第二章『再会②』
アランが廊下に飛び出すと同時に、黒い影がすっと曲がり角に消えたのが分かった。
…黒ずくめの男?
全身を黒いショールか何かで覆い隠した人影に、ぞくりと背筋が凍った。
…まさか、盗み聞きされてた?
いつからドアの前に立っていたのだろう、と訝しみながら、アランは慌てて後を追いかけた。
長い階段を上がり、ぐるりと迂回した人影が、細くなった廊下の先を歩いていく。
いったいどこに向かっているんだろう、と胸を高鳴らせた直後。
アランは、ひとつのドアの前で足を止めた。
(あれ、ここは、…ヴァンのお気に入りの部屋じゃないか)
思わぬ場所に到着して、アランは頭の中が真っ白になった。
ヴァンが『オレの秘密基地』と呼んでいた部屋だ。
かつてアレクシア・クリスタ公女の私室であったこのドアのカギは、たしかヴァンしか持っていないはずだ。
(…まさか、いや、…でも、どうして…)
さまざまな想像が脳内を駆け巡り、踏み込もうかどうしようかと逡巡していた矢先。
ふいにドアが開いて、部屋から出てきた人物と激しく正面衝突してしまった。
「うわっ、痛った!」
「えっ?! ルフト?!」
部屋から現れたのは、風配師見習いのルフトだ。
黒いマントを羽織った彼は、意外な展開に真っ青になりながら震えている。
「…アラン…どうして…」
「それはこっちが聞きたいよ! お前はここで何をやってるんだ! トランスフィールドと一緒にファミリアの歴史を調べてたんじゃないのか」
「それは、」
「ジョーカーとの関連について分かったのか? 風配師はどうした?」
「…トランスフィールドさまは、ファミリアを集めに行っています」
「はい?!」
唖然としたアランの前で、ルフトは悔しそうに奥歯をかみしめた。
「…僕は、今は、ファミリアの歴史なんか、どうでもいい。ましてジョーカーなんて…。それより今は、もっと…」
「――なにを言っている。それに、この部屋のカギはヴァンしか持ってないはずだ。なぜお前が入れる? 説明しろ! なにもかもだ!」
「お、落ち着いてください、アラン」
びくりと動揺したルフトが、なだめるように両手を振り上げる。
それを乱暴に払い、アランは幼い少年に食って掛かった。
「ここで殺されたくなければ今すぐ話せ!」
「わ、分かりました、分かりましたからっ。しかし少し待ってください。僕は逃げませんから!」
激高するアランを落ち着かせ、慌てて部屋に戻ると、アランを室内に引き入れて再びドアにカギをかけた。
ほう、と疲れたようなため息が出る。
眉をひそめたアランの前で。
ルフトは懐から小型の羅針盤を取り出すと、じっと凝視して風の動きを調べた。
「…それ、…羅針盤は壊れたんじゃなかったのか」
「これは僕の自作です。風配師ほどの能力はありませんが、多少の役には立ちます」
羅針盤から目を離すことなく、ルフトは真剣なまなざしを崩さない。
ルフトがすっかり黙してしまうと、その間、アランは部屋を探索した。
…懐かしい。
昔、自分が暮らしていた部屋。
大好きなオルゴール。夏の花を描いた花器。お気に入りのチェスト…
愛着があるものがすべて残っている。…ヴァンが、ずっと大切に残してくれていたのだ。
ヴァンの秘密基地。その言葉を思い出して、アラン口元が思わず緩んだ。
すると、ルフトが、
「アラン。これを見てください」
と、おもむろに羅針盤を差し出してきた。
ファミリアはもういないはずなのに、ファミリアの居場所を示す場所が光っている。
アランは、羅針盤を見たまま硬直した。
「…やはり、ファミリアは絶えていなかったんだな」
「一箇所に集中しているのです。力を溜め込むために、すべての能力を、その場所だけに集めてる。だから、ほかの場所からファミリアがいなくなって、絶滅したように思えたのです」
