第三章『重なる手②』
プルーデンス王太子の私室で。
フェルディナンとサキソライトは、2人仲良く机を並べて、テキストを開いた。
当然というか、意外というか、彼女は驚くほど頭が良かった。
側近たちが雇った家庭教師たちなど、お呼びでないほどにたくさんの知識を持ち合わせている。
さすが皇帝の妹だけあって、政治や軍事についても詳しく、フェルディナンなどはまったく歯が立たないほどだ。
にも拘わらず、思いのほか勉強が進まい現状に、フェルディナンはいらいらした様子でペンを投げ出した。
「ファング!」
馴れ馴れしく名前を呼ばれ、監視役のファングは八つ当たりを覚悟して顔を上げた。
「なんですか。王太子殿下」
「なんですか、じゃねーよ! ここ数日アランが部屋から出てこないんだけど。お前、なにか知っているか?」
「あー、」
とたんに、ファングの声が細くなった。
もともとフェルディナンの勉強の補佐役は、アランの仕事だった。
ところが今は、その役目がサキソライトに取って代わり、てっきりアランが拗ねてしまったのだとフェルディナンは考えているらしい。
しかし、ファングは即座に首を振った。
「オレのせいかもしれません。最近、どうやら避けられているようで」
「そうなのか? いったい何やらかしたんだ。お前らしくない」
「話をしようにも逃げられているのですから、どうしようもありません」
「ふん?」
眉をひそめるフェルディナンをよそに、ファングはふと視線をそらした。
アランがジェスターに撃たれたことを、隠していて正解だ。
もし知られてしまえば、大騒ぎするのは必至。
そうなれば、国王やジェスターに詰問されて、苦しい思いをするのはこちらの方だ。
だいたい、アランは息を吹き返して以来、ずっと部屋でふせっている。
といっても病気でもなんでもない。
ただ現実に思考がついていかないのか、引きこもっているという言い方が正しい。
ほぼ面会拒絶で、ルフトが食事を持っていくときだけ顔を見せるという有様だ。
ファングは、無意識にふぅ、と息をついた。
「…ケンカか? 珍しいな。とにかく早く仲直りしろよ」
「そちらはうまくいっているようですね」
嫌味を含んだ物言いで、ファングはちらりと2人を一瞥した。
「政略結婚なんか!などとおっしゃってた割には、ずいぶんと仲むつまじいようで、アランも安心していましたよ」
「オレたちのことなんてどうでもいい」
「はは。余計なお世話でしたね」
年上のファングが兄貴風を吹かせてくくっと笑うと、ついに勉強を諦めたフェルディナンが、積みあがったテキストを机の脇に追いやった。
やれやれ、と苦笑したサキソライトが、呆れたように立ち上がり、お茶の用意を始めている。
その様子を見ながら、フェルディナンは机の上に両腕を投げ出した。
「…風配師は今、ファミリアについて調べているんだろう? もしかしてアランは、なにか悪い報告を受けたんじゃないのか。ジェスターとの関係について不愉快な話を聞かされたんじゃないだろうか。…そういえばアランのやつ、先日も少し態度がおかしかったし…」
「プルーデンス殿下」
「!」
ふいに厳しい口調になったファングに、なにを言われるかとフェルディナンが身構えた。
「なんだよ」
「ジェスターについては、私に任せてもらえませんか。あの男は国王の腹心です。下手につつけば、あなたにまで被害が及びかねません。ヴァン王太子亡き今、このバフィト王国の存亡はあなたの両肩にかかっているのですよ。あまり深入りしない方がよろしいかと」
「なんだよそれ。もしアランが悩んでいるなら、助けてやりたいと思うのは当然だろう?! あいつのことだから、どうせオレには心配かけなくないとか言って、すべてを隠して我慢してしまうのだから」
「国王暗殺に関しては、そうでしょうね。…おっと、」
直後、ファングは口が過ぎたとばかりに、人差し指を唇にあてた。
「失礼しました。城内でする話ではありませんでしたね。…ともかくアランについては、私が何とかします。どうせまたつまらないことで頭を抱えているのでしょうから」
その時だった。
別室でお茶の用意をしていたはずのサキソライトが、いつの間にかドアの前に立って、2人の会話に聞き耳を立てていた。
「…今、なんて言ったの? …ヴァンが死んだなんて、初耳だわ!」
フェルディナンとファングは、まずい、というように顔を見合わせ、大きく首を振った。
「死んだとは言っていない」
「言ったわ、今!」
「聞き間違いだ」
「うそよ!」
サキソライトは突然ドレスの懐から小型のナイフを取り出すと、それを瞬時にフェルディナンの首につき立てた。
