ポイズン
カシリ。
一口齧ると独特の酸味が口の中に広がった。
美味しいとも美味しくないとも思わずこれはただトマトであると思う。
これは毒だ。
昔世界のどこかではそう考えられていた。
それを齧った私が、今ここで死んでしまったとしたら…。
それはなんてドラマティクなことだろう。
くすり、と小さく笑う。
なんて不健康な考えだろうとそんな自分を嘲笑う。
「勝手に齧るなよ。構成が変わるだろう。」
部屋の入り口で手を組んで彼がこちらをにらんでいた。
その一言はいかにも絵描きらしいと思った。
彼はいつも一心不乱にキャンパスに向かって絵を描く。
その目に映るのは、モデルとキャンパスだけ。
彼は、専ら生物がや風景画である。
生きているもの、特に人間は描かない。
以前一度、「人は描かないの?」と聞いたら、
「人間にはあまり興味がないから。」とにべもなくかえされてしまった。
人は独りでは生きて行けないとか、いろいろな反論が頭に浮かんだけれど、彼の瞳の中の冷たい光を見つけて何も言えなくなってしまった。
だから少しでも私を認識してくれるように、彼の狭い世界に少しでも入れるように毎回小さないたずらをする。
「だから、どうしていつもこんなつまらないことばかりするんだ?」
その言葉の思わぬ鋭さに少し胸が痛んだが、気にせずに言葉を紡ぐ。
「さぁ、どうしてでしょう?」
少しでも考えて私のことを。
好きになってくれなくてもいいから、少しでも私を受け入れて。
「俺のことがすきなんだろう?」
彼は鮮やかに微笑みながら言った。
呼吸が止まった。
全てが止まった。
部屋の中の沈黙を破るように、聞こえ始めた鳴き始めの蝉の声が酷く気になった。
「そうだろう?」
もう一度、念を押すように彼が言った。
それは真実だけれど、それを確認してどうするというのだろう。
「だから?」
そう思ったら勝手に口が言葉を紡ぎだしていた。
微妙なバランスで保たれていた、二人の関係が壊れてしまうのが怖かった。
気づかれないように、でも気づいてもらうように。
そっと息を呑みながら慎重に積み重ねてきた二人の時間が壊れてしまうのがどうしようもなく怖かった。
どうしようもなく好きだった。
キャンパスに向かう時の真剣な顔も。
ほんのたまに見せる幼げな笑顔も。
全てが好きだった。
ただ全てが私の心を振るわせた。
初めての恋。
それは叶わないと相場が決まっている。
ただ好きというだけで。
少しの間一緒にいられるというだけで幸せだった。
その他は何も望まない。
そんな想いと比例するように、私の中には恐れがあった。
もしももう二度と近寄ってくるな、と言われてしまったら。
そう思うと、胸が耐えられないくらい痛んだ。
どうしてこんなに好きになってしまったのだろう。
その理由は分からない。
でも息をするように、あたりまえのように彼に恋をした。
部屋は沈黙に支配されていた。
何故、彼は黙っているのだろう。
ふと俯いていた顔を上げて、彼を見た。
「それでって…」
ようやく彼が発した言葉は酷く小さかった。
夕暮れが教室の中をやさしく照らしていた。
「つまりは、トマトの毒にやられたんだ。」
顔を真っ赤に染め、俯きながら彼は小さく言った。