世間知らずの白髪の妻と古代魔法都市(破壊と創造の物語)「それでも、私を愛せますか?」
それでも、私を愛せますか?
腐敗した国、マドラ。石造りの重厚な建築が立ち並び、空には魔力を帯びた光が時折瞬く。
この国で、要人暗殺が横行していた。その暗闇の中で、刑事である俺、ヒンメルは、光を見つけるかのように妻マリアータを愛していた。
彼女は、広大な屋敷に住む、この国では珍しいご令嬢。強力な魔法使いでありながら、その力を決してひけらかすことはなかった。
毎日、交わるほどに俺たちは仲が良かった。だが、そんな俺にも知らない妻の時間があった。それは、早朝。厳密に言えば、朝5時から7時。その時間、マリアータはいつも俺の隣にいなかった。
要人暗殺の捜査を進めるにつれ、俺はひとつの疑惑に囚われ始めていた。不可解な手口、消え去る魔力の痕跡。そして、何よりも、愛する妻の、あまりにも人間離れした聡明さと、時折見せる遠い目。
信じたくはなかったが、ある晩、決定的な証拠が俺の元に転がり込んできた。暗殺現場に残された、マリアータの屋敷にしか自生しない珍しい花びら。そして、その花びらに微かに残された、彼女自身の、強力な魔力の痕跡。
その日から、俺の心は氷に閉ざされたようだった。愛する妻が、この国の要人を手にかけているという事実。だが、俺は刑事だ。真実を追究するのが、俺の務め。
「長期出張になった」とマリアータに嘘をつき、俺は王城へ向かった。次の暗殺のターゲットと噂される大臣に変装し、マドラで一番高い時計塔で、その時を待つことにした。
夜の帳が降り、巨大な時計塔の針が、朝五時を指そうとしていた。冷たい風が吹き荒れる中、俺は自分の胸元にあるお守りを握りしめた。それは、マリアータがくれたものだった。
俺のような非魔法使いが、いざという時に身を守れるようにと、彼女が特別に作ってくれた「魔法をキャンセルする」という、唯一の魔法のお守り。皮肉なものだ。
案の定、五時の鐘が鳴り終わると同時に、黒いマントで顔を覆った刺客が姿を現した。顔は見えない。だが、俺には分かっていた。それが、俺の愛する妻だということを。
戦闘が始まった。刺客は素早い動きで俺に迫り、魔法を込めた拳を繰り出す。だが、俺の身体能力は、長年、非魔法使いであることを嘆きながらも、地道な鍛錬を重ねてきた賜物だ。
そして、刺客が何かを握り潰そうとする仕草を見せた。きっと、それは魔法の触媒か、強力な魔術の発動だろう。
しかし、何も起こらない。一瞬の沈黙が訪れ、刺客に動揺が見られた。その瞬間、俺は鍛え抜かれた驚異的な身体能力で、刺客の顔に一撃をお見舞いした。
そして、間髪入れずに持っていた短剣で、刺客のマントを裂いた。長い、長い沈黙が訪れた。目の前にあったのは、見慣れた、愛おしい顔。マリアータ。
その時、朝を告げる金の音が、耳をつんざくような轟音で鳴り響いた。あまりの衝撃に、俺は短剣を落とし、思わず耳をふさぐ。
その一瞬の隙を、刺客――いや、妻、マリアータは見逃さなかった。彼女は、俺が落とした短剣を拾い上げ、それを俺の喉元に突きつける。
ここは、時計塔の頂。空は快晴のはずだったのに、冷たい雨が俺の顔にかかる。しょっぱい。
「なぜ、こんなことを?」
マリアータの声が、震えながら俺に問いかけた。その声には、悲しみと絶望が滲んでいた。
「君こそ?なぜだい?」
俺は問い返した。喉元に突きつけられた刃の冷たさを感じながらも、俺は彼女の真意を知りたかった。
「こうするしかなかったのです。この国は腐っている。私は自分の恵まれた生活で、この国の腐った部分も、それによって苦しむ者たちがいることも知らなかった。」
マリアータの言葉は、訥々(とつとつ)としていながらも、確かな決意と、深い悲しみに満ちていた。彼女が、その恵まれた境遇から目を覚まし、この国の闇に立ち向かっていたのだと、俺は理解した。
「最後にささやかなお願いという名のプレゼントを受け取ってくれるかい?」
俺は言った。マリアータの目が、戸惑いを湛えて俺を見つめる。
「僕の魔法を君に返したい。」
