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 私は俯いてシャツの(ボタン)を外しにかかる。

 白い木綿のシャツだ。着慣れている衣服だ。

 しかし、これを着ることはもう暫くはないだろう。

 もしかしたら、二度とないかもしれないのだ。

「怖いか」

 向かいの椅子に腰掛けた先生が訊く。

 私はただ自分の指先に目を落としたまま、いいえと言った。

「お前は実に優秀だよ。我が儘も言わず、ただ私に従順だ」

 当たり前だ。私は貴方の物だ。貴方が私を買ったから、私は既に常人のありふれた人生を辞めたのだ。恨んではいない。むしろ感謝している。

「だが本心は見せてはくれんな」

 本心とは何だ。私は貴方に命じられた以外のことは考えてもいない。今だって。

「普通なら、怖くて当たり前なのだよ。喜んで私の実験に協力しようとするのは気違いくらいのものだ」

 では貴方は私が怖がっていると言うのか。貴方に逆らえない私が、貴方の妨げになるような感情を抱いていると言うのか。

「私は人間としてのお前を買ったのだ。人形になる必要はない」

 人形。そんなに私は人間らしくないのか。そうかもしれない。余計なことは考えないように生きてきた。そのうちに感情も希薄になってしまった。怖れることも忘れてしまう程に。

「死ぬ危険もあるのだよ。怖くない筈はない」

 そんなことは承知している。けれど、死んだって、悲しむ人もいない。それに私はもう既に一度死んでいる。死んだ人間が死んだって誰にも解らない。私など生きていても死んでいるのと変わらない。死ぬことは別段怖いことでもない。

「先生は怖いのですか」

 私が訊くと先生は少し驚いたようだった。

 驚きのために開いた口が私をあやすように答える。

「怖いよ。お前を失うのは怖い」

「優秀な実験体だからですか」

 少し間をおいて、先生はそうだねと言った。

「今はそういうことにしておこう」

 釦を外し終わると私はシャツを肩から落とした。さすがに肌寒いが、すぐに下も脱ぎ始める。

「先生は必ず実験を成功させて下さいますから、怖くはありません」

 そうだ。貴方は必ず成功させる。だから私は怖れない。貴方は私を死の直中(ただなか)から救ってくれたのだから、私を死なせはしない。

「それは、随分と私を買い被ってはいないかね」

 先生は嬉しそうに言った。

「良いのです。そういう理由でも付けなければ、先生は納得なさらないから」

 私がすっかり衣服を脱いでしまうと、先生は椅子を立ってこちらへ歩み寄る。

 先生に促されて私は部屋の奥へと進んだ。そこには大きな直方体の容れ物がある。

 ――鉄で各面を囲われた棺。

 私は棺を跨いで中に収まる。中には何も敷いていない。真っ平らな鉄が冷たく私の肌に触れるだけだ。姿勢を直してきちんと棺の中に横たわると、先生の顔が真正面にあった。けれど逆光が差して顔はよく見えない。

「お前の時間を止めるよ」

 私は黙って頷く。

「十年経ったら必ず迎えに来る。それまで少し眠っていなさい」

「先生」

「何だ」

「今日はいつですか」

「明治二十年九月十九日」

「ありがとうございます」

 私は目を閉じた。先生が私に麻酔を打ったのだろう、右腕に痛みを感じた。

「おやすみ」

 額に口付けの感触があった後、私は徐々に暗闇に支配される。

 待っている。この闇の中にいれば、時間なんて存在しない。何年だって待っていられる。貴方がまた私を救い出してくれるまで、ただじっと待っていよう。

 鉄の板が擦れる甲高い音がして、私の中から完全に光が消えた。

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