2.【仕事に私情を挟む事なし】
休憩時間終了の十五分前に入ると二人は職場に戻り、それ以上は喋る事もなく、頭を恋愛の事から仕事の事に切り替える。
長話が過ぎれば、思考が仕事に切り替わる事なく、そのまま雑談を持ち越してしまう。
手を動かせる分には問題ないが、ミスは少ないに越した事はない。
仕事以外の雑念は作業する上で不要の為、二人はただ黙って自分の席に座り、腕時計と睨み合う。
この辺りは眞鍋も馬路もプロである。
仕事に対する姿勢が他の社員とは異なっていた。
そして、休憩時間が終わると同時に二人はほぼ同時に自身に託された各々の課題を着手する。
サボらない。手を抜かない。
それ故に絶対の信頼が寄せられ、その期待に沿うように励む。
二人の仕事のスタイルはまさに長年の経験として徹底的に培った社畜根性とも云うべきモノであった。
そこからは終止無言で仕事に没頭する。
静寂になれば、周りの声もが自然と聞こえて来るようになる。
そうして、周りへの反応にも気を配る事で応対も自然とこなせるようになるのだ。
無論、この環境に適応する為には血の滲むような努力と上司のプレッシャーなどにも耐える強靭な精神が必要となる。
とある映画の売り文句で云うところの「兵にはなれど、捕虜にはなるな」である。
二人の精神は社畜と云う名の戦士の行き様である。
近年では社畜の行き様は否定されがちだが、このような環境に置かれ、このような生き方しか知らぬとなると転職すると云う考えに至るまでには長い道のりを有する。
また、長年の行き様が反映され、どうしても社畜に陥り易いのだ。
一般人から見れば、社畜は理解しがたいモノだろう。
ケアをする者は過去に棄てられた美学と云う。
だが、真の社畜なれば解るだろうが、その行き様は美学でもなければ、格好つけているつけていないでもない。
そう云う理由ではないのだ。社畜にあるのは大義に近い。
自身を雇用した会社に対する忠義。日本人由来の信念とも云うべき精神ーーそれこそが社畜の精神である。
泥臭く格好悪かろうが、仕事のし過ぎで過労死になろうが、行き様そのものは易々と変わるものではないのだ。
だからこそ、過労死による殉職が現在の日本で未だに見られるのである。
就職難を経験し、自身を採用した職場が少なければ少ない程、それは顕著に表れる。
転職を勧められても行動出来ない理由はそこにある。
そして、可能性を狭め、社畜と云う人種が生まれるのである。
キーボードの音と周囲の声だけが響く中、眞鍋と馬路は自身の課題に集中した。
集中してしまえば、時間と云うのが過ぎるのは早い。
その分、精神的な疲弊もあるが、それを栄養ドリンクやコーヒー、エナジードリンクで補うのが社畜の働き続ける秘訣と云っても良いだろう。
疲労が蓄積されれば、判断力が鈍るが、社畜になるとその分、精神的な過集中の状態となるのだ。
こうして、二人は仕事が終わるまで一切の妥協を許す事なく、各々のノルマを達成させていくのであった。