地下水脈へ、再び
「ああ、蒸し暑いっ」
「まあまあ」
「ああ、重たいっ」
「まあまあ」
「ああ、息苦しいっ」
「ちっ、文句もいい加減にしろってんだ夫羅。聞いてるこっちがイライラするぜっての。嫌なら帰れ、ほら」
島二郎が潜水服ごしに夫羅を睨む。
夫羅と島二郎は黒河童派の活動との因果関係を確かめるべく、河童王国に赴いていた。もちろん幻翁も同行して。
「こらこら二人とも、もうすぐ出迎えが来るんだ。無礼があってはいかん、大人しくしておれ」
「でも翁、こんなに水が濁ってて、しかも暑いなんて。俺の知ってる河童の国と違うんっすよ」
ため息をつく島二郎。
「またか夫羅。河童の国は夢の国って、もう十五年も前の記憶を美化しすぎだっての」
幻翁が首をひねる。
「いや、島。夫羅の言うこともあながち嘘じゃない。温度が高すぎるし、水も重い。昔は水がもっと透き通っていたんじゃ」
顔の前のガラス板を何度も拭いてみるが、視界に漂う汚れは取り除かれない。墨を流したように濁った水の中に幾つもの浮遊物が漂っている。
「さあ、もう王国の入り口じゃ。ここで少し待とう」
三人は大きな門の前で座り込み、別ルートの地下水脈を通ってくる芥子菜組を待った。
島が尋ねる。
「しかし翁、連中まで帯同させなくったって…」
「いや用心に越したことはない。見たじゃろ、黒の旅団に王国の紋章をつけていた者がいたのを」
「裏で通じているヤツが王国にいる、と」
「あり得る。ゆえに、場合によっては視察では収まらないということも…」
頷く島二郎。
「物見遊山じゃ済まねえ、戦いがおっ始まるかも、って事ですね」
「ああ、いざという時のための戦力が要る。芥子菜のような者たちが必要じゃ」
「そう言ってもらえりゃ俺も嬉しいが、他にも弟子はいるだろうに…」
「今はあちこちで不穏な動きがあるゆえ、調査と監視に猫の手も借りたいくらいなんじゃ。恵那の恵心塾も上流の探索に出ておる」
仕方がない、という顔の島二郎が、ふと思いついたように尋ねた。
「そうそう、翁がこないだ言ってた花魁の小娘はどうなんです?」
「ああ、あれはまだヒヨっ子じゃよ。十二の幼子じゃ」
「たいした素質だって聞きましたが…」
「己の力をまだ制御できておらん。実戦に出すにはまだ危険すぎる」
夫羅が立ち上がった。
「あ、来ましたぜ。さすが島の弟子だ、こんな近くに来るまで気配を悟らせねえとは」
芥子菜組の十名は、島二郎の前で軽い身のこなしで整列した。
「定刻どおり到着いたしました」
青竹色の立派な門を叩くと、通用門から衛兵が出てきた。
「なんだ、お前ら…ん、人間か。お前らの来るところじゃねえぞ、ここは」
夫羅が詰め寄る。
「ちっ、河童め、またそうやって…」
幻翁が制した。
「これこれ、なんでもかんでも突っかかるでない…ああ、わしは幻翁。ちょっと久しぶりに様子を見に来たんじゃが」
「幻翁って…あの、幻翁だと言うのか、お前が。歴史の教科書で見た…」
「ほれ」
幻翁は袂から手形を取り出して見せた。手にとって訝しげに眺める衛兵。
「むう。たしかに…幻翁とある」
「よく読んでみい」
「ふむ。右の者及び係る従者、何時も是の王国への出入りに裁可与ふるもの也、河童之国国王、簾阿芭玖…って、これ初代国王じゃないの」
「いかにも」
「いや…いかにも怪しいのは其の方ら。だがもし本物なら…よし、しばしそこで待てっ」
衛兵は手形を持ったまま城に走っていった。
「何でもお上に訊かにゃあ動けぬとは、まあ地上も地下も一緒と言うわけか」
「しかし…」
通用門の隙間から中を覗き込む夫羅は、見える景色に唖然とした。
「ちょっと、あれ」
物乞いらしき河童が幾人か倒れこんでいる。虫が湧いているように見える者はすでに絶命しているのだろうか。
「こんなんじゃなかったはずだが…」
