけ働いたら貯まると思ってるんだ」
「うん」
「一日一万円でも、五百日だぞ」
「うん」
母は、その金の大部分を、父が死んだあとも続けていた縫製の内職で貯めた。
そんなことは知っていた。
知っているからこそ、僕の言葉には説得力があると思っていた。
その週末、実家に行くと、母は契約書を食卓に並べて待っていた。
隅には、冷めた煮物が二人分置いてあった。
「ごはん、先に食べる?」
「こんなときに?」
母は鍋に蓋をした。
契約書には、〈久世修一〉という代表者名があった。
案内冊子には、右肩上がりの棒グラフが何本も載っていた。
写真の倉庫が、本当にその会社のものなのかを示す資料はなかった。
僕は広告制作会社で、企業の説明資料を作っている。
決算の数字を図にしたり、アンケート結果を読みやすく整えたりする仕事だ。
グラフの見せ方には、すぐ気づいた。
縦軸が途中から始まっている。
数字の増加はわずかなのに、棒の長さは何倍にもなっていた。
「ほら。ずいぶん儲かっているように見せてるだろ」
僕が指で示すと、母は老眼鏡をかけ直した。
「そうね」
「こういう資料だけで信用しちゃ駄目なんだよ」
母は僕の顔を見て、もう一度言った。
「そうね」
僕は資料の見せ方には詳しかった。
だが、この会社の金の流れを知っているわけではなかった。
それでも、その夜の僕は、母より何でもわかっているつもりだった。
*
僕は動いた。
母と警察に相談し、弁護士にも契約書を見せた。
会社への質問状を作り、回答のない経緯を、資料とともに自分のSNSに載せた。
母は顔も名前も出したくないと言った。
「じゃあ、黙って取られたままでいいの?」
そう聞くと、反対しなくなった。
僕はそれを、納得してくれたのだと思った。
問い合わせと催促を繰り返して、ひと月以上が過ぎたころ、投稿が大きく拡散された。
地元の記者から連絡があった。
記者が会社に取材を申し込むと、その日のうちに久世から僕へ電話が来た。
「お母様には、大変なご心配をおかけしました」
久世は、驚くほど丁寧な男だった。
面会した事務所は静かで、壁には地域の行事への協賛を示す感謝状が並んでいた。
机の上には、僕が送った質問状が、角をそろえて置かれていた。
「お母様の五百万円は、全額、お返しします」
「いつですか」
「来週の金曜日までに」
「約束できますね」
「もちろんです」
早すぎると思った。
僕があれほど苦労して探した答えを、久世は喫茶店の注文みたいに口にした。
「その代わり、と言っては失礼ですが」
久世は、そこで声を少し落とした。
「解決したことも、きちんと発信していただけませんか。悪い情報だけが残ってしまうと、ほかのお客様への対応にも支障が出ます」
「事実なら、発信します」
「ありがとうございます。ぜひ、お母様にもご協力いただきたい。返金を受けたお客様の声として」
僕は念のため、聞いた。
「ほかの被害者には?」
「お客様ですね」
久世は柔らかく訂正した。
「第一期のお客様、百名全員に、今月末までに返金を行います」
その言葉を、僕は手帳に書いた。
百名全員に返金。
金曜日、母の口座に五百万円が振り込まれた。
一円の不足もなかった。
母は通帳を何度も見た。
僕はその顔を見て、自分のしたことは正しかったと思った。
「うちだけ、先に返してもらっていいのかね」
「ほかの人にも返すってさ」
「そう」
「だから、もう大丈夫」
母は口元に手を当てた。
「ありがとうね」
それまで何度も聞いたはずの言葉だったが、その日は格別だった。
月末には、会社から報告が届いた。
〈第一期のお客様百名、全員への返金を実施いたしました〉
僕はその一文を母に見せた。
「ほら。全員だって」
母はうなずいた。
僕は報告のメールを保存した。
何を確認したのかは、考えなかった。
*
返金についての動画は、僕が構成した。
母はカメラの前でうまく話せなかったから、読みやすいように、短い文章を紙に書いた。
〈お預けした五百万円は、すべて戻ってきました〉
〈いまは、安心しています〉
一文目には、何の問題もなかった。
二文目で、母は少しつかえた。
「安心しています、でいいんだよ」