彼女が俺にくれた、あの「魔法のキャンセル」のお守り。今、それを彼女に返そうとしている。それは、俺が彼女の魔法を受け入れること。そして、彼女に全てを委ねるという、俺の愛の証だった。
「君なら、できるはずだ、初代女王様?」
俺がそう呟くと、マリアータの表情が凍りついた。
「なぜそれを?」
彼女は動揺を隠せない。
「箱入り娘にしては、君は優秀すぎた。僕はね、刑事だ。捜査のプロなんだよ。いったい何年生きているんだい?」
俺の言葉に、マリアータの目から、赤い涙が溢れ落ちた。それは、血の色のような、鮮烈な赤。その瞬間、俺は気づいた。俺の顔にかかっていた「しょっぱい雨」は、彼女の涙だった。
俺の変装用のマスクが、先ほどの一撃で破れ、肌が露呈していたのだ。
マリアータの脳裏にいままでの日々が蘇る。
初めて出会った買い物の帰り道。転がり落ちたリンゴを拾ってくれた彼。雨宿り先で、熱く交わった二人。お屋敷ぐらしの事実を知った彼の素っ頓狂なお顔。庭でお茶を飲み、平穏な日々を過ごした休日。
走馬灯のように、彼女の脳裏に俺との日々が駆け巡ったのだろう。だが、彼女の瞳は揺らがなかった。
赤い涙が彼女の頬を伝い......。それは俺の返り血だった。
マドラの空は、鉛色に淀んでいた。それは、これまでの腐敗が凝縮されたかのような色だったが、同時に、新たな時代の幕開けを告げる、異様な静けさでもあった。
時計塔の頂で、ヒンメルの体から力が抜け落ちていくのを、マリアータは確かに感じていた。赤い涙――彼の返り血が、自分の頬を伝う。
それは、彼との出会いから別れまでの走馬灯を、より鮮烈なものにした。転がり落ちたリンゴ、雨宿りの密やかな時間、平凡な休日のティータイム、そしてあの素っ頓狂な顔。愛おしい記憶が、刃を握る指先を震わせたが、彼女の瞳は揺らがなかった。
1万3000年の孤独、そして「烏合の衆」への根深い不信が、彼女に「愛」だけでは成し遂げられない現実を突きつけていた。ヒンメルは、彼女に「魔法を返したい」と言った。それは、彼の「光」を彼女に託すという意味だと、マリアータには理解できた。
「君なら、できるはずだ、初代女王様?」
その言葉は、彼女が全てを捨てて隠遁した過去、そしてこの国の腐敗を見て見ぬふりをしてきた自らの罪をえぐるものだった。だが、同時に、彼女を突き動かす最後の引き金にもなった。
ヒンメルが息絶えた瞬間、マリアータの心に氷のような決意が宿った。彼女は、もはや感傷に浸ることを許さない。この腐敗しきった国を、彼が愛した「光」に満ちた場所へと変える。そのために、彼女は一切の妥協をしない。
全知の女王
まず、マリアータは自らの幻想魔法を研ぎ澄ませた。彼女は「一人につき魔法は一つ」という原則を超越する、世界級魔法・幻想魔法(想像の具現化)の使い手。リンゴから軍艦、そして既存の魔法さえも創造できるその力で、彼女は新たな、そして決定的な魔法を創り出した。それは、歴史の書物から得た知識をヒントにした空間操作能力。
この魔法は、彼女が抱える最大の物理的制約――ホムンクルスを創造する際の材料調達の困難さ――を打ち破るものだった。バケツの水程度しか運べない非力な体で、1億人のメイドや1万隻の軍艦、そして都市を創造するための膨大な材料を集めるのは不可能だ。しかし、この空間操作能力があれば、彼女はどこにいようと、距離に関係なく、世界中のあらゆる物質を空間で認識し、意のままに動かすことができる。
この能力の副次的な効果は、彼女を文字通り「全知」へと押し上げた。王国中のリンゴの位置、ひいてはすべての物、すべての人の位置が、マリアータの意識の中に流れ込んでくる。隠された密談も、王国の隅々で喘ぐ民の姿も、ストーンバ国王の居場所も、すべてが彼女の網膜に焼き付いた。
この全知の視界の中で、マリアータは王国が抱える腐敗の真の根源を特定した。それは、ストーンバ国王とその取り巻きである要人たちだけではなかった。衰退する人口を補うために王国が大量に受け入れた外国人労働者たち。
