ミーシャのまわり道
最近、都会ではお隣さんの顔も知らないってのが普通だそうですね。お隣さんとのご縁をもっと大切にしたら、いろいろ変わるものがあるんじゃないかな、そんなことを考えながら書いたらこんな作品になりました。お読みになりましたらぜひ感想いただけると嬉しいです。厳しいご意見もお待ちしております。
Dear タクちゃん
いよいよ来月だね!
わたしとタクちゃんと、それからミーシャとの三人での生活がはじまるのかと思うと、今からワクワクします。早くタクちゃんに会いたい!
そうそう、それからミーシャがね、飛行機はどうしても苦手だっていうの。でもわたしは逆に船、酔っちゃうから苦手だし、帰りミーシャと別々になっちゃうのはツライけど、仕方ないよね。
だからさ、ミーシャをね、先に船便でそっちに送ることにするね。ちゃんと受けとってね。くれぐれもぞんざいに扱わないでね。そこらにほっぽって埃かぶらしたり、逆さに置いたり足蹴にしたり、そんなことしたら後でミーシャに聞いたらちゃんとわかるんだからね。
それからミーシャはけむいのは嫌いだから、タバコとか、お香とか、七輪でサンマ焼くとか、煙が出ることは控えてね。
とにかくタクちゃんと再会するのが楽しみ!
Loves まぁ子
ほとんどミーシャのことばかりで、俺のことは申し訳程度に最初と最後だけ名前が出てくるそのメールを読み返しながら、俺はタバコに火をつけた。もうタバコもいよいよやめないといけないから、少しづつ本数を減らしていかないと後が大変なのだが、つい一本、また一本と、手が伸びてしまう。
アメリカのミルウォーキーに語学留学している恋人の摩子が、明日ついに日本に帰ってくるのだ。
彼女は大学4年生、早々と就職先も決まり、最後の学生生活の数ヶ月を海外で暮らしたいと、半年の短期留学に出発したのが去年の9月。俺もできれば一緒に行きたかったが、社会人で何ヶ月もの休みをとるのは難しかった。
摩子が日本に帰ってくると同時に、このアパートの一室で同棲することになっている。摩子の就職先と俺のアパートが近いから、というのが第一の理由だが、俺たちも付き合ってそろそろ3年になるし、お互い社会人になってこのままいけば結婚、というのも視野に入ってくる頃合だから、タイミングとしては妥当な成り行きなのかもしれない。
それにしても鬱陶しいのがミーシャの存在だ。
ミーシャとは、摩子が子供の頃から大切にしているアオムシのぬいぐるみである。なんでも可愛がってくれたおばあちゃんからのプレゼントなのだそうだが、子供の頃から所持していた数あるぬいぐるみの中で、とにかく一番気が合って、仲良くしてきたのだという。今ではもう肉親同様の付き合いで、ミーシャのいない人生は考えられないのだそうだ。
まったく、わけがわからない。
何よりも、ぬいぐるみと気が合う、って感覚が俺にはわからない。そりゃ俺だって高校の修学旅行で見つけたカッコいい虎の置物や、学生時代からのバンド活動で初めて買ったギターなど、大切にしているものはあるが、それらはあくまでもモノとして大切なのであって、その声が聴こえるとか、語りかけるとか、そんなのしたことない。それではまるで、古くなった人形に魂が宿るみたいなホラーの世界と紙一重ではないか。
前に一度、摩子にその疑問をそのままぶつけてみたことがあるのだが、「なに言ってんの! ミーシャは生きてるのよ! 家族なの! 友達なの! 兄弟なの! 子供なの! イッツ・アライブなの!」とうるさいので、今ではもう彼女の前では気にしないで流すようにしている。
二本目のタバコに火をつけたところでスマートフォンの通信アプリのコールが鳴った。噂をすれば。
「タクちゃん? あたし」
「摩子ちゃん。ちょうど今、きみのことを考えてたところだよ」
「本当? 嬉しい。どんなこと?」
「えっと……早くきみに会いたいな、って」
「あたしもタクちゃんに早く会いたい! それでね、ミーシャはもうそっち着いてる?」
早速ミーシャの話題かよ。