ぎょっとしたファングが慌てて胸元からピストルを出そうとすると、
「動かないで!」
彼女は、厳しい口調で、護衛士の動きを制した。
「あなた達は、私をリトシュタインのスパイだと思っているのね?」
「別にねそうは言っていないけど」
「でも信用していないでしょ」
「…、」
言いよどんでしまったフェルディナンに落胆し、サキソライトは、小さく息をついた。
「私は、この王宮に入った以上、いずれ王太子妃になる身として、覚悟を決めてきたつもりよ。隠し事はやめて頂きたいわ。私が裏切るつもりじゃないことを、どうやったら証明できるのかしら。…今、この場で、この左腕を切り落とした方がいい?」
その言葉に、フェルディナンの双眸が大きく揺らいだ。
明らかに困惑している。
それを察し、ファングはやれやれと肩をすくめてピストルを収めた。
「サキソライト王女。正直に申し上げますと、その件については、今は身内ですら信頼できない状況なのです。…あなただけではなく、我々は王宮にいるすべての人間に疑惑を持っています」
すると彼女はおもむろにナイフの向きを変えると、テーブルに置いた自分の左手の甲を力任せに突き貫いた。
「おいっ」
仰天した2人の男たちの前で。
彼女はきわめて冷静に、にこりと笑ってみせたのだ。
「この血は、あなたとバフィト王国のためにささげます。プルーデンス王太子殿下。私の命がある限り、あなたを裏切ることはありません」
「――」
大した女性だ、とファングは感嘆した。
まるでアランを見ているようだ。
昨今の女性は、みなこのように勇ましいのかと思うと、身につまされる。
「尻に敷かれるのが目に見えるようですね、王太子」
「…鬼嫁だ」
ファングは、くすくすと笑ってしまった。
さっきまで怯えていたくせに、フェルディナンはすぐさまハンカチを取り出すと、血で汚れた彼女の手を包み込んだ。
「分かったよ。オレたちが知っていることを全部話すよ。いいだろう?」
と、彼は傍らの護衛士を見た。
驚きの表情を隠せないファングが、やはり呆れたように頭を抱えてみせた。
「仕方ないですね。わかりましたよ、サキソライト王女」
「ありがとう、ファング」
にこりと笑顔を向けられ、ファングは息をついた。
「実はバフィト国王は、ヴァン王太子が死んだことを国民に隠し通す気でいます。その裏には、側近のジェスターが絡んでいると、私たちは推測しています。…詳しいことは、そちらにいらっしゃるプルーデンス殿下にお聞きください。それでは失礼します」
2人が「えっ?!」という顔をするが早いか、ファングはさっさと一礼して部屋の外へと退出した。
「こらこら、待て、ファング! 今のはずるいだろう、お前!」
慌てて追いかけてきたフェルディナンが、呼び止める。
それを無視して歩いていると、
「おい、ファング!」
苛立ったように肩をつかまれ、彼はようやく足を止めて振り返った。
「…なんですか」
「なんですかじゃねーよ!」
フェルディナンは呆れた顔で、首を振った。
「お前、オレに全部丸投げするつもりかよ。ホントひどいな!」
「──サキソライト王女に話すと決めたのはあなたですから。あなたがご自分でお話になったら良いでしょう?」
「冷てーのな」
フェルディナンが、苦笑した。
「分かったよ。彼女にはオレから説明するから、お前はアランを頼む」
「…」
「アイツのことが心配だ。なにかあるのなら力になってやってくれないか」
「オレが、ですか」
「ヴァンををうしなった喪失感が、今ごろ頭をもたげてきたのかもしれない。となるとオレには何もしてやれない。…ヴァン王太子のことをよく知るお前なら、アランを癒してあげれるかもしれない」
その言葉に、偽りはなかった。
アランを慰めるのは自分には無理だ、とフェルディナンには分かっていた。
「努力してみます」
と、ファングは静かに頷いた。
その直後。
フェルディナンの唇が、なにか言いたそうに開いた。
「殿下?」
「いや、なんでもない。アランを頼むな。なにかあれば、すぐに報告してくれ」
「御意に」
深々と頭を下げて立ち去っていくファングを見送り、彼は息をついた。
「…まいったな。すっかり蚊帳の外だ」
いったい、いつからこんなことになってしまったんだろう。
アランの一番の理解者は自分しかいないと思っていたのに。いつの間にやら、その株をファングに取られてしまっている。
それはとても寂しいことだけれど──
「アランは、そんなに具合が悪いの?」
ふいに背後でサキソライトに話しかけられ、フェルディナンは
「うわっ」
と飛び上がった。
一体いつの間に…!
