~再会までの道のり~
一面の花畑。色とりどりの花が風に揺られている。目の前で、甘い花の香りに誘われた蝶たちがひらひらと舞う。所狭しと咲き乱れる花たちを、手で掻き分け掻き分け進む。足を進める度に見える花々の種類が変わり、景色に飽きることがない。
しばらく花畑を進んでいると、いつの間にか森の中に入っていた。高い木々の間から優しい陽の光が届いていて、なんとも幻想的な風景だ。背丈の低い小さな花たちが足元に咲いている。小鳥のさえずりに耳を傾けながらさらに森の奥へと入っていく。
突然、視界が開けた。穏やかな水の音が聴こえ、目の前は青い景色が広がる。美しい青い睡蓮の池に辿り着いた。池のほとりの大きな岩に、深い緑の風呂敷を背負った老婆が腰掛けている。おれは使い古した大きなかばんを背負い直して、老婆のもとへ歩いていく。老婆は池を見つめながら、精巧に作られた白い猫の置物を撫でていた。
「ばあちゃん。」
老婆がゆっくりとこちらを向く。
「ああ、洋人。準備が出来たのかね?」
「うん。」
老婆は撫でていた猫を岩に置いて、ゆっくりと立ち上がる。
「それ、そこに置いてっちゃっていいの?」
老婆は愛おしそうにまた猫を撫でた。
「ああ、いいんだよ。この子にはここに居てもらうのさ。」
老婆の眼がこちらを向いた。真っ黒な瞳がおれを見つめている。とても真剣な表情だった。思わず背筋が伸びる。
「本当に行くんだね?二度とここへは帰って来られないかもしれないよ。」
「…うん。覚悟はできてるよ。」
おれも老婆を真っ直ぐ見つめ返す。
しばらく沈黙が流れて、老婆はふにゃっと微笑んだ。
「…じゃあ、行くとするかね。」
老婆は杖をついて歩き出す。おれは岩の上にぽつんと座る猫をひと撫でして、後に着いて行った。森をぬけ、大きな空が顔を出す。雲ひとつない青空の下、花に囲まれながら歩いていく。なんて平和な景色だろう。
だが、さっきから地面が小刻みに震えている。きっとこの島の外には地獄のような景色が待っている。
しばらく歩いて砂浜に着いた。波打ち際には太い丸太で作られた筏がひとつ、浮かんでいる。…………筏?
「ねえばあちゃん。この筏乗ってくの?」
「そうじゃよ。」
さも当然という顔。
「いや、え…?なんで筏?」
「初登場はインパクトが大事って言うじゃろ。」
いやそうだけども。さすがに筏で変なばあちゃんやって来て、ツッコめるほど向こうは余裕ないだろ今。だいたい、安全性的に筏はどうなの?危なくないか?いつも使ってる普通の手漕ぎボートならまだしも。
「安心せい。わしがおる限りひっくり返ったりせんよ。あんたはなんも気にせず漕いでればいいのさ。」
あー、おれが漕ぐのね。まあそうだろうなとは思ってましたけど。だとしてもこっから本土まで結構距離がある。筏で行ったら相当時間がかかるだろう。
「速度もわしが何とかするから大丈夫。」
じゃあもう瞬間移動みたいな感じで行けば良くないか?ばあちゃんならそんくらいお手のもんだろ。わざわざ海渡ってく必要ないって。なんなら海の上走れるんじゃないか?