「うん」
「お金、全部戻ったんだから」
「そうね」
撮り直した動画で、母は笑った。
久世の会社から送られてきた掲載案には、大きく数字が置かれていた。
〈ご返金率 100%〉
その下に母の顔と、〈五百万円、全額返還〉という文字。
僕は画像の粗さが気になって、自分で作り直した。
百パーセントの円グラフを、明るい緑色にした。
隅には、集計方法が小さく書かれていた。
〈第一期出資者百名のうち、元本の返金を受けた方の割合〉
読んだ。
間違いはないと思った。
そのとき僕は、数字の確認をしたつもりで、母の口座残高を思い浮かべていただけだった。
久世からは、すぐに礼の連絡が来た。
「さすが、プロのお仕事ですね。わかりやすい」
僕もそう思った。
動画と画像が掲載されたページの下には、第二期事業説明会の案内があった。
もう一度この会社に金を預けようとは思わなかった。
だが、会社が次に何をするかは、僕の仕事ではないとも思った。
僕の仕事は、母の金を取り戻すことだった。
それは、終わった。
地元紙には返金を伝える記事が出た。
僕の投稿には、称賛が集まった。
〈頼りになる息子さん〉
〈泣き寝入りしなくてよかった〉
〈こういう行動力が大事〉
母はそのころから、僕に自分から電話をかけなくなった。
ようやく安心して暮らせているのだろうと、思っていた。
*
「一円です」
応接室で、老人が言った。
「私の口座に振り込まれたのは」
老人は大森と名乗った。
定年まで建具を作っていたという。
持参した入金明細には、久世の会社名があった。
入金額、一円。
別の紙には、会社から届いた通知が印刷されていた。
〈元本一部返金のお知らせ〉
「私の知っている方も、同じでした。それで電話をしたら、一部返金だから、あとは待ってくれと」
僕は、記事の横に置かれた一円玉を見た。
「ですが、全員に返金したと……」
「ええ」
大森さんはうなずいた。
「私にも、返金はされています」
僕はスマートフォンを開いた。
緑色の円グラフが、画面いっぱいに表示された。
百パーセント。
僕が作ったものだった。
その下で、母が笑っていた。
「うちの息子も、この動画を見たそうです」
大森さんは帽子を膝の上で回した。
「だから、まだ返ってこないと話したら、怒りましてね。全員に返したと書いてあるじゃないか。父さんは、また何か隠しているのかって」
僕は画面を消した。
遅かった。
「どうしてお母様だけ全額だったのか、聞きたくて来ました。何か、こちらの手続きが足りなかったのかと思いまして」
「……大森さんのせいではありません」
ようやく、それだけ言った。
大森さんは、少し困ったように笑った。
「じゃあ、誰に何を言えばいいんでしょう」
僕は答えられなかった。
老人は一円玉をしまわずに帰った。
*
その日のうちに、僕は自分の投稿へ訂正を加えた。
〈私が確認できていたのは、母一人の元本返金額だけでした。他の方にも全額が返されたような印象を与えてしまいましたが、その確認はできていませんでした〉
記者にも連絡した。
母に事情を説明し、動画と写真の使用をやめるよう、会社に申し入れた。
サイトから母の顔は消えた。
だが、すでに転載された動画もあれば、説明会で配られた紙の広告もあった。
母の顔が消えたあとも、会社のサイトには〈ご返金率100%〉の文字が残っていた。
消すだけでは、足りなかった。
大森さんの紹介で、僕は出資者の連絡会に入った。
前のときとは違って、すぐに電話を切られることもあった。
「お母さんは全額取り戻せたんだから、いいでしょう」
そう言われても、返す言葉はなかった。
出資額と入金額を記録する表を作った。
配当として振り込まれた金と、元本の返金として振り込まれた金は、別の欄に分けた。
ところが、話を聞き始めると、金額と日付だけでは足りなくなった。
妻に言えずにいる人がいた。
孫の進学祝いを用意できなかった人がいた。
取り戻せないことより、娘に〈まだその話?〉と言われるのがつらいという人がいた。
僕は〈備考〉の欄を広くした。
ある夜、実家の食卓で資料を整理していると、母が向かいに座った。
