あとがき(の、ようなもの)
約一ヶ月にわたって連載(投稿)させていただきました「幻怪外伝~夢はぬる水の彼方に」無事完結することができました。
お読みくださった皆様方、応援してくださった皆様方には、心から感謝申し上げます。
「外伝」と称するには本編があります。「小説幻怪伝」がそれです。
しかし「幻怪」なる世界観は、独自性の強いものゆえ、なかなか馴染んでいただけないのではないか、とよく不安になります。
実際、そう多くの方に読まれているわけではないようですが、中でも熱心にお読みいただいた方がいたことは、本当に喜ばしく、そういった方々には本当に感謝の念で一杯です。
簡単に説明するならば「幻怪」なる世界観とは
多次元宇宙において、ふたつの次元宇宙世界の衝突によって「この世界」が生まれ、この新天地の覇権を巡って争いあう旧世界人すなわち「モノノケ」の対立を軸に、この世に生まれた(生み出された)人間たちが巻き込まれる、というものです。
とくに十九世紀、人間という生物が「この世」の新覇者たらんと旧世界人「モノノケ」を排除し始める、その時代にスポットを当てて描いています。
そしてキーワードは「波動」
宇宙は「ひも」とその振動=波動で出来ている、という物理学における「超弦理論」(一般相対性理論と量子論を融合させる切り札と言われる)を土台に、すべての事象を「波動」に関連付けることで、いわゆる「超自然的現象」までを波動によって為される事象とみなし、SF的な、ファンタジー的な世界観に統一感を持たせたつもりです。
その万物の根源たる「波動」を自在に駆使できる旧世界人たちは「モノノケ」と呼ばれますが、もともとの次元宇宙が持っていた波動の位相が違うため、正反対の作用を持ちうる(例えば、光も波動ですから、光と闇は逆位相という関係で説明される)能力を持つ、と定義されます。
しかし、次元宇宙の衝突から百三十七億年。モノノケたちも代を重ねるうちに(あるいは反対の位相の者との交配により波動が干渉するなど)その能力は弱まり、かつては奴隷のような(もしくは作業用のロボットのような)位置づけだった人間なる生物が、いつしか自我を持ち「モノノケ」たちを駆逐しようと意志を明確にし始めた時代と言えるかもしれません。
ゆえに、人間たちは現実的で即物的な「科学」に頼りますが、それを超えたところに存在する「波動」は、得体の知れないものであり、ときにそれは恐怖や嫌悪を生じさせる要因ともなります。
もしかしたら未来、人間が「下僕」として生み出したコンピューターなる生物が、その人工知能が進化し自我を持ち、デジタル理論で理解しあう世界を作り上げたとき、人間のもつ「感情」や「洞察力」あるいは「勘」なんてものは、彼らにしてみたら全く理解不能の得体の知れない、しかしときにデジタルな計算を凌駕するものかも知れません。
そのとき我々「人間」は、デジタル生物にとって「モノノケ」として忌み嫌われ排除を試みられることでしょう。
長くなりました。
そんな世界観で、十九世紀の「小説幻怪伝」は、崩壊寸前の旧世界「冥界」が「この世」をすべて破壊し「リセット」することで、自分たちの居場所を確保しようとし、人間とその庇護者「幻界」と対立、争う様を描きました。
その中には、様々な「モノノケ」が登場します。
「オニ」「天狗」「九尾狐」「かまいたち」などなど…みなさんおなじみの妖怪たち。彼らは、冥界サイドの戦闘員としてその出自(設定)が存在します。
しかし「河童族」は、なんと人間側に立つ「幻界」サイドにも、冥界サイドにも登場します。そこで、今回「河童族」について書き記す必要があった、と。そういうわけなのです。
なぜ人間と似た容姿なのか。
なぜ頭に皿を載せているのか。
なぜ甲羅を背負っているのか。
なぜ水中を住処にしているのか。
そしてなぜ、人間と友達の河童と、人間に害をもたらす河童がいるのか。
人知れず存在する地下水脈の果てにあるという「河童王国」(ええ、実は王制を敷いているのです)で起こった国家存亡、いや地上世界も巻き込む恐ろしい陰謀と、それに巻き込まれながら、一人前の河童になろうと成長してゆくある若者の生き様を主軸に、現代の人間世界でも共通の種々の問題を取り入れて描いたつもりです。
つまるところ、時代を問わず地域を問わず、そして生物の種を問わず、さらに棲む次元さえも問わず、生きとし生けるものの心の機微は共通。
そんな夢想(まさにファンタジー!)が、本作品の柱なのでしょうね。
ちなみに、河童王国は政教分離がなされておらず、「河童正教」が国教となっており(古い河童教のなかの「スー派」が元になっており、王家は「ス」を名乗り、実はノウム家がその開祖だったというねじれもあったり)、その服装や慣例が人間界にもいつしか伝わり…
あの「トンスル」の元にもなった、なんていう妄想とともにお楽しみいただけたら、なんて。
僕は、見えた(感じた)ものを、そのまま文に起こすスタイルで書いていますので、決して「美文」は出てこないし、時代の流れに鈍感なこともあって、パッと流行の設定や目を惹くストーリーを紡ぐことが出来るわけではありません。
むしろ、尊敬するセルジオ・レオーネ監督のように、観客がじらされるほどに、そしてじらされた分、あとで大きな感慨がおそってくる、そんな作品が好きです。
などと、言い訳ではありませんが、そんな「退屈」な文章に付き合いくださった方々には、格別の感謝を申し上げたいと思います。
あらためて、ありがとうございます。
幻怪暦二万二千十五年吉日
蝦夷 漫筆