彼らが働けなくなり、既存国民から重税で賄われる生活保護費、彼らによる国政参加、不動産売買による既存国民の生活逼迫、そして郷の風習に従わぬ治安悪化――強盗、レイプ、殺人、騒音、ポイ捨て。既存の国民が疲弊し、その声が完全に無視されている惨状が、マリアータの「全知の目」には明確に映し出された。
彼らこそが、この国の秩序を乱し、腐敗の連鎖を生み出す「品性のない動物」であると、マリアータは断じた。
無慈悲な浄化
戦争は、マリアータの命令によって静かに始まった。彼女は、王城にいるストーンバ国王やその近辺の要人、そして王国中に散らばる「品性のない動物」たちの位置を空間操作能力で正確に確定した。
その瞬間、遠く離れた時計塔の頂で、マリアータの白いロングヘアーが風になびいた。赤目の奥に宿るのは、一切の感情を排した冷徹な光。彼女は、自身の心臓握りの魔法を次々と発動させた。距離は関係ない。物理的な障壁も、魔法的な防御も、彼女の全知の視界と絶対的な力の前に意味をなさなかった。
王国中で、人々の命の炎が次々と消えていく。腐敗した貴族たちは、豪華な寝台の上で、あるいは宴の最中に、突然胸を押さえて倒れた。汚職にまみれた役人たちは、執務室の机の前で、あるいは愛人の腕の中で、苦悶の表情を浮かべ、息絶えた。そして、外国人労働者たちも、路地裏で、市場で、家の中で、次々と血を吐き、突然死んでいった。
それは、まるで疫病が蔓延したかのような光景だった。しかし、そこに無作為性はなく、マリアータの冷徹な意志によって選ばれた者たちだけが、音もなく、光もなく、この世から消え去っていった。王国中は、その異常事態に、ただパニックに陥るしかなかった。
新世界の創造
その混乱の最中、マドラの空に突如として影が落ちた。マリアータが幻想魔法で創造した1万隻の空中軍艦が、王都の上空を覆いつくしたのだ。その威容は、残された既存の国民に、新たな支配者の到来を嫌でも知らしめた。
そして、その空中軍艦から降下してきたのは、マリアータが「彼」と呼ぶ、一体の高性能ロボット兵、そして彼によって既に量産された無数のロボット兵たちだった。彼らは感情を持たず、疲労を知らず、ただ与えられた任務を遂行する。
ロボット兵たちは、秩序を失った国民たちに、一切の暴力を用いることなく、しかし圧倒的な効率性で、マリアータの広大な屋敷へと誘導し始めた。かつてマリアータがヒンメルと愛を育んだその屋敷は、今や巨大な白亜の都市へと変貌していた。
それは、彼女の幻想魔法と空間操作能力によって一夜にして創造された、完璧な新世界の雛形だった。
都市のインフラや食料生産は、すべてロボットたちに託された。彼らは物理的な「ハード面」を完璧に遂行する。そして、その後には、マリアータが創造した1億人の一般メイド(ホムンクルス)が「ソフト面」を担当するために投入された。
彼女たちは、ロボットたちが築いた基盤の上で、管理、運用、分配といった細やかな業務を担い、マリアータの意図を完璧に実現する。
誘導されてきた国民たちは、その白亜の都市で、信じられない光景を目にした。マリアータは、混乱と恐怖に晒された彼らすべてに、無条件で生活保護システムを提供した。事実上、彼らは不労で生きていける。
それは、かつて既存国民を苦しめた重税や搾取とは真逆のシステムだった。マリアータにとって、これは、自身の無関心によって国民が苦しんできたこと、そしてヒンメルの死がもたらした「浄化」の代償として、残された人々への「少しの償いと思いやり」だった。
白髪のロングヘアーに赤目のマリアータは、創造された二体の黒と白のドラゴン、そして赤髪と金髪の戦闘メイドを従え、白亜の都市の中心に立つ。彼女の視線は、もはや過去の悲しみにはない。
彼女の全知の目には、腐敗を根絶やしにした世界と、その中で新たに息づき始めた、完璧に管理された「新マドラ」の姿が映っていた。
しかし、この強制された楽園は、ヒンメルが望んだ「光」なのだろうか?そして、愛する者を失い、全てを犠牲にして手に入れたこの秩序の先に、マリアータは本当に「愛せる」世界を見つけることができるのだろうか?