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擬アポロオン綺譚  作者: 毛野智人
第一章 十四夜の邂逅
4/6

(三)

 蔵通は帳簿を睨み付けていた。

 仕入れた米がどれだけ(さば)けているか、どの米が人気があるか、売れ残った米をどうするのか。紙に記された数字を元に今までとこれからを読んでいくことが店の主人となった蔵通には求められている。お役目は十分理解しているつもりだが、そういったことはどうしても苦手だ。正直なところ、米俵を蔵に運んだり、贔屓の店に米を卸すため荷車を曳いたりする力仕事の方が性に合っている。黙々と身体を動かして労働に従事する方が好きだ。そろそろ、算盤(そろばん)と数字を見比べる苦行に飽きてきた。日暮れはもうすぐだろうか。少し早めに切り上げてしまおうか。

「ごめんください」

 逡巡(しゆんじゆん)していると、店先から声がした。苦行を脱するのに都合のいい口実ができたとばかりに、蔵通は帳場から出て行く。

 店先に立っていた母が「あら!」と驚嘆の声を上げる。見覚えのある顔が二つあった。ミヱはまず、二つのうち愛らしい娘の方を歓迎した。

「しづちゃん。いらっしゃい」

「伯母様、こんにちは」

 娘はミヱに丁寧なお辞儀をした後で、黒い大きな瞳で蔵通の方を見た。

「蔵通兄さん。お久しぶり」

 にこり、と笑って若い娘が蔵通に挨拶する。娘の纏っている清楚かつ快活な雰囲気に、近頃女学生がよく着ている葡萄茶(えびちや)行灯袴(あんどんばかま)がよく似合う。長い髪は束髪にしてリボンを着けている。薄紅色の頬に大きな黒目が愛らしいが、その眼差しは従順な大和撫子と称するには物足りない。どこか西欧人にも劣らぬ意思の強さのようなものを湛えていた。

「久しぶりだな。しづ」

 その娘こそは、見山(みやま)しづ――蔵通の従妹(いとこ)である。

「お米を頂きに来ました」

 言いつつ、しづは抱えていた風呂敷包みをミヱに差し出す。

「あとこれをお裾分けに。お饅頭です」

「まぁ、ありがとう」

 ミヱはしづから包みを受け取ると、たいそう喜んだ様子で、お茶を淹れてくるわね、と言って奥へ下がった。

 しづの家は仙石屋(せんごくや)という菓子屋である。元々は蔵通の母であるミヱの実家であり、今はミヱの弟が店を営んでいる。団子、おはぎ、餅など米を材料とする菓子は多い。故に菓子屋と米屋が親類関係だと色々と融通が利く。蔵通の父と母の縁談も、当初はそうした都合の上にまとまったそうだ。

 蔵通はしづの後ろにいる男に目を向けた。目を向けられた当人はにやりとする。

「それでそちらの怪しげな男をご同伴なのはどういうわけだ?」

 蔵通が訊くと、しづはくすくすと小さな笑いを零す。

「こちらへ来る途中で偶然会ったのよ」

「怪しげな男とは心外だな。可愛い弟が帰ってきたのだからもっと喜んでくれても良いじゃないか」

 男が不服そうに言うので、蔵通はとても嫌そうな顔をしてやった。

「何が可愛い、だ。不肖の弟」

「兄貴の憎まれ口がまた聞けて嬉しいよ」

 蔵通を兄貴と呼んでいるこの男は他でもない蔵通の実の弟、久保田信蔵(しんぞう)である。

「まぁ、仲のよろしいこと」

 しづが笑みを深めると店の奥からミヱが三人を呼ぶ声がした。

「しづ、信蔵。上がれよ」

「でも、良いのかしら。お店は? まだやっているのでしょう?」

「見ての通り客も来ねぇし、今日はもう店仕舞いだよ。俺が片付けておくから、奥に行ってな」

 しづが不安げに肩口から信蔵を仰ぎ見ても、やはり信蔵に笑顔で頷かれてしまったので、遠慮がちに店先から家の中へ上がった。

 久保田家の住居は一階部分の通りに面した方が店になっている。店の奥は居間兼応接間になっており、その奥に座敷と台所がある。二階には蔵通、信蔵兄弟と達吉が寝起きする部屋がある。

 蔵通は暖簾を外して戸を閉めてから、二人の後を追う。

 座敷ではしづが申し訳なさそうにミヱに頭を下げていた。

「伯母様すみません。私、ちょっと買いに来ただけですのにお茶までご馳走になるなんて」

 ミヱはいいのよ、と言いながら湯飲み茶碗に茶を注ぐ。

「もうお店も終わりの時間だったし。うちは夕方近くになったらお客さんは来ないから」

「でも…」

「良いんだよ、しづちゃん。俺の帰還祝いさ。それに、同じ祝って貰うんなら、こんな無愛想な兄貴なんかより可愛い女の子の方がずっと良いんだぜ」

 信蔵の軽口にしづもやっと笑みを取り戻した。

 信蔵は主に久保田米穀店の接客・営業を担っている。口数少なく愛想も良くない蔵通とは違って、信蔵は口も上手いし相手の心情を汲み取る能力も優れている。そのため、米を買い付けに行く先の農家や卸売り先の店との交渉に日々奔走していた。特に、(はら)の内がなかなか読めない大店(おおだな)相手の取引などは、蔵通が出て行くのは肝心要の場面だけで良いように信蔵が子細を調整してくれている。久保田米穀店に欠かせない支えの一つであり、また新米店主である蔵通にとっては信蔵がいてやっと一人前、とも言えるほどの存在だ。