「私にも、できることある?」
「いいよ。お母さんは」
「どうして?」
「もう、お母さんの分は解決したんだから」
言ってから、自分で気づいた。
母はしばらく黙っていた。
それから、表の一行目を指さした。
佐伯和子。
出資額、五百万円。
元本返金額、五百万円。
未返還元本、ゼロ円。
「ここには、もう困ったことがないから?」
「そういう意味じゃない」
「うん」
母は、反論しなかった。
その〈うん〉が、ひどく嫌だった。
「……何か、まだ心配なことがある?」
母は僕を見た。
それは、久しぶりに正面から見る母の顔だった。
「また、間違えたらどうしようかと思って」
「だから、大きな金のことは先に相談してよ」
「お金だけじゃなくて」
母は食卓の木目を指でなぞった。
「電話が鳴っても、出ないほうがいいのか。知らない封筒が来たら、開けていいのか。買い物で勧められたものを買っても、また怒られるんじゃないかって」
「怒るって……」
「あんた、正しかったでしょう」
母はそう言った。
「お金、戻してくれたでしょう。だから、まだ怖いとか、眠れないとか、言ったら悪いと思って」
食卓の端には、僕が帰省する日だけ出てくる湯飲みがあった。
あの日も、置かれていた。
契約書と、冷めた煮物の横に。
僕は母の五百万円について、何時間でも話をした。
何がいけなかったかを説明し、これから何をすべきかを決め、最後には解決したと宣言した。
その間、一度も聞かなかった。
大丈夫か、と。
僕が言ったのは、いつも〈もう大丈夫〉だった。
「……ごめん」
母の指が止まった。
「助けたつもりで、話、終わらせてた」
母は何か言いかけた。
僕は続けた。
「お母さんが騙されたのは、久世が騙したからだよ。それなのに僕、お母さんを問い詰めた」
母は老眼鏡を外した。
僕は黙って待った。
長い沈黙のあと、母は言った。
「五百日って、あんた、言ったでしょう」
「……うん」
「あれ、もう少しかかったのよ。一日一万円も、稼げなかったから」
僕はうつむいた。
母はその先を、すぐには話さなかった。
今度は、急かさなかった。
*
翌朝、母が言った。
「次の集まり、私も行っていい?」
心配だった。
母だけが全額返されたことを、よく思わない人はいる。
また傷つくかもしれない。
でも、それを理由に、母のすることを僕が決めていいわけではなかった。
「聞かれると思うよ。どうして自分だけって」
「うん」
「嫌になったら、途中で帰ってもいいから」
「わかった」
母は連絡会に来た。
すぐに打ち解けたわけではなかった。
母の顔を見て、席を移った人もいた。
母は説明を求められれば答え、ほかの人が話しているときには聞いていた。
帰り道、疲れた、と言った。
次も行く、とも言った。
資料は少しずつ集まった。
契約書。
入金の記録。
会社から送られてきた通知。
公開していい情報と、伏せてほしい情報も、一人ずつ確かめた。
母を含め、第一期の出資者百人全員の記録がそろうまで、二か月かかった。
全員、一口五百万円。
出資された元本の合計は、五億円。
そのうち、元本の返金として送金された金額は、母だけが五百万円。
残りの九十九人は、一人一円。
合計、五百万円と九十九円。
百人中、元本の返金を受けた人は百人。
百パーセントだった。
何度計算しても、百パーセントにしかならなかった。
数字は嘘をつかない。
だが、詐欺師は数字を使う。
そして僕は、その数字を、もっと信じやすい形に整えた。
*
久世に面会を求めると、以前と同じ部屋に通された。
感謝状も、机の向きも、変わっていなかった。
「資料、拝見しました」
久世は、僕が送った集計表を指でそろえた。
「現在、順次対応していると、皆様にはご説明しております」
「一円で?」
「一部返金です」
「それで、返金率百パーセントと宣伝するんですか」
「計算方法は明記してあります」
久世は、掲載案の注記を示した。
僕も読んだ注記だった。
「佐伯さんにも、確認していただきましたよね」
「全額返したと、思わせるためでしょう」
「お母様には、全額お返ししています。動画の内容も事実です」
どれも本当だった。
母に五百万円が戻ったことも。