「まだ。そろそろ届く頃じゃない」
「届く?」
「あ……いや……着く頃かな?」
「届くってなによ! ミーシャを荷物みたいに言わないで!」
「わかったわかった」
「それにしてもミーシャ、どこで道草食ってるのかな?」
「ゆっくり船旅を楽しんでるんじゃない?」
「そんなことないよ。インターネットの追跡サービスでもう『到着』ってなってるもん」
「だったら不在票が入ってるよ。そういえば昨日、会社から帰って郵便受けチェックしなかったっけ」
「いますぐ見てきて! 早く!」
いきなり大声でわめき散らす摩子。
「わ、わかったよ」
いったん通信アプリを切り、俺はサンダルをつっかけて外に出た。ミーシャのことになるといつもこれだ。
アパートの集合ポストの前までくると、ふと昨晩のことを思い出した。そうだ、会社から帰ると、このポストの前にカラフルなダンボール箱が幾重にも積み重なっていて、ポストが隠れていたから中が見れなかったのだ。あのダンボール箱はなんだったんだろう。そういえば、アパートの前に宅急便のトラックが止まっていたから、誰かが通販で大量に買い物でもしたのかもしれない。
まあしかし、誰が何を買おうと、散財しようと、俺には関係のないことだ。このアパートの住人で特に近所づきあいがある人はいないし、ここに住んでそろそろ5年になるが、今だに隣に誰が住んでいるのかも知らないくらいだ。
俺は郵便受けを開いて、中を見た。数枚のチラシが入っているだけで、不在票らしきものは見当たらない。
部屋に戻ると、畳の上でスマートフォンが鳴っていた。摩子からだ。
「もしもし、タクちゃん。不在票あった?」
「なかったよ」
「なかった!?」
「うん」
「どういうこと、それ!?」
「どういうことも何も」
「だって追跡サービスでは到着してることになってんだよ?」
「きっと不在票を入れ忘れたんだよ」
「じゃあ今すぐ郵便局に迎えに行ってきて! 早く!」
俺は慌てて通信を切り、ズボンとシャツを着ると、郵便局へと走った。
摩子はいい子だ。料理はうまいし、いつもいい匂いがするし、センスもよくて、ミーシャのこと以外は特にワガママを言うわけでもない。ミーシャのことだって、慣れればあれはあれでペットを飼っているのだと思えば餌代もいらないし、糞尿で部屋を臭くするわけでもないから、言葉と扱いだけに気をつけていれば、普段は空気のようなものだ。
気にくわないのは摩子は俺よりミーシャの方が大事なんじゃないかと思えるような場面がままあることである。ミーシャを連れてうちに泊まりにきたときも、俺と話すよりミーシャに語りかけている時間の方が明らかに長かったし、朝起きれば俺より先にミーシャに「おはよう」と声をかける。生きてる家族と同じだからと言って、やはり所詮はぬいぐるみなのだから、本当の人間の方が優先されてしかるべきなのではなかろうか。
……なんてこと、口が裂けても彼女の前では言えないが。
それに、アオムシというところも引っかかる。俺は昔からアオムシが大嫌いなのだ。前方数メートル先の道端をにょろりにょろりと這っているのを目にしただけで、踵を返して逃げ出すくらい嫌いだ。もちろんミーシャはぬいぐるみだし、頭の部分は可愛い顔がついてるから、気持ち悪くはないが、初めて見たときはさすがに、よりによってなんでアオムシなんだと思った。
そんなこんなで、郵便局の本局にたどり着いた。
受付でアメリカの「多賀野摩子」から、俺の名前「右本拓也」宛の荷物は届いていないかと尋ねると、意外にも「そんな荷物はありません」との返答。それはおかしい。
俺はスマートフォンのブラウザでインターネットの追跡サービスの画面を見せ、ほら、ここに「到着」って書いてあるでしょ、と食い下がると、受付のオジサンは追跡番号をパソコンに入力し、調べてくれた。
「この追跡番号の荷物は昨日の午後3時くらいに、受取人の方に直接お渡ししたはずです」
「バカな。その時間、俺はまだ会社にいましたよ」
