新しい朝が来た
学生や社会人の大いなる敵である月曜日がやってきた。
俺もご多分に漏れず月曜日は大嫌いである。次の日は学校があるから早く寝ようと思っていても、どうしても夜更かししてしまう日曜日の夜。夜更かしできない日なんて休みじゃない!ということは真の休日は土曜日だけになってしまう。
あの土曜日が終わってからは、俺はいつも通りの週末を過ごした。昨日は昼過ぎまで寝て、ご飯を食べ、それから夕方まで寝て、夕飯を食べ、風呂に入ってからゲームや読書をして、夜中の三時頃に寝た。
寝不足である。あと十時間は眠りたい。とはいえ学校をさぼるのは俺のポリシーに反する。成績は平均クラス、運動も平均クラス、そして容姿も平均クラスな俺は皆勤賞をとることしか自慢できることが何もない。……まあ、皆勤賞の生徒に配られる図書カードが欲しいだけだが。
制服に着替え自室を出るころには父はすでに出勤していた。リビングのテーブルには読まれたあとの朝刊やチラシが雑然と広がり、それらの上に父が残していった食器と俺の分の朝食が置かれていた。
「おはよう。時間は大丈夫なの?いつもより遅いけど」
すでに朝食を済ませた母は、ソファに座ってコーヒーを飲みながら朝の情報番組を見ていた。母は早起きで毎朝六時ごろには起きている。父や俺が起きる前に朝食を用意し、こうやってテーブルに用意してくれている。そのため、俺が食べるころには温かかったものも冷めてしまっているのだが、まあ作ってもらっているのだから文句は言えない。
「大丈夫。五十分に出ればギリギリ間に合うから」
レタスにドレッシングをかけてから、野菜、卵、ウインナーの順に食べていく。おかずを食べ終えてから、食パンに手を付ける。パンは焼かずにそのままかじりつき、牛乳で喉の奥へと押し込む。それを五回繰り返しパンを全部飲み込むと、残った牛乳を一気に飲み下す。
「もう少し落ち着いて食べれないの?見ててしんどい」
テレビを見ていたと思っていた母がいつのまにかこちらを見て嫌な顔をしていた。
「ゆっくりしてたら遅刻するし、朝ごはんは全部食べろって母ちゃんが言ったんだろ。……ごちそうさま!ところで今日のラッキーアイテムは?」
「お粗末様。だからもう少し早く起きるようにしなさいって言ってるでしょう。早起きは三文の徳って言ってね、早起きは良いんだから。……水玉の靴下、そこに置いてるから」
「若者にとって朝は勝つことのできない強敵なんだよ。そりゃ誰だって早起きできたらいいなとは思ってるだろうけど、できないんだからしょうがないの」
急いで白の靴下から水玉の靴下を履き替える俺を見て、母は呆れたようにため息をつく。
「はあ、私は子供のときから早寝早起きだったから理解できない」
「母ちゃんは化け物なんだよ」
「なに、母親に向かって化け物とはなに!?コラ!!」
「だから遅刻するって。いってきます」
「いってらっしゃい。気を付けてね。帰ったら覚えてなさいよ」
いってきますと言ってリビングを出たものの、まだ顔を洗っていなかったので、洗面所に入って顔を洗い、歯を磨く。鏡の横に掛けられた時計は七時四十五分を示している。これなら遅刻せずに済みそうだ。口をゆすぎ、鏡に映る寝癖に水をつけて撫でつける。
「いってきます!」
玄関で靴を履いてから、リビングの方へもう一度声をかける。するとリビングのドア越しに「いってらっしゃい」という母の声が聞こえた。
今日は曇りだった。スマホで見た降水確率は二十%。リュックのなかには予め折りたたみ傘が常備されている。
丁度止まっていたエレベーターに乗り、一階ボタンを押す。他にはだれもいない。壁にもたれかかり、もう一度傘がちゃんとリュックに入っているか確認する。エレベーターのドアが閉まり、箱が動き出す。そのとき、大急ぎでエレベーターの方へ走ってくる人影が見えた。が、俺にはどうしようもなく、エレベーターはそのまま下へ下りていった。
「あ……」
マンションの玄関口から駐輪場へと歩いていく途中で、俺は自転車がパンクしていたことを思い出した。
日曜日は自転車屋の定休日だったので修理に出せず、パンクした前輪はそのままである。
家から学校まで、自転車では約三十分かかる。
そして別ルート、電車を使った方法では最短で二十五分。最寄りの駅から学校前の駅までは十五分。ここから駅までは徒歩で十分だ。久しく乗っていないのでうろ覚えだが、たしか学校方面の電車は十五分に一本しかなかったはずだ。それが何分発だったかは覚えていない。
タイムリミットは八時ニ十分。ここから駅まで歩き、そこに丁度良く電車がやってくれば遅刻せずに済むが、果たしてそうタイミングよく電車が来るだろうか。
俺はそこで考えるのをやめ、走り出した。どうしても遅刻したくなかった。顔の怖い学生指導の山本先生に叱られるのも嫌だったし、遅刻をしてクラスで目立つのも嫌だった。そしてなにより、皆勤賞の図書カードを逃すのが一番嫌だった。
落ち着いてスマホで電車の時間を調べる時間も惜しかった。俺は去年の体育祭ぶりの力を発揮して走った。
ここで少し断っておくが、俺は普段全く運動をしない。走るのはとても遅い。そして体力もない。
走り出して百メートル。おそらく人生のなかの百メートル走で一番早い記録を叩き出したであろうが、当然タイムを計る者などいない。俺はぴたりと走るのをやめた。というより、もうこれ以上走れなかった。体力の限界である。
脳へ酸素が行き届かないせいで頭と視界がぼんやりとする。ひ弱な両足は生まれたての子鹿のようにぷるぷると震えている。背中や脇にかいた汗がシャツを冷たく濡らしているのがわかる。
こういうとき、
「日ごろから運動せねばなぁ」
と思うのだが、俺の場合、三日坊主どころか、初日、走り出して一分でもうやめてしまう。
体力や筋力は一朝一夕で身に付くものではない。一か月、一年、と長くトレーニングを積んで身に付くものだ。
知ってる。知ってるよ!でもしんどいんだもん。肺が、筋肉が、様々な細胞たちがすぐに限界だと叫びはじめるんだもん。続かない、どうしても続かない。
ぜぇはぁと喘ぎ俯く俺の横を、一台の自転車がすうっと追い抜いていった。香水か何かのいい匂いが鼻をくすぐる。反射的に顔を上げると、かすむ視野に映るその後ろ姿はどうやら俺と同じ学校の生徒らしい。俺と同じブレザーは颯爽と走りゆき、角を曲がって俺の視界から消えた。
俺の記憶違いだったようで、学校方面の電車はこの時間、十分に一本走っていた。走るのを諦め、歩いて駅まで行ったが、その二分後には俺は電車のなかで揺られていた。電車は時間通りに学校前の駅に到着し、俺は遅刻をせずに済んだ。