逃げ出そうとしたのだろうか、門の前の鉄条網に引っかかったまま放置された河童の親子の亡骸がゆらゆらと水流に揺れていた。
「いやはや、これは失礼をいたしました。なにせ新人の衛兵ですもので」
にわかに門の内側が騒がしくなっってきたのと同時に、一人の河童が慌てるようにして幻翁一行の下に駆け寄ってきた。
「ああ、私はこの国の近衛兵長のレタウ。イトリッド=レタウです」
背筋もピン、と敬礼する。
「幻翁閣下、ご来駕の栄を賜りまして国を挙げて感謝申し上げます。こちらへ」
ゴゴッ、と門が動く。サーッと水流に引かれるように門をくぐる。
「ん?」
夫羅が見た陰鬱な景色は消え、着飾った国民たちが賑やかに一行を出迎えていた。
「さ、こちらへ」
レタウに導かれ、王城・水叡殿へ。
「そうそうこれだよ、これ」
夫羅が目を輝かせた。
「見てくださいよ、この美しさ。俺が言ってたのはウソじゃないって、判ったかい」
島二郎は天守を見上げ、黙って頷いた。
「ああ、思い出した小部屋。自動昇降機だ」
やや興奮気味の夫羅。あの頃と変わらぬ、いや、ますます豪勢になった城内。
「ここから空気があるんだ。さあみんな、もう脱いでいいんだぜ、潜水服」
案内役の近衛兵も苦笑いしている。
「はは、私がご案内するまでもないくらいですな」
「おう、十五年たったがちゃんと覚えてるぜ。相変わらず最高だな、この城は」
壁面に飾られた美しい絵画や調度品をじろじろ見る夫羅、そして幻翁一行は天守の五層目に案内された。
「ようこそおいで下さいました」
最高ランクの国賓専用です、と説明され通された部屋。希少な流木で作られた椅子に掛けた幻翁一行の前に、ふわりと絹のマントを翻して、口髭を整えながら満面の笑みでボトルを手にした男が現れた。
「私はこの国の摂政。ノウム=ド=エボノで御座います。さ、まずはこれをどうぞ。最高の出来と言われる河童暦二七六年の胡瓜酒です、ふふふ」
エボノが目配せをすると、それぞれの前に置かれたキラキラと輝く石英グラスに並々と自慢の酒が注がれる。
「この度のご尊来、感謝申し上げます…が、今回突然のご視察とは…」
チラリと幻翁の表情をうかがうエボノ。
「うむ」
幻翁はグラスを顔に近づける。
「よい香りじゃ…なあに、河童の国はどうしておるか、と、ちと気になってな。ランタスが存命の頃はよく書簡が届いたものだが、最近は…」
「いやあ、幻翁さま、それは大変失礼を」
エボノがひきつったように笑う。
「あれほどの優れた先代の後で国政を司るのは至難の業に御座いまして…やっと、やっと国もそれなりに落ち着きを見せたところで、そろそろこちらからお手紙を、と…」
幻翁が胡瓜酒を口に運ぶ。爽やかだが風味の強い香り、舌に軽く、それでいてしっとりと粘り気のある深い味。
「美味いな、これは…ふむ、まあよい。国が安泰なら、わしは何も言うことはない」
嬉しそうに口髭をピンと撥ね上げたエボノ。
「ええ、ええ。国は今やかつてないほどの繁栄と安定を手に入れつつあります。それもこれも、幻翁さまのお陰と国民は皆日々感謝を…」
幻翁は軽く頷きながら、胡瓜酒の清涼たる味わいにふけった。島二郎も思わず唸る。
「胡瓜酒なんて初めて呑んだが、こりゃ大したもんだ。地上でも作れんものか」
「こりゃあ美味いっ、前回飲んだときよりさらに」
夫羅はグラスを差し出し「もう一杯」と要求するような仕草。
芥子菜組の面々は島二郎が勧めるグラスを「いつ、何があるかわかりませんので」と断って周囲に目を光らせている。
エボノが微笑んだ。
「さすがですな。一時も気を抜かない、まさに忍の鏡と言うべきか」
部下に言ってもう一瓶、胡瓜酒のボトルを卓上に準備させるとエボノは部屋を出て行った。
「足りない方はもう一杯でも、二杯でも。ともあれ少しお休みください。夕刻には皆様のために宴を開きます、積もる話はそこで」
つづく