「では、あなたの住所を教えてくださいますか」
「本町6丁目の9番地、グラインドハイツの302号室です」
受付のオジサンはパソコンを見ながら、あちゃあ、とおでこを指でかいた。
「届け先の住所は303号室になってますね」
「えっ」
「郵便物の送り先の住所に誤りがあって、間違えて配達されちゃったんですね」
「だ、だって、住所が間違ってても、名前が別人だったら届かないはずじゃ……」
「303号室の方は……佐々木さんかあ……名前が似てたから気がつかなかったのかもしませんね」
「似てたって」
俺の名前は「右本」だ。どこが似ているのだ。
「ほら、右と左でしょ。あと本と木」
「どういう間違え方してんですか! 右本と佐々木って、文字数だって違うでしょう」
「そこは目をつぶったんじゃないですかねえ」
「目をつぶらないでくださいよ!」
世の中、アホばっかりか。だいたい、疑問を持たずに受け取ってしまう隣人も隣人だ。
「まあいいです、じゃ、お隣さんに届いてるんですね」
俺は郵便局を飛び出し、元来た道を駆け足で戻っていった。
ミーシャが手違いで一時的にでも他人の手に渡っていたなんて、摩子が知ったら面倒だ。
「見知らぬ人の家でひと晩、過ごしたなんて、ミーシャがかわいそう!」
とかなんとか言って、面倒臭いことになるに違いない。このことは黙っておこう。
走っている最中、スマートフォンの通信アプリのコールが鳴った。また摩子からだ。
「もしもし」
「タクちゃん? ミーシャと会えた?」
「うん。今、ミーシャと一緒に帰るところだよ」
彼女の心の平安を第一に考え、俺はささやかな嘘をついた。
「よかった。あたしが帰るまで仲良くしててね。じゃ、あたしそろそろ寝るから」
今は昼前だが、14時間の時差があるので、摩子のいるミルウォーキーは深夜なのだ。
「うん。じゃあ、明日」
俺は通信を切り、アパートへの帰り道を急いだ。
隣人の呼び鈴を何度も鳴らしたが、一向に応答がない。
留守なのか?
ドアをドンドンと叩いてみた。
「佐々木さん、佐々木さーん!」
ダメだ。留守のようだ。困った。早くミーシャを取り戻さないとまずいぞ。
イチかバチか、ドアの取っ手を握り、まわしてみた。
あっけなく取っ手はまわり、ドアは開いた。
「失礼しまーす、佐々木さーん……」
ドアの向こうには、果たして、何もなかった。
床と、壁と、天井と、ガランとした空間があるだけ。
何もない。
「な……な……な……な……」
スマートフォンの通信ソフトが鳴った。摩子からである。
「も……もしもし」
「タクちゃん? 何度もごめんね。羽田に着いたらさ、ミーシャと3人で食事しようよ。ちゃんとミーシャ連れてきてね」
「うん。わかった」
冷や汗が大粒の雫となって背中を流れはじめる。冷や汗って、こんな流れ方するものだったっけ。
「あとさ」
「うん」
スマートフォンを持つ手が震えてきた。
「寝る前に、ひさしぶりにミーシャの声が聞きたいな。ちょっとミーシャに代わって」
「うん。ちょっと待って」
俺は鉛のように重くなった両足をなんとか交互に動かし自室に戻ると、部屋をぐるりと見渡した。ふと虎の置物が目に入り、近づいてゆく。
「今、ミーシャに代わるね」
「うん」
スマートフォンを虎の置物に近づけた。
かすかに摩子のミーシャと会話をしているつもりの、悦びにはずんだ声が聞こえてくる。
しばらくして、大きな声で「タクちゃん、タクちゃん!」と声があがったので、スマートフォンを虎の置物から離し、自分の耳にあてた。
「もしもし」
「タクちゃん? ねえ、ミーシャがヘンなの」
「あれ。そう?」
心臓がバクバクと、激しく鼓動を打っている。
「ミーシャがね、いつもと声が違うの。それでね、なんでそんな声なの? って聞いたら、ちょっと長旅で疲れちゃって、って言うの。心配。なるべく静かなところで休ませてあげて。お願いね」
「うん」
だんだん意識が遠くなってきて、摩子の声が遠くに聞こえる。
「じゃあね。愛してるわ、タクちゃん」
「うん。おやすみ」
