(二)
切通坂を上り、しばらく歩いていくと、緑色の尖った屋根が見えてきた。鈴城男爵邸である。英国人の建築家に設計させたという邸宅は、門扉や窓枠に施された石の彫刻と煉瓦の壁によって典雅かつ堅牢な雰囲気を纏っている。
門を抜けて庭に入ると、顔馴染みの庭師が仕事をしていた。目が合ったので軽く会釈をして、しづは屋敷の入口まで真っ直ぐ進んだ。
「ごめんください。仙石屋です」
扉を控え目に叩いて名乗ると、程なくして中から使用人が出てくる。
「見山様。ようこそいらっしゃいました。どうぞお入りくださいませ」
出迎えてくれたのは栗原という長年鈴城家に仕えている家令の男で、しづもよく知った人物である。三枝子の遊び相手としてこの家を訪れることになって間もない頃は、好奇心旺盛な娘二人を躾けられるくらいの若々しさがあったが、最近では滅多に大声は出さないし、白髪も目立つようになってきて、すっかり落ち着いてしまった。
「こちら、父から預かって参りました。豆大福です」
「これはこれは。どうもありがとうございます。旦那様がお喜びになりましょう」
「三枝子様はいらっしゃいますか?」
「ええ。勿論でございます。ただ、本日は先客がいらっしゃいまして、今すぐにはお会いになれません。もうすぐお帰りになると思いますので、お待ち頂けますか」
しづは頷き、栗原に案内された応接室で三枝子を待った。
応接室に入るのは久しぶりだ。以前に来たのは、父に連れられて初めて鈴城邸を訪ねたときだった。客人をもてなすための部屋であるだけに、調度品の誂えも一際手が込んでいるような印象を受ける。鈴城邸に入り慣れているしづも思わず溜息をついた。天鵞絨の椅子には座るのが躊躇われるくらい豪奢な刺繍が施されている。恐る恐る腰を下ろすと、柔らかく身体が沈み、まるで雲の上に座っている心地がした。
応接室をぐるりと眺めながら三枝子を待っていると、扉の外の方で声が聞こえた。
「日下先生。ありがとうございました」
「いいえ。日頃からの検診は大病を防ぐためには必要なことです。三枝子様もすっかりご丈夫になられたようで、私も安心しました」
「先生のお陰ですわ」
「とんでもない。私はほんの少し手助けをしただけですよ。三枝子様ご自身の力でお元気になったのです。これからは外出する機会を増やしても問題ないでしょう」
「また診察お願い致します」
「ええ。また来月伺います。それでは、今日はこれで」
男の声と、女の声。女の方は、恐らく三枝子のものだろう。男の方は、聞き覚えのない声だが、まだ若く理知的で頼りがいのありそうな凜々しさがあった。男が別れの挨拶をしているようだが、三枝子が彼を見送っているのだろうか。
しづが部屋の外に聞き耳を立てていると、こつこつと扉を叩く音がした。
「しづさん。入りますわよ」
「どうぞ」
しづは慌てて居住まいを正す。
「ごめんなさいね。お待たせしてしまって」
三枝子は藤色の紬の着物姿で現れた。
「とんでもないです。私こそ、お客様のいらっしゃるときにお邪魔してしまって」
「お気になさらないで。毎月決まっていることですし」
「毎月?」
「ええ。お医者様なの。幼い頃から診て頂いている医院の院長先生よ。最近は調子が良いから月に一度だけ、障りがないか診察してくださるの」
三枝子は生まれつき身体が弱い。今ではすっかり丈夫になったように見えるが、まだ観察が必要なのだろう。
「随分お若い院長先生のようですね」
「先代の院長でいらしたお父様がお亡くなりになったので、去年後を継がれたばかりなの。でも、ずっと欧羅巴で医学のお勉強をなさっていたから、とても頼りがいのある立派な先生よ」
先生のことを語る三枝子の頬に朱が差しているのを認め、しづはあら、と口元を緩める。
「もしかして、三枝子様。その先生のことがお好きでらっしゃいますのね」
声を潜めて指摘すると、三枝子の顔は益々朱くなった。
愛らしいその様子にしづはふふと笑みを零す。
「もう。意地悪だわ。しづさん」
「良いじゃありませんか。素敵な殿方に惹かれてしまうのは、乙女の性ですわ」
恨めしそうにしづを見る三枝子を微笑ましく眺めていると、応接室に剥啄の音が響く。
「どうぞ」
「失礼致します」
家令の栗原が恭しく礼をして入ってくる。
「お嬢様。お部屋にお茶のご用意ができてございますが、如何なさいますか?」
「頂くわ。ね、しづさん」
「ええ。有り難く頂戴致します」
三枝子に手を引かれ、しづは屋敷の階段を上がって二階の三枝子の自室へ連れて行かれた。遊び慣れた洋間だが、何度足を踏み入れても憧れてしまう。露台付きの大きな窓には花柄の窓帷。窓の外の景色を眺めながら休めるよう、窓の近くに背の低い卓と長椅子がある。壁は薄萌葱色で、奥には天蓋付きの寝台と小さな文机が配置されている。まるで異国のお姫様の部屋だ。