百人全員に送金されたことも。
僕がその数字を確かめたつもりになり、母の言葉を用意し、画像を作ったことも。
「では、金額も載せてください」
「金額?」
「母は五百万円。残りの九十九人は、一円ずつ。百パーセントと同じ大きさで。それも、全部、本当でしょう」
久世は、すぐには答えなかった。
壁の時計の針が動いた。
「なぜ、母だけだったんですか」
僕が聞くと、久世は少し首をかしげた。
「早急に対応する必要があったからです。あなたは、発信力のある方でしたから」
僕は、第二期事業説明会の案内を思い出した。
不安を、安心に。
そう書かれた見出しの上で、母は笑っていた。
僕にとって五百万円は、取り戻した金だった。
久世にとっては、信用を取り戻すために払った金だった。
僕は金を取り戻した。
久世は、僕を手に入れた。
「この集計結果を、公開します」
「それは、ご自由に」
久世は、初めて少しだけ声を冷たくした。
「ただ、お母様だけが五百万円を受け取った事実は変わりませんよ。ほかの方々が、どう感じられるか」
僕は、机の上で手を握った。
母はもう、充分に怖がっていた。
これ以上、母を責める人を増やしたくなかった。
何も言わず、五百万円だけ守って帰る道が、まだ残っていた。
久世は、その道のほうを向いて待っていた。
「お母様の元本は、一円も失われていません」
その言葉は、僕によく似ていた。
僕が実家の食卓で、何度も母に与えた答えだった。
母の金さえ戻れば、安心する。
久世は、そう見込んだ。
その見立ては、正しかった。
「ええ」
僕は答えた。
「だから、僕は騙されました」
久世は何も言わなかった。
僕は集計表を持って、席を立った。
*
新しい動画は、実家の食卓で撮った。
記者には集計結果と元の資料を送り、取材に応じることにした。
動画は、僕自身のアカウントで公開する。
母は、もう一度顔を出すと言った。
「無理しなくていいよ」
「無理はするわよ。恥ずかしいもの」
母はそう言ってから、少し考えた。
「でも、消しただけじゃ、見た人にはわからないでしょう。私の口で、言っておきたいの」
僕はカメラを置いた。
母は、僕が新しく作った図を見た。
百人の人型を、十人ずつ十列に並べたものだ。
一人だけが緑。
残りの九十九人は灰色。
〈第一期出資者百人のうち〉
〈元本が全額戻った人 一人〉
〈元本の返金が一円だった人 九十九人〉
その下には、総額も書いた。
〈出資された元本の合計 五億円〉
〈元本返金として送金された合計 五百万円と九十九円〉
配当の入金とは分けて集計したことも、読める大きさで添えた。
どの数字も、前の動画の〈百パーセント〉と矛盾しなかった。
母は緑の人型に指を置いた。
「これ、私ね」
「うん」
それから、灰色の人型を見た。
「大森さんは?」
まだ、誰をどこに置くかは決めていなかった。
「名前も出していいって言ってくれた人がいるから、入れるよ」
「そうして」
僕は、許可をもらっていた人の名前を入れた。
匿名を希望した人には、あらかじめ相談して決めた表記を使った。
一枚の画像には収まらなくなった。
何枚にも分かれた。
見せるのに時間がかかった。
それでよかった。
録画を始めた。
今度、母の前に原稿は置かなかった。
「前の動画に出た、佐伯和子です」
母は膝の上で手を重ねていた。
「私のところには、五百万円、全部戻りました。これは本当です」
そこで、図の中の自分を指さした。
「ただ、全部戻ったのは、この百人の中では、私だけでした」
声が震えていた。
「私は、ほかの皆さんにも同じように返してもらえると思っていました。でも、確かめませんでした。私が笑っている動画を見て、まだ返してもらっていない人が、ご家族に怒られたと聞きました」
母は、大森さんの名前があるほうを見た。
「お金が戻っていないと言っている、この人たちは、嘘をついていません」
僕はカメラの向こうで、じっとしていた。
「返してもらえないのは、この人たちの手続きが悪かったからでも、頑張らなかったからでもありません。どうか、そのことで、叱らないであげてください」
最後の言葉で、母は僕を見た。
