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序章 綻び――File 0

成功は、噛みしめても味がしない。

失敗は、その都度違う味を強いられる。

「約束」が銃声で果たされる世界で、何を味わえというのか。



数日来、東の風が微かな「人の気配」を運んでいた。焚き火の煙か、あるいは排泄物の腐臭か。

発生源は、未開拓領域――「葉蔭の墓標」の方向。正常な生存合理性は座視を命じるが、拠点の近さがそれを撥ねつける。背を晒す選択肢はなかった。


ライフルを背に、マチェットを腰に携え墓標へ渉る。

かつて天を衝いた建造物群は、蔦や苔にその骸を覆われ沈黙している。涙ぐみかけた天蓋の下、それは大崩壊に途絶えた都市を弔う墓石だった。

智も情もない朽ちた景色を逆流する。文明が死して尚、隆起する樹根は路面を食い破り、剥落する錆の臭気は挽歌を奏でる。


歩みとともに濃度を増す、無秩序なテリトリーの主張。そこに、縫合された「人の気配」――折られた枝や野営跡が姿を現す。もっとも、人間は墓標の支配者ではない。思考の重心を、追い風から泥へ移した。


不意に背後を叩く、破砕音。身を伏せたとき、安全装置は弾かれていた。

――落下物。鉄骨の残骸と断じ、穿たれた静謐を埋めるようにバレルを下げ、逆手はマチェットへ。来るべきノイズに、合図は不要だ。


――砂塵の先、淀んだ影が三つの輪郭を結ぶ。

……犬型の獣だ。皮膚を突き破らんとする、歪な筋繊維の膨張。濁ったその眼底に、灯はない。ただ、その様子には僅かな齟齬があった。飢餓ではなく、音に群がるような……あるいは。

思索を深める傍ら、一匹が加速する。その軌道を逸らし、すれ違いざまにマチェットを薙ぐ。肉と骨を砕く感触が奔る間、髪を容れず――迫る左の喉笛を爪先で撥ね、反動に任せて右の頭蓋を鋼で潰す。


……掃討を終え、再び静寂が満ちる。

だが、索敵は不首尾となる。錯綜し、相縺れる痕跡に踏み入るのは間尺に合わない。断念し、踵を返した刹那――。


――大地が、震えた。


鼓膜を抉る爆音が、腹の底を劈く。

「……今のは」

体勢を転じ、音の起点へ駆ける。蓋し咆哮に違いないが、閾値を逸している。


捷径を突っ切り、朽ちた壁を越え踏み入った空隙に、それはあった。

視界の外輪に佇む凍てついた静止と、朱黒いぬかるみに散る伐り倒された肉塊。そして惨劇の只中に聳える、一つの「山」。


……虎型だ。

肩高は俺の体躯を遥かに凌ぎ、鋼索の如き四肢が縞を猛々しくうねらせている。遺骸に前肢を懸け、喉に唸りを飼う姿に、同類との遭逢が蘇る。やはりこれは生物ではない、天災そのものだ。

