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擬アポロオン綺譚  作者: 毛野智人
第二章 銀座の美少年
5/6

(一)

 見山(みやま)しづは菓子屋の一人娘である。

 根岸に店を構える仙石屋(せんごくや)は、久保田米穀店の女将であるミヱの弟・見山治郎(じろう)が一人で職人として腕を振るう小さな店であるが、味は確かなようで、特に丁寧に仕込まれた餡子(あんこ)の評判は高い。

 仙石屋の餡子は庶民のみならず、さる華族からも支持されていた。鈴城(すずしろ)昭武(あきたけ)男爵である。

 鈴城男爵は無類の餡子好きで、個人的に市中の菓子屋から餡子の菓子を取り寄せては食べ比べをするのが趣味であった。帝都中の菓子を食べ尽くした結果、仙石屋の豆大福が一等のお気に入りらしく、毎週のように仙石屋の菓子を邸宅へ届けさせていた。餡子から始まった一介の菓子屋と華族の付き合いであったが、現在ではその域を超えた関係になりつつある。

 十歳になる頃、しづは父と共に鈴城男爵家に注文の品を届けに来たことがあった。

 本郷にある鈴城邸はしづにとっては初めて見る洋館で、まるで外国に迷い込んだ気分になったのを覚えている。どんな人が住んでいるのかとどきどきしながら父の後ろに着いていると、立派な身なりの紳士が現れて、父と話を始めた。大人の会話はさっぱり解らず退屈していると、自分と同じ年頃の娘が同じように退屈そうな様子で紳士の背後に隠れているのに気付いた。男爵の末娘・三枝子(みえこ)であった。

 三枝子は生まれつき病弱で、学校には通っていなかった。そのため、同年代の友人にも恵まれなかった。仙石屋に三枝子と同じ年頃の娘がいると知った男爵は、友人の少ない三枝子に歳の近い女子と交流する楽しみを与えたいと考え、しづの父に協力を請うたのだ。実際にしづのことを三枝子嬢も男爵もいたく気に入り、それからというもの、仙石屋の納品には毎回しづが同行した。そのときには僅かの時間ではあるが、しづが三枝子の話し相手、遊び相手となって過ごした。そうした年月を重ねるうち、三枝子の身体も大分良くなり、齢十四の頃、女学校に入学することになった。それまで同年代の友人がいなかった三枝子が入学後に孤立しては可哀想だという男爵の意向から、しづも三枝子と共に女学校へ行くことを勧められた。しかし、一介の菓子屋で平民の出である見山家には華族の子女が通う私立の女学校は分不相応に過ぎるので、仙石屋の主人は男爵の勧めを丁重に断った。流石(さすが)に事情を察してくれた男爵であったが、しづの聡明さに気付くと、今度は三枝子のためではなくしづ自身のために教育を受けさせるよう強く勧めた。しづの父はその意義をよく理解出来なかったが、男爵が学校の紹介までしてくれたために、しづはお茶の水の公立の女学校に入学することとなった。

 しづと三枝子が別々の女学校に通うようになってからも、二人の友人関係は続いた。最近では注文された仙石屋の菓子を鈴城邸に届けるのはしづの役目となり、使用人に菓子を預けた後は三枝子と二人でおしゃべりをしてから帰るのが常である。


 今日もまた、しづは鈴城邸に向かって歩いていた。

 近道をしようと細道に入る。

 入ったところで、奇妙なことに気が付いた。

 細い上に急な坂道なので普段から人通りは極端に少ない。道幅も人一人が充分通れる程度で、二人通るには横向きに歩かねばならない。いつもしづ一人しかいないような人に知られていない道だ。だが、今日は違った。後ろに誰かいる。しづは少し怖くなった。

 西洋靴と思しきかつかつという足音。歩幅は狭くはなさそうだから、恐らくは男だろう。

 尾行されているかは解らない。しかし、狭い空間で背後に見知らぬ男がついてくるなんて、十六ばかりの娘にとっては十分に脅威だ。

 まだ日は高いが、ここに逃げ場はない。左右は塀に囲まれているし、もう坂の中程まで来てしまったので引き返すことは出来ず、急いで坂を上るのも転んでしまいそうで出来ない。

 一体どうしたものか。

 しづは考えながら歩き続ける。

 後ろにいる人物がしづに何かしてくるという可能性は低いとは思う。足音からして、距離はそれなりに離れている。逃げ場のない今の状況で何もしてこないのだから、更に進んでから、というのは無さそうではある。しかし、その可能性が皆無とは言い難い。