僕はうなずいた。
母が話し終えたあと、僕もカメラの前に座った。
前の画像を作ったのは自分だということ。
ほかの人の返金額を確かめていなかったこと。
母に読んでもらう言葉まで、僕が用意したこと。
全部、話した。
編集するとき、自分の説明の長さにうんざりした。
母の説明は短かった。
僕の説明には、何度も〈ただ〉と〈そのときは〉が出てきた。
その言葉から始まる言い訳を削ったら、ずいぶん短くなった。
*
公開後、感謝も非難も届いた。
五百万円を全員で分けろという人もいた。
僕が最初から久世の仲間だったのではないかと疑う人もいた。
第二期の説明会への参加を見送ったという連絡があった。
もう申し込んでしまったという連絡もあった。
その人たちには、相談先と連絡会の窓口を伝えた。
僕は経緯を説明し、資料を残し、調査にも協力した。
母に戻った五百万円の扱いについても、母と一緒に弁護士に相談した。
少なくとも、僕の評判を守るために、僕の判断で動かしていい金ではなかった。
大森さんからは、電話があった。
「息子と、一緒に見ました」
「……はい」
「まだ、怒っています。なんであんなところに預けたんだって」
僕は黙った。
「でも、返ってきたのが一円だったことは、信じてくれました」
電話の向こうで、紙をめくる音がした。
「それで、次の相談に、一緒に行ってくれるそうです」
大森さんと次に会ったとき、あの日の一円玉を返した。
大森さんは硬貨をつまみ上げた。
「ここに預けた分だけは、全額ですね」
そう言って、財布にしまった。
冗談だとわかった。
今度は、二人で少しだけ笑った。
*
訂正動画を公開してから半年後、久世が逮捕された。
募集時に説明していた倉庫事業に実態がなく、嘘の説明で出資金を集めた疑いだと報じられた。
ニュースの見出しは、僕が作った画像より、ずっと強い言葉で埋め尽くされていた。
けれど、見出しが変わっただけでは、口座の数字は変わらなかった。
全額を取り戻せていない人は、まだいる。
僕は今も、集計表を更新している。
仕事では、大きな数字を置く前に、それが何を数えた数字なのかを確かめるようになった。
ときどき、資料に収まりきらなくなる。
そういうときは、ページを増やす。
*
先日、母から電話があった。
「仕事中に、ごめんね」
「ううん。今、大丈夫」
「ちょっと、話しておきたいことがあって」
僕は席を立って、廊下に出た。
母は、近所の人にあることを勧められたと言った。
僕は反射的に、金額を聞こうとした。
喉まで出た言葉を、飲み込んだ。
「どんな話?」
母は説明を始めた。
町内の集会所で、月に二回、縫い物を教えないかと誘われたらしい。
古くなった服を直したり、子どもの袋物を作ったりする、小さな集まりだという。
「人に教えたことなんて、ないからねえ」
「うん」
「失敗したら、悪いでしょう」
「うん」
「でも、ちょっと、やってみたいのよ」
廊下の窓の外を、配送の車が通り過ぎた。
母は返事を待っていた。
「そっか」
僕は言った。
「何を作るの?」
そこから話が長くなった。
余っている布のこと。
昔のミシンの調子。
父が一度だけ裾上げをして、左右を違う長さにした話。
僕は途中で、要するに、と言わなかった。
電話の最後に、母が聞いた。
「日曜、来る?」
「行くよ」
「じゃあ、ごはん、どうする?」
「食べる」
「煮物、作っておくね」
「うん。楽しみにしてる」
母は、わかった、と言った。
ありがとうとも、ごめんねとも言わなかった。
日曜日は、少し早めに帰ろうと思った。
煮物が冷める前に。
お読みいただき、ありがとうございました。
数字が正しいことと、その数字から受け取った印象が正しいことは、必ずしも同じではありません。
そして、お金が戻ったことと、傷ついた人が元に戻ったことも、同じではないのだと思います。
この物語では、誰かを助けようとした人が、「解決した」と決めることで、その人の話を終わらせてしまう危うさも描きました。
「もう大丈夫」と言うこと。
「大丈夫?」と聞くこと。
よく似た言葉ですが、その間に、まだ聞いていない話があるのかもしれません。