通信が切れると同時に、俺はその場にぶっ倒れ、ぜいぜいと激しく呼吸した。ずっと息が止まっていたことに気づかなかったようだ。
落ち着くと、涙があふれてきて、思わず虎の置物にすがりついた。
「お……お前! うまくミーシャのふりしてくれたのか!」
涙が止まらなかった。なんだか、置物やぬいぐるみに魂が宿っているのも、本当に思えてきた。実際、俺は今こうして初めて虎の置物に話しかけている。
とにかくこうしちゃいられない。早くお隣さんを探して、ミーシャを取り戻さなければ。
昨日のあのダンボールの山は、お隣さんが引っ越しをしている最中だったのだ。きっと引っ越しのドタバタで荷物を受け取ったから、名前もよく確認しないで受け取ってしまったのだろう。ひょっとしたらあのダンボールの山のどれかにミーシャが入っていたのかもしれない。
くそう、こんなことならもっとご近所づきあいをしておくんだった。
お隣さんだったというのに、俺は佐々木さんの顔も知らない。下の名前も知らない。男だったのか、女だったのか、いくつくらいの人なのか、どんな仕事をしていたのか、何ひとつ知らないのだ。
とりあえず俺はアパートの管理人に電話をしてみた。
「佐々木さんの引っ越し先? 知らないねえ。あの人、家賃を半年くらい溜めてたからね。落ち着いたらきっと払います、って言ってたけど、ちゃんと連絡くれるかなあ。ほとんど夜逃げ同然だったもんね。携帯も、もうつながらないし。まあ、こちらとしては、出てってくれただけで御の字だから、清々してるよ。あ、でも一応、もし佐々木さんと会ったら、家賃ちゃんと遅れても振り込むよう言っといてよ」
そう言って不動産屋は電話を切った。佐々木さんのフルネームや実家の住所などは個人情報の守秘義務があるからとかなんとかで、教えてくれなかった。「言っといてよ」とか頼むんなら、手がかりくらい協力してくれたってよさそうなもんだ。
とにかく状況は最悪である。
しかし俺は諦めるわけにはいかない。何が何でも明日までにこの手にミーシャを取り戻さないといけないのだ。摩子が帰国してきて、もしミーシャが行方不明だなんてことが知られたら、大変なことである。摩子は半狂乱、俺はミーシャを見つけるまで会社にも行けず、最悪クビになって失業、摩子の俺に対する不信感は拭えることもなく、ふたりの未来は底なしの泥沼へと沈み去るに違いない。
俺は部屋を飛び出すと、佐々木さんの向こう隣の304号室のドアをノックした。「はい」とアニメ声で返事が聞こえ、チェーンをつけたままドアが開き、隙間から若い女の子が顔を出した。
「なんでしょう?」
「あ、あのう、302号室の右本と申します。昨日まで隣の303号室に住んでいた佐々木さんのことなんですけど」
「はあ……」
女の子は怪訝な顔で部屋着の胸のあたりを正している。いきなりむさ苦しい見知らぬ男の訪問に、明らかに警戒しているようだ。
「ちょっとワケあって、連絡がとりたいんです。何かこう、ご近所づきあいとかありませんでしたでしょうか?」
「いいえ、ありません。すいません」
と言うなり、さっさとドアを閉めようとするので、慌てて手を差し込んで止めた。
「あっ! すいません! あの……」
「まだ何か?」
うわあ。ものすごく迷惑そうな顔だ。
「何かヒントになることだけでもいいんです。どんな容姿だったとか、どんな仕事をしていたとか……」
女の子は睨むような視線で俺をじっと見つめている。何だか泣きそうになってきた。女って怖い生き物だな。
「あのう……俺……隣に住んでたのに、佐々木さんを一度も見たことないんです……あの、佐々木さんを見たことありませんか?」
「そりゃまあ、たまに」
「ど、どんな人でしたか!?」
「普通の人ですよ」
「いや……あの……も、もうちょっと具体的に……」
女の子は面倒くさそうにしばらく考え、
「年は……そう……40歳前後ってとこ?」
「男性ですか?」
「そうですよ」
