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ワン 1

「一目惚れって信じますか?」


 何事かと思った。目をまん丸くしながら、少し頬を赤らめて紡がれた言葉は思いもよらぬもので。


 縁のない言葉だったのもあるけれど、転職したばかりで慣れない疲れが溜まっているのもあるけれど……落とされた言葉をいまいち理解できなかった。



 ヒトメボレ。一目惚れ。それは、彼の理想通りの容姿というわけで。

 信じがたくもあり、恥ずかしくもあり、現実味がなくもあり。


 仕事でくたくたの私は、その言葉にただただ瞬きするしかなかった。



 転職がきっかけで引っ越しをした日のことだった。

 住み始めて間もない重苦しいドアを開けようと手を掛けたところだった。


 私より年下で、まだ学生っぽい雰囲気のある“彼”が珍しいものでも見るように、慎重に様子をうかがいながら、わたあめみたいなキャラメル色の髪の毛をふわつかせて一礼した。



 「お隣さんだ!」と思い、背筋を伸ばしてお辞儀を返す。

 クリっとした大きな黒目が私の目とバチッと合った。


 その瞬間だった。


 みるみると染まっていく頬、見開かれていく目、大きく開かれる口。

 口に添えられた手は袖の中にあり、いわゆる萌え袖状態だった。


「こんなこと初めてです! ……あの…お名前は?」

「えーと……タキイです」

「下の名前!」

「あー…サアヤです」


 近所付き合いは大事だからと思って、正直に名を明かす。お隣さんじゃなかったら断っていたかもしれない。なぜなら、さっき会ったばかりの人にフルネームを教えるなんて嫌だから。


 でもグッと堪えた。これもトラブルの元にならないために。


「さーや!」


 え、いきなり呼び捨て!? 初対面ですけど? っていうか、明らかに私の方が年上ですけど!? そもそもあなた誰ですか!?



 顔が引き攣っているかもしれない。笑えていないかもしれない。

 目を輝かせているところ悪いけど、私は引っかかる。その呼び捨て、すごく引っかかる!


「さーや……いい名前! さすが、さーやのご両親だね」


 しかも舌足らずな感じ、わざと!? 雰囲気可愛いのにプラスして萌え袖で舌足らず!


 可愛いを詰め込んだような人なのかな?



 かわいいけども!


 かわいいけども……ああ、こてんと頭を傾けるのもプラスされちゃったよ。


「僕はあお。くさかんむりに倉で蒼だよ」

「……えーと……はい」

「そんなにかしこまらず! 気楽に仲よくしよーよ!」


 いや、私はあなたと違って、お互い敬意を払っていきたい派なのだけれど!

 距離を保ちつつ、いい関係を築きたい派なんですけども!!


 私の口に出さぬ思いはそんな彼に届くはずもなく、響きを確かめるかのように何度も私の名前を呼ぶ。


「さーや……さーやね……そっか…」


 私が今までかかわったことがないタイプの生き物だから、手に負えない。


 彼の取扱説明書はどこ!? あ、でも詳しくいらない。最低限の付き合いだけのつもりだから。



 体の前で握っていた手を取られる。近くなる距離。漂う、キャラメルのような甘い香り。


「さーや! 引っ越し祝いをしよう!!」

「え」

「さぁ! さぁ!! 近くにおいしいレストランあるんだよね。さーやにも食べてもらいたい」

「いや…あの……」

「遠慮せず! これからめちゃくちゃ親密になるんだから!」


 ならないです! なりたくないです!!

 私とあなたは隣同士という関係だけで、それ以上の関係は必要ないです!!


 でも、ここで断ったら雰囲気悪くなるだろう。親切にしてもらっておいて何断っとんねんってなるかな。これからの関係は冷え切ってしまうのかな。


 ……断れない。私はまだ、ここに来たばかりの新人。先輩の言うことは聞かなきゃいけない。


「さぁ、しゅっぱーつ!」

「……」


 腕を引かれるままに進めてしまった足。くたくたのスーツと同様に気持ちも疲れ切っていた。


 ああ、明日も仕事なのに。疲れたから寝たいのに。

 貴重な自分の時間が、一秒一秒消え去っていく。


 私のクローンがあったらそれをこの人に置いていきたい。



 静まり返った暗闇の中、街灯が私たちを照らす。人通りは少なく、私たちの歩く音だけが響いていた。


 空はバケツをひっくり返したような黒で、足元には二つの影が寄り添い、ゆらゆらと揺れている。


「あの……」


 手首から手を離してほしくて声を掛けた。けれど、その言葉が発せられる前にクルっと振り返った彼。


 ふわふわな髪が彼の後を追う。澄んだ黒い目が近寄ってくる。少し拗ねている表情にも見えた。


「蒼」

「……え」

「蒼って呼んでっ!」


 くっきりな二重が綺麗だな、なんて眺めていると視線を逸らされた。

 睫が長い。何本も爪楊枝が乗せられる人がいた気がしたが、彼もできる気がした。


「……さーやにはそう呼んでほしい」


 照れてる。じっと見つめたからだろうか。少しでも隠そうと、口元に萌え袖を当てていた。

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