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擬アポロオン綺譚  作者: 毛野智人
第一章 十四夜の邂逅
2/6

(一)

 障子から部屋に射し入ってきた光が眩しくて、久保田(くぼた)蔵通(くらみち)は目を覚ました。

つい先程まで自分は夢の中にいた筈なのだが、夢の内容をすっかり忘れてしまっている。夢を見ていた、という事実だけが寝惚けた頭で確認できる唯一のことだった。

「蔵通さん、蔵通さん」

 気付けば誰かがずっと呼んでいたようだ。

 部屋を出た階下から自分の名を呼ぶ声が聞こえる。起きたばかりで大した声も出ないので返事もしないでいると、何度も呼ぶ声が止んで階段を上ってくる足音に変わった。足音は蔵通の部屋の前で止まり、襖が勢いよく開かれる。

 部屋の入り口に立っている人物と目があった。

 相手は蔵通と目があって驚いたのか、目を見開いた。

「なんだ。起きてるんじゃないですか」

 蔵通が緩緩(ゆるゆる)と起き上がる姿を見て、北村(きたむら)達吉(たつきち)は残念そうにした。

 達吉の言葉にとても嫌そうな顔をしながら蔵通は言う。

「今起きたんだよ。達吉、お前部屋に入る前に何で一言ねぇんだ。それまで人の名前散々連呼してただろうに」

「蔵通さんの寝顔が見たかったんですよ」

 達吉の回答に蔵通は怪訝(けげん)そうな顔をした。

「蔵通さんは誰よりも早起きですから、なかなか寝顔なんか見られませんでしょう。だからまぁ、寝てるようなら顔に落書きでもしてやろうかって、女将さんとお話ししてたんですよ。隙のない蔵通さんに悪戯したらさぞ楽しかろうというわけです」

「下らないこと考えてんじゃねぇよ、全く。でないと家から追い出すぞ」

 蔵通が冗談めかしてそう言うと、達吉は「ヒィ、それだけはご勘弁を」と言って大袈裟な身振りをしながら後退した。

 北村達吉は久保田家の下宿人で、大学に通うために上京してきた青年だ。父の遠縁に当たり、親戚筋を頼ってやっと東京での下宿先を見つけたらしい。一応東京帝大に通っているのだが、それらしくない陽気で冗談好きな性格の持ち主である。家の中では真面目な姿をほとんど見せないが学業成績は優秀なようで、将来は教師を目指しているという有望な人材だ。

 蔵通が寝床から出て着物の乱れを整えていると、達吉はにやにやしながら言った。

「だってここのお米は美味いですからね。今更他所様(よそさま)には行けませんよ」

 達吉の言葉に蔵通は笑みを零す。

「じゃあ、お前の好きな飯を食いに行こうじゃないか。朝飯はもう出来てるんだろ?」

「はい。女将さんがお待ちです」


 久保田米穀店。

 東京の根津に店を構える蔵通の実家は、名前の通り米屋を営んでいる。江戸幕府の時代が終わり明治新政府の時代になって、米の流通事情は激変した。幕藩体制が敷かれていた頃は、農民らが税として米を地方の領主に納め、各領地で納められた米は廻り米問屋によって買い集められ、江戸を始めとする都市部で売られていた。しかし明治の世になると、藩が廃され領主がいなくなり、納税も現金で行われるようになった。すると、各農村で耕作された米を集める者がいないので、今まで通りの経路では米が出回らない。蔵通の父は時勢と需要の変化をいち早く察知し、農家から米を買い集める新しい商売を一代で始めた。農家から仕入れた米を都市部へ運び各商店へ売り卸す、所謂(いわゆる)仲買の仕事である。仲買人としての仕事が順調に回るようになると、やがて買い付けた米を自ら売るための店を持った。実際に農家を回って米を見ている経験から選ばれた米の品質は確かなものだったので、仲買だけでなく小売業でも客が増えていった。こうした父の商才のお陰で、久保田家は現在も外に看板を出していられる。

 しかし、久保田家にとってこの上ない偉業を成し遂げた父は一昨年急逝してしまい、ほとんど何の準備もないままに店は長男である蔵通へと引き継がれた。準備がない、とは言っても、蔵通は平生(へいぜい)から父の仕事をよく見てきたし、手伝うことも少なくなかった。蔵通自身もいずれこの店を己が継ぐのだという気ではいたのだ。だからいざ継いでみても、蔵通自身の心境にはそんなに大きな問題はなかった。ただ思っていたよりも時期が早かった、というだけだ。