そんなことも知らないのか、という顔。これでようやく俺が本当に何も知らず、切羽詰まっているのだと理解してもらえたようで、女の子は少しだけ自分からしゃべってくれた。
「あと……そうですね、いつも仕事行くときは大きな黒いカバンを持ってましたよ。こんな感じの……」
と言って彼女は両手を広げたようだが、チェーン越しのドアの狭い隙間からだとわかりづらい。必死に顔を隙間に近づけて覗き込むと、どうやら女の子が両手いっぱいに抱え込めるくらいの大きさに見えた。女の子は気味悪そうに、顔を遠ざける。
「佐々木さんの仕事先とかわかりますか?」
「いいえ。話したことないし。もういいですか?」
そう言って、今度はタイミングよくピシャリとドアを閉められてしまった。
「あ……」
なんだかショックだった。どうして都会の人たちはこうも冷たいのだろう。ご近所さんじゃないか、困ったときは助け合おうよ。などと思っても、俺だって隣人だった佐々木さんのことを何も知らずにこれまで生きてきたのだ。人のこと言えるわけがない。
不意に俺の瞳から、涙がボロボロと溢れてきた。
泣きながら、佐々木さんのいた303号室までやってきて、ドアを開けて中に入った。
部屋の中央に跪き、部屋をぐるりと見渡してみる。佐々木さんは昨日までここに住んでいたのだ。
もっと仲良くしたかったな、佐々木さん。もし生まれ変わって、またお隣さんになったら、今度はちゃんとお隣さんらしくしましょうね。醤油が切れちゃったときは借りにきてください。お中元の梨、もらいすぎたらお裾分けします。ああ、佐々木さん。近かったけど今は遠い存在、佐々木さん……。
「くそっ、今からでも遅くはない! 俺は絶対にあなたを見つけてみせる! 待っててください、佐々木さん!」
俺は無理やり気持ちを奮い立たせ、部屋を飛び出していった。
そして虚しく24時間が過ぎた。
あの後、片っ端からうちのアパートのドアをノックし、303号室に住んでいた佐々木さんの手がかりを訪ねて回った。引っ越し先を知らされるほど親しいご近所づきあいはなくても、せめて仕事先がわかれば連絡が取れるだろう。
しかし、努力はことごとく徒労に終わった。
「303号室の佐々木さん? 知りません」
という人がもうほとんどで、わずかに話したことがある、という人も
「彼は無職でしょう。ほとんど家にこもってたじゃない」
「なんか整備工場で働いてるって言ってたような」
「夜逃げ? お医者さんだって聞いたから金回りいいんだと思ってた」
などなど、人によって証言がバラバラで、手掛かりにもなりやしない。近隣住人への無関心もここまでいい加減だと、無関心をぐるっとひと回りして支離滅裂の域だ。
こうして為す術もなく時間は過ぎ去り、そして今、俺は羽田国際空港の到着ロビーに座っている。
窓から外を眺めると、摩子が乗っているはずの飛行機が空の向こうから飛んできて、滑走路を滑り降りてくる。今から数十分後、ゲートから摩子が姿を現し、俺の手にミーシャがいないのを目にした瞬間の落胆の表情が、俺たちの破局ロードへの第一歩だ。
到着のアナウンスがロビーに響き渡った。もうすぐだ。
俺はがっくり肩を落とし、タバコに火をつけた。もう禁煙なんてする必要もなくなった。今はいっそ肺が黒こげになるまで吸い続けたい。
と、その時
「もしかして右本さん……ですか?」
と声がして、顔を上げると、そこにTシャツを着た人のよさそうなおじさんが立っていた。
「やっぱり右本さんだ。わたくし、佐々木と申します」
「……は?」
「一昨日までお隣に住んでいた者です。あのう、これ……」
と言って佐々木と名乗るそのおじさんは、持っていた紙袋から見慣れた緑色の胴体と赤い顔の繊維のかたまりを取り上げ、俺に差し出した。
「み……ミーシャ!!」
俺は思わずミーシャを受け取るなり、ひしっと抱きかかえた。夢を見てるんじゃなかろうか。
「よかった、間に合って」