 何となく身体が緊張する。

 もしもこれ以上距離を詰めてくるようなことがあれば、全力で走って逃げよう。

 しづは自分の中で準備をしながら歩いた。

 自分に色々な段取りを言い聞かせながら歩いた。

 だから多分、気付かなかった。

 左側の塀に猫がいたことに。

 気付かずにしづは歩いていた。

 そのとき猫が、跳んだ。

 しづは吃驚(びつくり)して、短い悲鳴を上げて、急に足を止めて、均衡を崩した。

 転んでしまう、と思った。咄嗟(とつさ)に目を(つぶ)る。

 しかし、身体に地を打ったときの痛みはやってこない。

 恐る恐る目を開ける。

 何者かに抱き留められていた。

 猫は右側の塀で欠伸(あくび)をしている。

「大丈夫ですか」

 背後からの声に驚いてしづは慌てて身を離す。

「大丈夫です。貴方は」

 しづは少しだけ乱れてしまった着物を直して後ろを向いた。

 自分の後ろを歩いていた人物を目の前にして、しづは瞠目した。

 そこには少年が立っていた。しづと同じ歳くらいだろうか。

「僕は大丈夫です。猫の動きは予測できませんからね、驚かれて当然でしょう。怪我をなさらなくて良かった」

「いえ、あの…ありがとうございます」

 しづは勝手な想像で警戒していた相手が丁寧で親切な少年だったので発する言葉が思い浮かばず、取りあえず礼を述べてしまった。

 自分でも知らぬうちに見つめていたのか、少年と視線が合ってしまい、急いで俯く。

「あの私、何やら勘違いをしていたもので…」

「勘違い? ああ、良いんですよ。僕の方こそ悪かったのです。貴方をつけ回すような真似をしていましたから」

 しづは驚いて顔を上げる。まさか疑っていたことが的中していたのか。

「実を言うと、道に迷ってしまったのです。それで貴方の後をついていけば知っている道に出るような気がして」

「どうして私が?」

「その、何と言いますか…貴方が他の人と比べて、洒落(しやれ)て見えたものですから」

「まあ」

「お世辞ではありませんよ。本当に」

 少年の言葉にしづは気を良くした。しづとて一人の女子である。身に着けるものには気を遣っている。今日も浅葱(あさぎ)色に菖蒲(あやめ)模様のお気に入りの着物に洋靴を合わせてみた。そんな自分の趣味を()めて洒落ていると言われれば、悪い気はしない。その上、少年の身なりもしづの気持ちを高揚させた。少年は洋装であった。シャツにズボンという出で立ちに帽子を被っていて、それが何の違和感もなくよく似合っているので、ハイカラ趣味のしづには好印象を与えた。その彼の口から称賛の言葉を聞いたので、尚のこと喜ばしい。

「それで、どちらまでいらっしゃるおつもりですの?」

「銀座までなのですが」

 銀座だなんて。瓦斯燈(ガスとう)が灯り、煉瓦(れんが)造りの建物が並ぶ、広い舗道の街。外国人が設計したという一等地は、この人にぴったりだとしづは勝手に思ってしまう。

「銀座だと、ここからは少し遠いですわね。上野までいらしてから、馬車鉄道に乗るのがよろしいのではないでしょうか」

「馬車鉄道の駅まではどの道で行けば良いかお解りですか?」

「この辺りは細い道が多いですから、ご説明するのは難しいですわ。ご案内致します」

「よろしいのですか。見ず知らずのお嬢さんにそんなお世話をかけてしまって」

「良いのです。勘違いまでした上に助けて頂いたんですもの」

「ありがとうございます。帰れないかと思っていましたから」

「銀座にお住まいですの?」

「いいえ。家は別にあるのですが、店が銀座にあるのです」

「お店?」

 目の前の少年が(あきな)いをしているというのはとても意外だ。しづと同じように学校にでも通っているものかと思っていた。少年の小綺麗な身形(みなり)を見ても、その年齢で労働に従事する理由があるとは思えない。

「ええ。真っ当な商売ではありませんが」

 しづの物問いたげな表情に答えて少年は苦笑する。

 これ以上の詮索は非礼だろうか。しづは思案する。すると、少年が気を利かせてくれた。

「お暇なときにでも、店にいらして下さい。今日のお礼に、お代は頂きませんから」

「良いのですか?」

「はい。お客様が少ないので宣伝のためにも。お知り合いにご紹介して頂けると嬉しいです」

 少年はしづに品の良い装飾が施された店の名刺を差し出した。『蛇輪舘』と印字されている。その横には『主人 月草樸』とあった。この人の名前だろうか。

月草(つきくさ)――さん?」

「はい。月草(あらき)と申します」

 それが彼の本当の名前かどうかは定かではないが、彼には似合いの美しい名に思われた。


 駅までの道中、二人は様々な話に花を咲かせた。

 話によると、月草は洋行帰りらしく、最近東京に住み始めたということだ。日本の社会情勢にもまだあまり詳しくはないようで、しづは色々な質問をされた。月草の質問にまだまだ知識の足りないことを痛感させられたが、解る範囲のことは精一杯答えた。中でも学制に関しては、しづ自身が女学生であるということもあり、話題がよく続いた。