 久保田蔵通。(よわい)二十五。立派な大人だが、御店(おたな)の主人としてはまだ若い。

 商売の経験はまだまだ浅く、若いというだけで侮られることもしばしばある。そういう扱いが嫌でなるべく隙を見せぬよう振る舞っているつもりなのだが、無事に店をやっていられるのは蔵通のそんな心掛けよりも家族の支えによる所が大きいのだろう。特に母の存在は強い。父の代の客に広く顔が利くのは母なのだ。母なくして、この店を続けられるだけの顧客を維持できる自信は蔵通にはない。愛想が良いわけでもない、話し上手なわけでもない蔵通を親への義理だけで頼りにしてくれる人は少ない。それを補ってくれているのが母なのだ。


「女将さん、蔵通さん起きてました」

 階段を降りてすぐの居間へ入って達吉が報告すると、居間の更に奥の台所から茶碗を乗せた盆を持って女性が現れた。

「まぁ、それは残念でしたね。達吉さん、ご苦労様」

 女性――蔵通の母であるミヱは優しく笑う。

「今日はいつもより随分と遅いから、どうしたのかと思ったわよ」

「すまん。ただの寝坊だ」

 蔵通の答えにミヱはへぇ、と目を見張る。

「寝坊。珍しいこともあるのねぇ。まぁ良いわ。さ、早く冷めないうちに食べましょう」

 ミヱが膝をついて茶碗を食卓に並べる頃には、達吉はもう座卓の自分の位置に座って朝飯が始まるのを待っていた。本当にちゃっかりした奴だ。最後にミヱの分の茶碗が置かれ、いただきます、と全員揃って言い終えた途端に達吉はすごい勢いで箸を取り、茶碗に盛られた飯を頬張り始めた。

 達吉の食べっぷりを見て、ミヱは楽しそうに微笑む。

「いやあ、今日も美味いです。女将さん」

「そう言ってもらえると作り甲斐があるわ。蔵通なんか黙って食べてるだけだから」

 ふふふ、とミヱは笑う。

 蔵通も毎回の食事を美味いと思ってはいるが、食べて味わうことに集中しているため何かを話す、という作業を食事に入れ込めないのだ。しかし本音を言うと、母の作る食事は基本的に何でも美味いから改めて感想を述べる気にならない、というのが正直なところかもしれない。

 久保田家の食事は米は勿論美味いが、料理も美味いのだ。父などはよく、ミヱが料理上手だから一緒になったのだ、などと冗談で言うことがあったが、半分くらいは本当だろう。男はどうも美味い飯のある家に寄りつくらしい。今、蔵通の目の前で飯を美味そうに食っている北村達吉が良い例だろう。

 達吉の食べ姿に半ば呆れながら感心していると、ミヱが矢庭に話しかけてきた。

「食事中にこんな話も何なんだけどね、蔵通。五平(ごへい)さん知ってるでしょう?」

「ああ。親父と昔一緒に買子(かいこ)をやってた?」

「そう。その五平さんがね、亡くなったそうなのよ」

「…へぇ、あの人が?」

 五平という人は、蔵通の父が仲買人の仕事を始めた頃に仕事のいろはを教えてくれた、いわば師匠のような存在である。父が自分の店を持ってからも、米の目利きや新しい買い付け先、相場の動きなどについて意見を伺っていた。大概においてその読みは正しく、五平のお陰で久保田米穀店は数々の経営難を乗り越えてきた。久保田家にとっては命の恩人にも等しい存在である。蔵通の記憶では、父の葬儀の際に挨拶をしたのが最後であった。

「まだまだ元気そうに見えたけどなぁ」

「私もそう思ったのよ。それがね、不慮の事故だったみたいなの」

「事故?」

「うん。五平さんね、朝起きて、鉢植えに水をやりに庭に出ようとして、足を滑らせちゃったんですって。で、転んだ拍子に頭を縁側に打ちつけたらしくて、それで」

「亡くなったのか」

 ミヱは頷く。

「可哀想よね。で、今夜お通夜があるから一緒に行って欲しいのよ」

「良いよ。信蔵(しんぞう)もいねぇしな」

「有り難うね。五平さんにはご恩があるから、私だけ行ったんじゃ申し訳ないもの」

 それにしても不運な死に方だ。偶然が重なって起きた事故としか考えられない。本人にとっても、家族にとっても、予期せぬことだったろう。病で死ぬのならある程度の覚悟が出来たかもしれない。否、死ぬときは誰にも解らないのだから、ただ己の心持ちの問題というだけか。

「女将さん、おかわりよろしいですか」

「あ、はいはい。勿論ですよ」

 重くなった空気を破る達吉の声に喜んで答え、ミヱは茶碗を受け取り(ひつ)から飯をよそう。

 その姿を見遣り、蔵通は目の前の下宿人へ視線を移した。

「お前、相変わらずよく食うね」

「女将さんのためですよ」

 言って達吉は満面の笑みを浮かべた。

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