窓辺の卓の上には、見慣れない三段に連なった皿があった。それぞれの皿には数種類の料理が綺麗に盛られている。
「こちらは…?」
「午後のお茶会よ。英吉利では女性の社交の場で供されるのですって。栗原にお願いして用意してもらったの」
英国への遊学経験のある鈴城男爵は、自身の邸宅を英国風にするだけでなく、生活習慣にも多分に英国式のやり方を取り入れていた。使用人達もそういった注文には慣れているのだろう。
「さ、頂きましょう」
席に着くと、三枝子が茶を碗に注いでくれる。淹れるのは勿論、緑茶ではなく紅茶だ。
「一番下はサンドウィッチ。二段目はスコーン。三段目は和洋の甘味を集めてみたの。下から順に食べていくのが決まりみたいだけれど、しづさんの好きな順に召し上がってね」
しづは頷いて皿をじっくりと見る。サンドウィッチは鈴城邸で何度か軽食として出されたことがあるから食べたことがあるが、二段目のスコーンという品は初めて見た。
「これはどんなお味なんです?」
しづが二段目を指さして問うと、三枝子は得意げな表情で説明してくれる。
「少しだけ甘みがあるかしら。焼き菓子だし、あまり水気のあるものではないけど、このクリームをつけると丁度良くなるわ。先日英国公使館の方からお裾分けして頂いたのよ」
英国通で知られる鈴城男爵は公使館との交流もよくあるらしい。確か三枝子の兄は公使の伝手を頼って倫敦に留学中の筈だ。
「では、こちらを頂きますね」
しづはスコーンを一つ摘まんで手元の小皿に取った。食べやすい大きさに千切って三枝子の教えてくれた通りクリームをつけて口に入れた。
香ばしい薫りの後に仄かな甘みと塩気がする。さくさくとした食感で、ほろほろと口中で崩れた生地をクリームがまとめてくれる。
「美味しい」
「良かったわ」
しづは紅茶を一口含んで落ち着くと、三枝子を見た。先程の話の続きが気になってしまう。
「ところで、お顔立ちはどんな方なんです?」
矢庭に訊かれて三枝子は赤面しながら口籠もる。
「そ、それは…素敵な方よ。どちらかといえば、お顔も整っている方だし」
「お優しい方ですか?」
「勿論。紳士的で、いつも気遣いを絶やさない…素晴らしいお医者様よ」
強がってみせるところがいじらしい。彼の優しさが自分だけのものではないと知っている。好いた男のことを褒めて自慢したい気持ちの裏側で、華族のお嬢様が町医者とは結ばれるわけはないと諦めているのだ。
「私のことはこれくらいにして、しづさんはどうなの?」
「私ですか? 私は何も…」
「でも、しづさんの方が男性と接する機会はおありでしょう? ほら、お米屋さんの従兄の方とか」
「蔵通兄さんですか。小さい頃から兄代わりのような付き合いですから、そんな、恋心なんてありませんわ」
三枝子に言われて蔵通のことを考えてみたが、特に胸が高鳴ることはない。見た目は硬派で男らしいが、朴念仁で人を避けがちだからもてない。しづ以外の女性とまともに話したことがあるのかしらん、と心配さえしてしまう。しかし、しづとて異性に興味を抱いたことがあるとは言えない。ましてや、三枝子のように胸を熱くしたことなどあったろうか。
「あ」
つい先程の邂逅が頭を過ぎる。
「なあに? どなたか気になる方がいらして?」
三枝子が興味津々でしづを見つめてくる。
「あの、知り合いというほどでもないんです。偶々すれ違っただけのような方なのですけれど」
しづは丁度ここへ向かう途中に出会った少年のことを三枝子に話した。洋行帰りで洋装の、大人びた雰囲気の少年のこと。しづの知性を称賛してくれ、学ぶことを励ましてくれたこと。
「まあ、素敵じゃない。その方とはもう会えないの?」
「お店をやってらっしゃると言ってましたから、そちらへ行けば会えるでしょう」
「お店? 何のお店なのかしら?」
「それが、詳しくは教えて頂かなくて。お店の名前は解るのですが」
しづは月草にもらった名刺を差し出す。
「『蛇輪舘』…?」
「何のお店でしょうね。銀座にあると仰っていましたが」
「銀座にはよく行くけれど、見たことがないわ」
三枝子も見当がつかないとは、一体何をしている人なのだろう。
二人して名刺を眺めながら思案していると、三枝子がぱんと手を叩いた。
「これは直接行って確かめる他ないわね」
え、としづは口を開けたまま三枝子を見返す。
「だって見てみたいですもの。しづさんの良い方」
「良い方…って、やめて下さいな」
「ふふ。さっきのお返しよ」
三枝子は愉しそうにスコーンを頬張る。
「ね、今度女学校の帰りに待ち合わせて行ってみましょう」
三枝子の提案にしづは頷いた。
月草の店を見てみたい気持ちも勿論あったが、三枝子と初めて外を出歩くのが楽しみだった。