箱の正体
リチャードとシエラは石造りの小屋を出ると崖とは反対側の森の中を歩き始めた。
二人が羽鯨に転移させられたのは新緑輝く鬱蒼とした山岳地帯だったようだ。
黄土色の岩石で出来た階段状の段差を降りていくと、親子二人が一晩過ごした石造りの小屋と同様の黄土色の岩石を加工して建てられたであろう家屋の廃墟群がリチャードとシエラの前に広がった。
高い木々の葉の隙間から陽光が射し込み、光の柱があちこちに降り注いでいる。
風光明媚で、彩色絢爛と言えばそうなのだが、その景色をリチャードはシエラのように素直に綺麗だとは賞賛出来なかった。
それと言うのも、問題は女神アクエリアから授かった箱にあった。
結果だけで言えば、箱には何も入っていなかった。
しかし、何も入っていないその小さな箱にはあるはずの物、底板が無かった。
穴が空いていたわけではない。チャードが開いた箱の中には夜のような闇が続いていたのだ。
なにかの見間違いと思い、リチャードは蓋を閉め、深く深く、心を落ち着かせるために深呼吸してから再度蓋を開けたが、結果は変わらなかった。
開いた箱には“底”が無かった。
「異空間収納箱?」
リチャードがその箱の蓋を額に冷や汗を滲ませながら再度閉めた後、彼は昔の事を思い出していた。
リチャードがまだ二十代半ばの頃の話だ。
その日、リチャードは魔法使いの友人とギルド併設の食事処で酒を飲んでいた。
「そう、別名アイテムボックスって言ってね」
「道具箱? 変わった名前の聖遺物があるんだな」
「僕の魔法に空間同士を繋げる魔法があるだろう? あれはその聖遺物、アイテムボックスの文献を元に開発した物なんだけどさあ――」
「よせ、酒の席で魔法を語るなアルギス、頭が痛くなる――」
研究馬鹿の魔法使いであるその友人との会話を、リチャードは手に持った箱を見て思い出していた。
発見された例が極端に少ない箱、アイテムボックスは神様が創った物だとその友人は言っていた。
過去に見つかったアイテムボックスは、一つはどこかの国の博物館の奥深くの結界に、一つはどこかの国の城の宝物庫に厳重に管理されており、機能を再現した完全な箱が見つかったならその価値たるやという代物。
それが今、リチャードの担ぐ麻袋の中に入っているのだ。
多額の現金を破れやすい紙袋にパンパンに入れて運んでいる方がまだマシだったかも知れない。
国宝級、いや、もしかしたらそれ以上の価値がある箱をいきなり手に入れてしまったリチャードの心境たるや、まさに戦々恐々と言うに相応しい状況だった。
「女神様は私を試しているのだろうか」
「パパ大丈夫?」
「大丈夫、ではないかもしれない……いや、心配しないでおくれ。体調はすこぶる良いよ。精神的には少しばかりまいっているがね」
結局、アイテムボックスは本物で、蓋を開けたまま毛布に触れたりしてみたが、箱はさも当たり前のようにそれを吸い込んでいった。
試しにと、容量が知りたかっただけだったのだが、箱が一晩過ごした石造りの小屋の中身をほぼ全て格納した辺りでリチャードは滝汗を流して誰も咎める者はいないのに、小屋から逃げるように立ち去り、今に至る。
「ドラゴンと対峙したほうがまだマシだったかも知れない」
「あの箱ってそんなに危ないの?」
「どんな道具も使い方次第ではあるが。だが確かにそうだな、この箱は危険だ。自分を善人だと言うつもりは無いが、悪人の手には絶対に渡せないくらいには危険な物だよ。
私のように箱の使い方を見出すことができない凡人でも、コレが世に出れば商業、特に物流関係が大混乱に陥るのはまあ、分かるしね」
「捨てちゃう?」
「……いや、いや駄目だ。流石に賜り物を捨てるわけにはいかん。これは家宝にして、家に帰ったら厳重に封印しよう」
リチャードはそう決心したのだが、やはり背中に国宝並みに価値のある代物を担いでいるとなっては、リチャードの胸中は穏やかではいられないのだった。