「そういえば信蔵兄さん、今までどちらにいらしたの?」

 しづは首を傾げた。

 彼女は蔵通よりは九つ、信蔵よりは六つ年下なので二人を兄さん、と呼ぶ。

(とむら)いさ」

 信蔵は茶を(すす)る。

「うちが世話になってる仕入れ先の地主が亡くなったんで、葬式に行ってたんだよ」

「遠くまで?」

「いや、そこまで遠くじゃないよ。埼玉だからね」

 東京の店から離れることの出来ない蔵通に代わって、地方の農村へ冠婚葬祭などに出席するのも信蔵の役回りだ。商売において人付き合いは何よりも重要な問題である。繁盛は人が運んでくるのだと、蔵通の父はよく言っていた。人脈づくりのためにどんな努力も惜しんではならない。かといって上手くやらねば結果は出ない。幸い、信蔵はその人当たりの良さから農家からの覚えもめでたい。蔵通に出来ないことをよくやってくれる。

「そういえば、こっちでも一人亡くなったのよ」

 ミヱが話す。

「へぇ、誰が」

「五平さんよ」

「え、五平ってあの爺さん?」

 湯飲みを卓に置いて信蔵はミヱと蔵通の顔を交互に見た。

「けどあの人、まだ死ぬような感じには見えなかったぜ?」

「事故だったのよ」

 ミヱは五平の死に方を説明する。

 信蔵は大きく息を吐いてふうん、と言った。

「そりゃあ災難だったなぁ。うん、でもそれもあの人にはなさそうだが…」

「なんで」

 蔵通は信蔵を(ただ)す。

「俺が知る限り、あの人はかなり慎重な人間だぜ。いくら歳取ってるとは言え、あの人はうっかり足を滑らしちまうような(じじい)じゃないよ。背中もしゃんと伸びて足取りも確かだったし」

「でも実際に五平さんはそうして…亡くなったんでしょう?」

 しづが不思議そうに尋ねる。

「そうよ。それは確かよ。だって五平さんの奥さんが見てるんですもの」

 ミヱは不安そうな面持ちで強く言った。

「…そうか。じゃ、俺の思い過ごしか。誰にだって気を緩めるときがあるってことだね」

 気をつけよう、と言って信蔵は再び茶を啜った。

「ただいま帰りましたぁ」

 庭の方から声がした。達吉(たつきち)だ。日の出ている時間は身内でも店から出入りするが、蔵通が店の戸を閉めてしまったから、通り庭から座敷へと入ってきたのだろう。

「おや、信蔵さん。お帰りなさい」

 達吉は座敷に入ってくるなり信蔵の姿を認め、そう言った。

 信蔵はやあ、と言って手を挙げた。

「お勤めお疲れ様です。お変わりないご様子で」

「おう。お前も元気にしてたかい」

「はい。お陰様で」

「そうか。今日は大学かい」

「はい。試験がありまして」

「そりゃあご苦労さんだね」

「達吉さん、荷物を置いて来なさいな。今お茶を淹れますから」

 ミヱが言うと、達吉は頭に手をやりつつ、すみません、有り難うございます、とぺこぺこ頭を下げながら階段を上がって行った。

 昨日の朝と比べるとやけに丁寧な態度だ。それもその筈か、と思いつつ蔵通は自分の左隣にいる娘を見遣る。どうやら達吉はしづに惚れているらしいのだ。確かにしづは器量好しの部類に入るだろうし年頃も丁度良いから、惚れる男が何人いてもおかしくない。ただ、この娘には多くの女性が持つべきとされる『しおらしさ』というものが少々欠けているように蔵通には感じられた。何というか、恐い物知らずなのだ。自分がやりたいことや知りたいことはとことん追究する。好奇心旺盛といえばまだ可愛げがあるが、幾分(いくぶん)度が過ぎるところがある気がする。でなければこんな男三人母一人の家に混ざって平気な顔をして茶など飲んでいられないだろう。そこを履き違えて外見ばかりに見惚れていると、後々痛い目に遭う。