おれがあれこれ考えている間に既に筏に乗っていて、はやく、と手招きしている。本気で筏に乗ってくらしい。おれはひとつため息をついて慎重に筏に乗る。杭から筏を繋ぐ紐を外し、砂浜を強く蹴ると、ゆっくりと進み始めた。
10年以上過ごした花園が遠ざかっていく。離れていく景色を目に焼きつける。
《二度とここへは帰って来られないかもしれないよ。》
おれは島に背を向け、オールを持って漕ぎ始めた。
おれは産まれてすぐに海に流され、花神島の離れ小島に漂流した。波打ち際でゆりかごごとわかめやら何やらの海藻にもみくちゃにされていたところを、島に1人住んでいたばあちゃんが助け、育ててくれた。洋人という名前もばあちゃんが付けてくれたものだ。
「もうすぐ結界の果てじゃ。」
オールを握る手に力を込める。すると一瞬眩い光に包まれ、すぐに薄暗い灰色の世界が広がった。波は明らかに激しくなり、筏は大きく揺れる。予想はしていたが、先程と全く違う景色に思わず表情が険しくなる。右の方を見ると、そこにあるはずの花神島は大きな灰色のもやに包まれていた。
「花神島が…ない…。」
「今は見えないだけじゃ。……。」
オールを握り直し、再び漕ぎ出す。ばあちゃんが言ってたとおり、荒れた海の上にいるにもかかわらず筏は転覆せずしっかり浮かんでいる。速度も普通にボートを漕ぐより速い。ひと漕ぎするだけでも大きく前に進んでくれる。だが油断はできない。少しでも気を抜いたら波に飲まれてしまいそうだ。
「…洋人、由比ヶ浜に向かってくれ。」
「えっ?由比ヶ浜?東京向かうんじゃなかったの?」
「そのつもりだったんじゃが…、ちょっと手前に辿り着いてしまったようだねぇ。」
「…?」
よく分からないが、由比ヶ浜なら真っ直ぐ北へ進むだけ。東京湾に入り込むよりずっと簡単だ。それに、ばあちゃんとの会話は基本的によく分かんないことだらけだ。大人しく従うしかない。おれは進行方向を向き直り、めいっぱい漕いだ。
ばあちゃんは普通の人間とはちょっと…いやだいぶ違う。赤ん坊の頃からばあちゃんに育てられたおれがそのことに気づいたのは、5歳で初めてばあちゃんと一緒に花神島を訪れた時だった。
ばあちゃんはついさっきまでいなかったはずなのに急に現れたり、逆に急に消えたりする。庭に行けば何も無かった場所に花を咲かせるし、鳥や蝶たちと会話(?)もする。でも普通のおばあちゃんはそんなこと出来ない。ばあちゃん曰く、花呪術というのが使えるらしい。おれも詳しく教えてもらったことはないが、花神島から発祥したものらしい。花呪術を使える者は心にそれぞれ花が咲いていて、鍛錬を積み重ねることで超人的なことが出来るようになるという。
今回の花神島をめぐる一連の事件もきっと、ばあちゃんの言う花呪術が関係しているのだろう。
どのくらい経っただろうか。目の前に目的の海岸が近くなってきた。
「ばあちゃん、もう着くよ。」
長いこと漕いで疲れてきた腕にもう一度力を込める。漕ぐスピードを速めつつ、陸の上の様子を確認する。
相変わらず辺りは薄暗く、重たい雰囲気が漂っている。そして何故か地面が真っ黒だった。いや、真っ黒というより、黒い何かが降り積もっているようだ。
海岸に近づくとぽっかりと黒くない場所があり、そこに一人の男が無表情で立っていた。黒いスーツに黒縁メガネ。執事のような、SPのような風貌だ。存在感はあるのに気配のようなものを一切感じない、変な男だった。
波の動きに合わせて筏を岸につける。
「お待ちしておりました。」
男が丁寧におれたちに頭を下げた。つられておれもお辞儀をしてしまう。
「出迎えご苦労じゃったな。」
男は一度ばあちゃんを見て、次におれを見、そしてゆっくりと視線を筏に移す。表情を変えないまま筏を見つめたあと、再びばあちゃんに視線を戻した。
……いや、筏のことをツッコんでくれぃ!