「女学校では何を学ばれているのです?」

「一番時間が多いのは国語とお裁縫です。あとは、音楽やら歴史やら数学やら」

 しづが何気なく答えると、月草は目を丸くした。

「裁縫ですか。まさかお針子(はりこ)を育てたいわけではありませんよね」

「まさか」

 しづは手を振って否定する。

「普通の着物の(つくろ)いが出来る程度にしかなれませんよ」

 月草は成る程、と呟いた。

「つまりは良妻賢母教育、ということでしょうか」

「そうなのでしょうね。男の方が受けられる教育とは目指すところが少し違うのですわ」

 時々、勉強をしていてもふと我に帰るときがある。自分はこれを学んで何になるのだろうか、と。男子は学問を修め、大学へ通い、学びを立身出世に役立てることが出来る。しかし自分は? いくら学んだところで何の足しにもならないのではないか。所詮は夫を支え、子を立派に育てるために必要な知識を与えられているだけなのではないか。そんな諦観が胸の内に兆すのだ。

「裁縫は苦手でらっしゃいますか?」

「え?」

「すみません。お嬢さんはもっと他に学びたいことがおありなのかと思ったので。裁縫などに時間はかけてらっしゃらないのかと」

 月草の鋭い指摘にしづは驚いたが、とんでもない、と笑顔を貼り付ける。

「私、お裁縫など嫁入りに必要な仕事は日頃から母に仕込まれておりますもので、確かに学校では力は入れていませんけれど、成績は級友の中では一番です」

「これは失礼致しました」

 律儀に頭を下げる月草に、しづは貼り付けた笑顔を一寸(ちよつと)曇らせた。不思議とこの人には胸の内を少し見せても良いような気になってしまう。

「本当のことを申しますと、一番好きなのは外国語の授業なのです」

「ほう」

 月草は興味深げに話の先を待つ。

「英語か仏蘭西(フランス)語が選べるのですけれど、私は英語を学んでいますの」

「面白いですか」

「ええ。私達とは違った考え方に触れられますし、言葉の仕組みからも論理性や合理性を良しとする考えが窺い知れて、学ぶことに飽きることがありません」

 しづが率直な感想を述べると、月草は莞爾とした。

「貴女の趣味がよろしい理由が、何となく解った気がします」

 首を傾げるしづに微笑みかける月草の顔は、どう見ても少年のものなのに、どこかずっと年上の紳士然とした佇まいがあった。

「英国の現在の国主は女王であらせられます。僕も彼の国に滞在したことがありますが、経済、産業、科学、芸術などあらゆるものが爛熟していました。今この国は英国を手本に必死に国作りを頑張っていますが、お嬢さんが直接あの国を見たら、何をどのように持ち帰ってくるのでしょう。是非渡英を奨めたいところですが、そう簡単な話ではありませんからね。今はこの国で、貴女が女王になるおつもりで、学び、世の中を見ていて欲しいと、ふと思ってしまいました」

 しづは半ば(ほう)けて月草の顔を見つめてしまった。同時に、頬が熱くなるのを感じる。

 今までの会話を知らない者が見れば、年頃の少女が美しい外見の少年に見蕩れているのだと受け取ったろう。確かにこのとき、しづは初めて異性に対してときめきを覚えた。しかしそれは、彼の見た目の良さからではない。しづ自身の知性に対する賛辞をくれた故のことである。

 外国語に夢中になるしづを下町の菓子屋でしかない両親は決して肯定的には見てくれなかったし、しづに興味を持って声をかけてくる男子学生も、最初こそ面白がりはするものの、しづの方が賢いと気付くや掌を返したように冷たくなった。こんなふうに()められたのは初めてだった。しかも女王になるつもりで、なんて大胆な言葉は普通なら出て来ないだろう。

 しづが熱を帯びた頬を冷ますことに躍起になっていると、馬車鉄道の駅が見えてきた。

 月草との別れは惜しいが、これ以上赤い顔を見られる心配がなくなることに安堵する。

「ご案内頂いてありがとうございました。こちらまでで結構です」

 駅を臨む坂の上で月草は足を止め、しづに礼を述べた。

 しづは何とか平常心を取り戻して、月草に向き直る。

「こちらこそ、失礼しました」

「お暇があれば、お店にいらして下さい」

「ええ、是非」

 しづが頷くと、月草は颯爽と去って行った。

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