 階段を下りる音がして達吉がお待たせしました、と居間の自分の位置に座る。

「しづちゃんが持ってきてくれたのよ」

 ミヱが達吉に茶を出しながら饅頭を示した。

「そうでしたか。しづさんも、お元気なご様子で」

「ええ。どうぞ達吉さん召し上がって」

 しづが微笑むと達吉の顔に赤みが増したようだ。

「はい。じゃ、遠慮なく…」

 達吉はいつもの食事の様子からは想像も出来ぬほどそろそろと饅頭に手を伸ばし、上品に囓った。

「美味しいですねぇ」

 一口をじっくり味わいながらそう言った。いつもなら茶碗に山盛りの飯一杯をかき込みながら言う台詞なのだが。

 しづはその様を見てふふふと笑う。

「ありがとうございます。父も喜びますわ」

 しづの言葉に達吉は更に頬を赤らめた。

 蔵通は経験上しづの前で達吉のようになる男を何人か見てきたが、大体がしづの外見に騙される。その後いくらか親しくなってからはしづの要求する難題に閉口することになるのだ。しづは先程述べた通り知的好奇心に満ち溢れた娘である。そのため彼女が口を開けば疑問の嵐、うっかり間違ったことを言おうものなら今度は厳しい訂正の嵐が待っている。そうした状況にうんざりして、またはしづの方が飽きてしまって大部分の男達はしづから離れていくのだ。

 果たしてこの北村達吉にしづの心を惹き付けることが出来るかどうか。

 蔵通が思索に耽っていると湯飲みを置いてしづが腰を上げる。

「それでは伯母様、私はそろそろお(いとま)させて頂きます」

「そうね。もう夕暮れだわ」

 蔵通、とミヱが呼んだ。

「ちょっとあんた、しづちゃんをお家まで送って行きなさいよ」

「あ、ああ」

 蔵通がちらりと達吉を見ると、ぼうっとしづを見つめていた。達吉に役を譲ろうかと思ったが、これでは護衛の役は務められまい。

「お米持って行くのよね」

「はい。一升です」

「蔵通持って行ってあげて」

「ああ」

「ごめんなさい。お手間をおかけしてしまって」

「いいのよ。この朴念仁は他にやることもないんだから」

 くすくすとしづは笑う。

「蔵通兄さんと一緒なら心強いですわ」

 母と小娘の遣り取りに、蔵通は不愉快そうに眉を(ひそ)めた。

「よく言うよ」

 蔵通がしづにしか聞こえないくらいの小声で言うと、しづはにこりと微笑む。

 蔵通が一升分の米の入った袋を持って下駄を突っ掛けると、しづはそれじゃ、と座敷の一同に一礼する。

 蔵通は先に店の外に出ると空を仰いだ。

 西の空は赤く染まって、東からは藍色が迫っている。南の空は二色が混じり合って不思議な滲みを映していた。もうすぐ夜が来る。ふと蔵通は今夜は何かがあることを思い出した。さて、それは何だったろう。

「お待たせ」

 後ろからしづが蔵通を小突く。

「どうしたの。何か考え事?」

「いや…」

「嘘でしょう。蔵通兄さんてあまり話す人ではないけど、考え事をしているときの表情は解るわ」

「そうなのか?」

「ええ。信蔵兄さんもよ。あの人は蔵通兄さんとは違って沢山話す方だからちょっと巫山戯(ふざけ)ているように見えるけど、真面目な顔をすることが度々あるのよね」

 しづは顎に手を当てて考えるふうな仕草をする。

「そうそう、さっきもそうだったわ」

「さっき?」

「五平さんの話題が出たとき。信蔵兄さん、五平さんの死に納得行かないみたいだった」

「ああ、そういえばな」

 しづが話しながら歩き出したので蔵通は慌てて着いて行く。

「まぁ、信蔵兄さんは五平さんのお世話になってたみたいだから無理もないことかしら」

「何だって」

 蔵通は驚いて聞き返した。信蔵が五平の世話になっていたとは、初耳だ。

「あら、ご存じなくて? 信蔵兄さんたら、内緒にしてたのね。私は偶々(たまたま)見かけてしまったから知ってたのだけれど」

「つまり、どういうことだ?」

「もう、察しが悪いわね。つまり、信蔵兄さんが五平さんにお客の相手をする作法を教わっていたということよ。私は何回か五平さんの家から信蔵兄さんが出てくる所を見てるの」

「そうだったのか」

 信蔵は何一つ言わなかった。父が急逝して突然自分が店の仕事の根本を担うことになってから、心配事も不平不満も。それどころか驚くべき手腕を発揮した。元々向いていたから、というだけでは出来るわけのない仕事だ。蔵通の知らぬところで力を尽くしてくれていたのか。

「信蔵兄さんてそういう人よ。隠れて努力する人。とても頑張ってるのに周りにはその頑張りを悟らせない人なの」

「お前、よく見てるな」

 蔵通は片手で顔を覆いながら感心した。実の兄である自分が弟の人となりさえ把握していなかったことに、我ながら呆れてしまう。

 すると少し間が空いて、

「自分の目で見極めたことしか信じられない(たち)なのよ、私」

 と蔵通とは対照的に、自信たっぷりにしづは答えた。

 蔵通が手を退けると空は先程よりも濃い色になっている。

 いくつか星が瞬き始めていた。

 ――ああ、そうか。

 蔵通は思い出す。

「しづ」

「何?」

「今夜は満月だよ」

「そうなの? よくご存じね。蔵通兄さん。月のことなんて、大して興味もなさそうなのに」

「興味はないさ。ただ、教えて貰ったから教えてやるよ」

「何それ」

 意味が解らないわよ、と言ってしづは小さく笑った。

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