「お手伝いします。」
男に支えられてばあちゃんが筏から降りる。おれも降りて適当な場所に筏を固定する。この筏のことは誰もツッコんでくれないのだろうか。
「……あの子はどうかね。」
「つい先程、意識が戻りました。…ご案内いたします。」
「え、いや…ちょっ。」
何も理解していないおれを置いて、二人は歩き始めてしまった。慌てて二人について行く。
地面に降り積もっていたのは花びらだったようだ。黒い花びらの絨毯が街中に広がっている。獣道のようになった花びらの無い地面をおれたちは歩いていく。
「…ねえ、ばあちゃん。この花びら何?」
「触れるんじゃないよ、洋人。触れたら引きずり込まれるからね。」
「…え。」
「ご安心ください。通るところはあらかた片付けておきましたので。」
無言で黒い獣道を進んでいく。街には人の気配がなく、まるで廃墟のようだ。景色はどこを見ても灰色。身体中にのしかかってくる空気がとても重い。
しばらく街を歩いていると病院に辿り着いた。看板には"羽衣総合病院"と書かれている。大学病院とまではいかないものの、そこそこ大きい病院だ。入口まで行くと、本土に降りたって初めて、人の気配がした。
中に入ると待合室には沢山の人がいる。診察待ちというよりは、外から逃げて来た人達という感じだ。
「こちらです。」
エレベーターに乗り、病室の並ぶフロアまで上がる。5階でエレベーターを降り、すぐ近くの病室の前で止まった。
「失礼します。」
男はゆっくりと病室のドアを開ける。中に入ると、不安げな顔をしたハーフアップの少女が体を起こしていた。
「……生きてた…。」
おれたちは少女のベッドのそばに行く。
少女はおれとばあちゃんを少し見て、男に視線を移した。
「こちら、花神島から来た…」
「……っ!花神島!花神島は無事なんですか!?」
突然少女は目を丸くして、ばあちゃんの方に身を乗り出した。
「…どういうことかね。」
「花神島での事件を何一つ覚えていないようです。自分がどうやってここに辿り着いたのかも。」
「なるほど…。」
「現在花神島が消えているということと、彼女がひとり、本土に流れ着いたことは伝えてあります。」
少女は震える声でばあちゃんに話す。
「花神島へは3日前、家族で向かったんです、島にいるおばあちゃんたちに会いに。家族はきっとまだ花神島に……!」
少女はばあちゃんの手を掴んで縋るように見つめている。
ばあちゃんは震える少女の手をそっと包んだ。
「花神島の中が今どうなっているかはわしらにもわからん。わしらは花神島の本島から来たのではない。離れ小島から来たのじゃ。」
「そんな……。」
少女の黒い瞳が揺れる。
「…じゃが既に人々は花神様に取り込まれてしまっているじゃろう。」
「…花神様に……?」
「詳しい説明は後ほど。今はまず、夜星高校に向かいましょう。」
「夜星高校って私の…。」
「はい、そこが我々の拠点になります。」
男とばあちゃんは病院の人と話があると言って、部屋から出てしまった。病室が沈黙に包まれる。少女はとても困惑した様子だった。
「大丈夫。おれもよくわかってないから。」
不安そうな表情のまま、少女がこちらを向く。とても整った顔立ちで、美人だと思った。
「……あなたは?」
「…おれは洋人。よろしく。」
「わたしは心乃花、榎本心乃花。」
「うん。」
病室のドアが開く音がした。
「お前たち、そろそろ行くとしよう。」
男について、再び病院の外へ出る。
「……なに、これ…。」
心乃花は黒い花びらに覆われた街の悲惨な状況にショックを受けていた。
「……日本全国こんな感じなんですか…?」
「少なくとも、あなたが住んでいた地域の安全は確保してあるのでご安心ください。」
心乃花が聞くと、男はその意図まで読み取ったかのように答えた。
「これ、触っちゃまずいんですよね?どうやって東京まで行くつもりですか?」
すると、おれたちの後ろにいたばあちゃんが前に出てきて、杖を両手で持った。
「……ふんっ!!」
杖を力強く地面に打ち付けると、おれたちを中心とした広い範囲の花びらが消えた。
「…ぇぇえええええっ!?」
思わず素っ頓狂な声が出る。心乃花も驚いて声が出ないようだった。
「力を使わせてしまい申し訳ございません。」
「このくらい大したことないわい。……先に進もう。」
相変わらず表情の変わらない男とばあちゃんはスタスタと歩き始めてしまった。どうやらばあちゃんの力を使いつつ、ここから東京まで地道に道を切り開いていくらしい。
……ん?…いや待て……
「……徒歩かよぉぉぉぉぉぉっ!!!」