「…というか、ルフト。この場所は」
「ですね」
アランの疑問に、彼はくすりと笑った。
羅針盤が指し示しているのは、今立っているこの場所の、隣の部屋。
つまりアレクシア公女の寝室だった場所に、ファミリアが集中している。
それなのに、アランはその気配にすら気づかないのだ。
この部屋の向こうにいったい何があるのか──
アランは居ても立っても居られなくなった。
「この部屋のカギは、ヴァン王太子のポケットから拝借しました。絶対に誰も立ち入らないような場所が、どうしても必要だったのです。それゆえに、ここは絶好の場所でした。なにしろ元から王太子しか知らない部屋ですからね」
「ごめん。…なにを言っているのかさっぱり分からない」
「直接ご覧になれば、理解なさるはずです、アラン」
ルフトはアランの前に立つと、静かに寝室のドアを開け放った。
寝室の壁際に置かれた天蓋付きのベッドに、ヴァンが横立っていた。
えっ、と自分の目を疑ったアランが、足早に近づいていく。
ベッドの周囲には薄いレースがぐるりと取り囲み、それを取り払うようにして彼の顔を覗き込んだ。
「これは、どういうことなんだ?」
「地下の安置室に保管してあった王子の体を、こっそりこちらに移しました」
「なんだって?!」
「触れてはいけません!」
ルフトの厳しい叱責の声に、伸ばしかけた手をびくりと引っ込めた。
「まだ覚醒していないのです。今、爪先ほどもでも触れてしまえば、体のすべてが崩落してしまいます」
「…彼は、生きているのか」
愚問だとでもいうように、ルフトが片眉を上げた。
「それは、微妙ですね。体の作りはまだ不安定で、魂も入っていない。これが《人》と言えるのかどうかは疑問です」
「…お前、王子になにをしたんだ」
思わずルフトの襟元を鷲掴みにすると、鼻先を近づけて罵声を浴びせた。
しかしルフトは冷静な表情を崩そうともしない。
「僕が何かをしたわけではありません。何かが起こるのを待っているのです、ずっと」
「…なにかって?」
「僕は風配師です。まだ見習いですが。…なので望むことはただ一つです」
「…ダリール公国の復興か…?」
かすかに身じろいだルフトが、小さく頭を垂れた。
「だとしたら、どう思いますか。そのためにはファミリアの再生が必須です。あの豊かな土地と自然環境を取り戻すために、あなたにもやらなければならないことがあるはずです」
「──」
アランは突き放すようにルフトの襟元から手を放すと、勢いをつけて彼の体を突き飛ばした。
ゆるりと揺れたルフトの視線が、懇願するようにこちらへと注がれている。
「ファミリアが絶滅してしまうのは寂しいが、公国の復活は考えていない」
「改めてもう一度お考えください、アラン。この軍国主義のバフィト王国で、ファミリアが繁栄すると思っているのですか。それで人々が幸せになるとでも? それこそ身勝手な思考だ。アレクシア公女。ご自分の立場をもっとよく理解なさることです。そのために協力は惜しまないと伝えたはずです」
「──」
アランは、ベッドに横たわるヴァンを見つめた。
「ダリールのために、ヴァンを利用しろというのか? 魂の抜けた殻に、防腐剤を振りまくようなまねをして…。なぜ心安らかに眠らせてやれないのだ」
「ふふ、面白いことをおっしゃる。まるで王子が死んでいるとでも言いたげな…」
「えっ」
ルフトは、肩をすくめた。
その唇が、嬉しそうに歪んだように見えた。
「このまま王太子の体を地中に埋めてしまっては、それこそ本末転倒な話です。本当に、あなたはなにも分かってらっしゃらない。まぁそこが愉快なところでもあるのですけど」
いたずらっ子のようなの瞳が、ふとアランに向けられて困惑した。
「いいですか、アレクシア公女」