と佐々木さんは恥ずかしそうにまだ息を切らしている。「多賀野摩子さんからの郵便だったもんで、つい受取人の名前も確認せずに受け取ってしまって。で、中に手紙が同封されていて、読んでいたら、どうも話しが通じない。それでやっと、これはひょっとして僕宛の郵便じゃないのかな、と気がついて、受取人の名前を見たら、昨日までお隣だった右本さんじゃないですか。いやあ、びっくりしました」
「はあ」
何を言っているのかよくわからなかった。佐々木さんは俺のポカンとした表情に気づいて「あっ」と頭をかき
「申し遅れました。僕、こういう仕事をやってます」
と名刺を差し出した。
“ぬいぐるみの病院 佐々木工房”
とそこには印刷されていた。佐々木さんは続ける。
「具合が悪くなったり、ケガをしたり、ひどく汚れてしまったり、そういったぬいぐるみたちを預かって、元どおりに戻してあげる、それが僕の仕事です。たまに出張もやっています」
「ようするに……佐々木さんはぬいぐるみの修理屋さん……というわけですか?」
「僕は“病院”と呼んでます。お客様にとっても皆さん、ぬいぐるみを大切にされている方ばかりですから、その呼び方のほうが自然に感じていただけるんです。でもね、最近はぬいぐるみが古くなったら捨てて新しいものを……って方が増えてるみたいで、お客さんがずいぶん減りましてね。おかげでここ数年、収入が減って、家賃も払えず、ついにアパートを追い出されてしまいましたよ。携帯も止まってしまって、今は友人の家にお世話になっています」
「なるほど……」
摩子のような子は珍しくなっているのかもしれない。そこで俺はハッと先ほどの佐々木さんの言葉を思い出した。「それで……佐々木さんは、摩子……いえ、多賀野摩子とお知り合いで?」
「お会いしたことはありませんけどね」
佐々木さんは摩子の名前を聞いて、嬉しそうに笑顔を戻した。「ミーシャちゃんがどんな小さなケガをしたときでも、うちに入院されてました。例え何もなくても、年に一度は療養……あなたの言葉で言うメンテナンスに送ってこられました。まあ、ちょっとした汚れを取ったり、ヨレヨレになった部分の綿を入れ替えたりするんですけども」
「ははあ」
摩子が郵送先の部屋番号を間違えたワケがこれでわかった。
「手紙に今日のフライトと到着時刻が乗っていたんで、慌ててお持ちしたんです。文面ではずいぶんミーシャちゃんと再会するのが楽しみのご様子でしたんで、すぐに会えなかったらさぞ落胆されるだろうと思いまして」
そう言って、佐々木さんは摩子からの手紙を差し出した。
「それにしても、よく俺がわかりましたね」
「何度かアパートの前でお見かけしたことがありましたんで」
「そうでしたか……」
こうして対面しても、やっぱり俺は佐々木さんの容姿を覚えていない。つくづく、俺は近隣住民に無関心だったのだな。
「本当にすいませんでした」
と佐々木さんは頭を下げる。「僕が間違えて郵便を受け取らなければこんなことには……」
「いいえ、とんでもないです。本当に助かりました」
俺は心から佐々木さんに頭を下げた。
「では、僕はこれで……」
と佐々木さんはニッコリ笑って会釈をし、去ろうとする。
「あ! 佐々木さん、もうすぐ彼女が出て来ますから、ぜひご挨拶させてください」
「そうですか。じゃあ……」
「これも何かのご縁ですから、よろしければこれからもお付き合い、お願いいたします」
「こちらこそ。それにしてもお隣どうしって、これまでもけっこうなご縁だったと思うんですけどね」
「おっしゃる通りで……」
俺は恥ずかしくなって、ちょっと顔を伏せた。佐々木さんは笑っている。そんな佐々木さんを見て、俺もつられて笑った。
「あ、出てきました」
ゲートから、大きなキャリーバックを引きずった摩子が出てくるのが見えた。
摩子は俺たちを見つけるなり、いきなり目を輝かせて走り出す。
きっとその目は、ミーシャ一点に注がれているのだろう。でもいいのだ。今ではそんな摩子が愛おしい。
「ミーシャ、これからもよろしくな」
俺は胸に抱きかかえていたミーシャに思わずそうささやいていた。
(了)