至近距離に立つサキソライトの眼差しに怯み、居心地悪そうに視線をそらしてしまった。
「うん、まぁ。…アイツもいろいろあるんだろ」
「思うんだけど、アランに暇を出したらどうかしら」
「えっ」
「彼は、私がダリール家の左腕を持っていることをずいぶんと気にしてたわ。私を見るたびにいやな気分になっているんじゃないかしら」
「それは、まぁ」
違うとは言い切れないが、どうにも肯定しがたい。
アランがどう思っているかなんて、今のフェルディナンにはまったく把握できる自信がなかった。
そんな折に、
「ほんとは、私がアランの前から消えたら一番いいんでしょうけど」
などと言われ、
「それはだめだ!」
と、彼はすぐさま声を上げた。
きょとんと目を開いたサキソライトが、不思議そうに見上げてくる。
「あ、えぇと、君がいなくなるのは、寂しいし」
「まぁ」
子供のような言い分に、彼女はくすくすと笑った。
気まずそうな彼を見上げ、その額を人差し指でつついて、からかった。
「言っておきますけど、間違っても私は貞淑な妻にはなりませんよ」
「!」
「なにしろリトシュタイン帝国皇帝の妹であり、バフィト王国の軍人でもあるのですから」
「末恐ろしいな」
「ふふ。覚悟しておいてくださいね」
そう言いつつも、サキソライトは嬉しそうだ。
フェルディナン自身、さほど不快には思ってないことに気づき、彼女はおかしそうにフェルディナンに腕をからめてきた。
そんな彼女が、心なしか愛しく思える。とても不思議な感覚だった。
──サキソライトは、自分の兄に腕を切られたと言った。
そして人体実験のために左腕を移植されたのだと。
リトシュタイン帝国皇帝は、それほどまでにファミリアが欲しかったんだろうか。
《アレクシアの腕》を手に入れたからといって、サキソライトにファミリアが操れるわけでもないのに。
なによりファミリア自体、今は絶滅して世界のどこにも存在しない。
…それならば、
この政略結婚によって、リトシュタイン帝国はなにを得るのか。
「リトシュタイン帝国と繋がりを持ちたがってるこちらに情けをかけて、仲良くしてやろうって魂胆かな」
と、フェルディナンはぼそりと呟いた。
でなければ、野望のすべてを砂塵に返してバフィト王国を叩き潰す気でいるのだろうか。
もちろん、あの大国リトシュタインなら、それも可能だろう。
「なにをブツブツ言っているの?」
「…サキソライト」
「はい?」
「君は、リトシュタインに戻る気はある?」
真摯な面持ちで尋ねられ、思わず息をのんだ。
だがすぐに笑顔に変わると、サキソライトは穏やかな表情で目を細めた。
「いいえ。今のところは無いわ。だって、あなたと結婚する予定だもの」
「それなら君はオレが守らなきゃな。…君はいずれ、苦しい立場に立たされるかもしれないから」
「…頼りにしているわ。ルーデンス王太子殿下」
彼女は、フェルディナンの言葉をどこまで理解しているのだろうか。
聡い性格だから、もしかしたら彼が思う以上のことを察しているのかもしれない。
サキソライトの笑顔につられるように、フェルディナンの頬も緩んでしまった──