伸ばされたルフトの両手が、強くアランの手を握り締めた。
「国王を殺さなければ、王子は目覚めません」
「!」
「国王を始末しなければ、いくらファミリアの力があっても王太子はプリンシパルとして覚醒しないのです」
「花槽卿だって?!」
「うわっ、」
アランは懐に手を入れた。
携帯用の鞭を出して、グリップに取り付けられたスイッチを押すと、ひゅっと伸びた鞭先がルフトが持っている羅針盤を鋭く打ち払った。
「なにをするんですか!」
「…お前たちは、なにを隠している? 一から説明しろ。全部だ!」
「っ、」
小さく息をついたルフトがふらふらと壁に寄りかかる。
ずるりと滑り落ちた体が、床にへたり込んだ。
「その前に約束してください。アレクシア公女。…今すぐとは言わない。…けれど、いつか必ず、バフィト国王を倒して、公国を復活させてください。あの豊かだった美しいダリール公国を取り戻してください。それが、私たち風配師すべての願いであり、祈りなのです」
「――否、と言ったら?」
「そんなことはありえません」
ルフトは床の上で前のめりになって声を張り上げた。
「もともと国王暗殺はあなた自身の目的だったはずだ。まさか目標を違えたとは言わせませんよ」
「!」
「──お返事を、公女」
今度は、アランがため息をつく番だった。
こんな子供相手に取引を持ち掛けられるのは、はなはだ遺憾だ。
あまつさえヴァンが関わっているとなると、この話し合いで負けるわけにはいかなかった。
「その前に、お前たち風配師がなにを考えているのか。話を聞かせてくれないか」
「…」
「私だけならともかく、ヴァンまで巻き込んでいったいなにを企んでいる?」
じろりと睨むと、ルフトは不満そうに唇を尖らせた。
■□■□
その頃。
フェルディナンは、婚約者のサキソライトと不本意ながら自室でお茶を飲むはめになっていた。
「親交を深めましょう」
という彼女の申し出を断り切れず、しかたなく承知した彼はふてくされた顔でティーテーブルについた。
「それにしても、よく私との婚約を承知なさいましたね。即行で断られると思っていたのに」
「オレに決定権はない。つましやかに命令に従うだけだ」
慣れない紅茶の匂いに包まれ、フェルディナンは心地悪そうに呟いた。
「このまま私と結婚することには納得しているのね。誰か好きな人はいないの?」
「そっちこそ、」
と、面倒くさそうに話を切り変えた。
リトシュタイン帝国の王女でありながら、他国の軍隊に飛び込んで働くほどのじゃじゃ馬なのに、よく素直に承知したなと呆れてしまう。
すると、
「あなたと同じよ」
彼女が、くすりと笑った。
「兄上の命令は絶対なの。今まで自由にやらせてもらっていたから、ささやかな恩返しってところね」
「あんたは、ヴァンと幼馴染だと聞いたけど。婚約相手がオレで驚いたのでは?」
「ヴァンと遊んだのは、ほんの2~3歳のときの話よ。しかも、そのころから彼はアレクシア公女に夢中で、私のことなんて見向きもしなかったわ」
「…公女、ね」
とたんに、フェルディナンはうんざりした。
その名前は、子供の頃から嫌というほど知っている。
しかも、すでに捨てた名前だというのに、アランもフェルディナンも、いまだその名前に振り回されながら生きている。
もっとも、アレクシア・クリスタから解放される日など、おそらく一生来ないだろうと確信しているが…。
「あぁ、あなたも複雑な立場なのよね。亡きアレクシア公女の従兄弟でありながら、現国王の子息だなんて、板ばさみもいいとこね」
「…」
「しかもヴァン王太子の代わりに、この国を統治するのでしょう? 責任重大ね」
からかっているのか。
それとも同情しているのか。
抑揚のない彼女の声音は、フェルディナンの心に響くことなく通り過ぎた。