ともあれ一団が沈黙した以上、干渉する理由はない。身を潜めたまま、一歩退く。


――その一歩が、死線を踏み越えた。


虎型が止まり、圧が骨を貫く。

巨大な頭部が緩慢にこちらを向き、黄金色の双眸が俺を射抜いた。

……気づかれた。気配遮断を奴の直感が上回ったか、風向きが不運を運んだか。いずれにせよ、事態が「遭遇」から「対峙」へと変質した。


――グルルル……


地を這う唸りは靴底を震わせ、煤煙の如き呼気は大気を汚す。


次の瞬間――世界が爆ぜた。


大気を叩き割る不可視の打撃が、遮蔽のコンクリート壁を蜘蛛の巣状に砕く。全身の骨が嫌な共振を起こし、脳髄の奥が警鐘を乱打する。

分が悪い……だが。

「……間違えたな」

こめかみを二度叩き、レティクルを奴の眼球に固定した。呼気の終端で引き金を絞る。


乾いた三連。


放たれた5.56mmは外皮に阻まれ、硬質に鳴る。牽制を浴びせながら横へ跳び、左腰のポーチから手榴弾を奪った。


――肺腑を抉る咆哮と共に、その巨躯が躍動する。振り下ろされる鉄爪を躱し、顎へ手榴弾を叩きつけた。

衝撃の先へ地を蹴る背に、熱風が追い縋る。


焦がされる獣毛の異臭を脱し、巨躯の悲鳴を逃さず背後へ滑り込む。狙うは……アキレス腱。逆手に閃く鋼に全体重を預け、腱を叩き伏せる。


――カツン、とウエイトが加速し「遊び」を潰す衝撃が肩を焼く。


傾いだ虎型から呻吟が迸る。だが、一肢の喪失など、この天災が止まるには足らなかった。虚を打つ尾の暴戻を掠め、残る片肢へ二の太刀を沈める。


――二度目の断裂感が、掌を叩く。……翼は折れ、天災は沈む。


しかし地に這えど尚、眼光の熱は増す。前肢が反転し虚を裂くその寸隙、貌へ喰わせた鉛玉は僅かに朱を散らす。命には届かない。だが、その矜持を断つには事足りた。


弾倉が空になり、重苦しい沈黙が訪れる。

伏したまま、剥き出しの爪が路面を削る。俺を睥睨するその双眸から、声なき呪詛が叩きつけられていた。


……終わらせてはくれないらしい。地を這う災いは、尚も爪を剥く。

傍らの瓦礫へ、前肢が深々と穿たれた。鋼の筋肉が爆ぜ、山崩れの砲火が放たれる。右に二、左に一と、飛来する礫を縫う。風圧が皮膚を灼き、激突の余波が項を震わせた。


砂の帳が晴れるとき、一対の黄金色と視線が交錯する。正眼に構え直すとき、一瞬の理知が双眸に過る。――やがて、 地を引き摺る跡を残して奈落の口へ這い入り、久しくその姿を見なかった。



……追撃の選択肢は、ない。俺の死角を補う目は、もうないのだから。いずれ脅威となればその際に――今は、目下の処理を優先する。


ブレードを一瞥し鞘に納める。

辺りには、一人として天災から逃れた者はなかった。懐を漁り、残された弾薬を回収する。拒絶の意思も尊厳もない体だ。剥ぎ取りを恨むまい。


――回収を済ませた俺の視線が、蚊帳の外に居座る車輌を捉える。惨劇を傍観する、腫れ物のように無傷な檻。奴はこれを見落としたのではなく、……手を出さなかったのだろう。

そこには三人の子どもが人形のように折り重なっている。

……なす術もなく意識を断たれ、死に至った「商品」の箱。よしんば調和の為であろうと、子どもの泪に価値などない。

ここが、ここでさえなければ。


檻に触れたとき、一つの指先が微かに跳ねた。


動きを止め、思考を「索敵」のフェーズへ戻す。

泥を啜りくすんだ髪、枯れ枝のような痩躯。肌には、無数の痣が不気味な紫の斑点となって刻まれている。


……そして、俺の網膜はある「異常」を捉えた。


視線の先に、灰色の産毛に蝕まれた右腕が映る。さらに這わせれば、右頸部も同様に覆われており、右耳があるべき位置は狼のそれを思わせるように尖っていた。

「……なんだ、これは」

ウイルスの罹患者か。これほど局所的な変容は見たことがない……筈だ。侵蝕が、凍結されているとでもいうのか。


絡められた鎖は腐食が酷く、マチェットを押し当てるだけで容易に切断された。歪んだ扉をこじ開け、子どもらの手足を避け当該の個体へ迫る。襤褸を纏った矮躯に、幼女の輪郭を認める。指を滑らせた左頸部には、千切れそうな糸の如き拍動が息づいていた。


残る二人が「物」であることを確認し、その少女だけを腕に収める。その軽さは内臓が抉られた鳥のようで、指先には残息奄々たる熱が伝わる。


瓦礫の山を背に地べたへ下ろすと――ヒュッ、と掠れた吸気が鼓膜に届いた。反射で柄に触れ、半身に構える。

震える左瞼が、薄く持ち上がる。隙間から零れる霞んだ灰色は、理知よりも、射るような拒絶を宿していた。


「……気が付いたか」

努めて平坦な声を放つ。少女の泳ぐ焦点が、徐に静止した。


アスファルトを削る摩擦音。少女は俺を睨み据え、這うように後退ろうとする。しかし肉体に裏切られ激しく咳き込み、口端に朱が伝う。

「動くな。今ので残りの半分は削られたぞ」

驚くべきはその回復力、あるいは執念か。これほどの重症にありながら、選ぶのが闘争だとは。

「……言っておくが、俺はメシアではない」

剥き出しの敵意を宿す少女を見下ろす。発せられる温度を探るように、灰の単眼が揺れる。

「選べ。一人、野垂れ死ぬか。泥を啜って生にしがみつくか」


――やがて。

震える肢で俺の影を踏み、少女は這う。喉の奥に敵意を燻ぶらせ、その指先に「生」を掴んだ。


「……賢いな。生き延びてこそ、呪えるものもある」

再び、少女を無造作に抱え上げた。四肢は腕を零れ、喘鳴は胸元で継がれる。



――崩落したビル群が影を落とす、夕刻の墓地。俺は、胡乱な要素を連れ拠点へ歩む。

舌の根に沈む予感を嚥下したとき、既に風は止んでいた。次いで濡れそぼつ夜の気配が、背後から鉛空に縫い込まれている。

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