時限小説 1時間半ふぁいたー
1時間半で書いたくだらない短編です。誰か漫画にしてください
「揉む? 揉みなよ。むしろ、揉んでよ」
午前10時26分、連日の猛暑日にとうとう頭がゆで卵になってしまったのか、彼女はそんなことを言い放った。
「揉めるほどデカくないだろ」
「揉んだらデカくなる、かも。ほれ、一石二鳥。そっちのもデカくなるし」
さささ、と自分で口に出しながら近づいてくると、その揉めるほど大きくないアレを背中に押し付けて、彼女は両腕を首に絡めてきた。汗の溜まったシャツが押し付けられて、じわ~ぁ、っと、気持ちの悪い湿った感触が、肌に伝わり始めた。
「…そんな気分じゃない」
目の前にある原稿用紙に染みわたっていく黒いインクが、じわじわと彼の領土を広く主張していく。特大のとびっきり笑顔だったヒロインの顔がだんだんわからなくなっていくのが、こんなにも胸を苦しくするだなんて、今まで知らなかった。…何で俺、最後の最後でインクをこぼしてしまったんだろう。締切は明日なのに。
「据膳食わぬとは! 男の恥!」
「お前はもっと恥じろ、よーッ!!!」
腕を払おうとしたのだが、思いのほか強くこっちの両腕を掴んでいて、がっちりと離れない。むしろムキになって、首を潰すように、その胸よりもぷにぷにした二の腕で締め付け始めた。
「死ねえ、男の恥!はじーーー!」
「じゃますん、なあああああ!!!!!!」
ガタガタと、椅子から立ち上がった身長差で、ようやくぷにぷにから解放された。右手を見たら、インクがべったりと付いてしまっていて、ツーっと、血管をなぞるようにして垂れていくのが見えた。
「あーっ、ついたー!」
「あー、じゃねーよ、お前、自分から付けにいったようなもんじゃねえか」
ついたー…、と、彼女はまだ不満げに唇をとんがらせている。左肘の少し上ぐらいに黒い手形が、そして、白い半そでの口に、それがついたのか、黒い染みが内側から透けているのが見えた。
「脱げないじゃん、これー。脱げないんですけどー!」
「うるせえな、…悪かったよ」
午前10時28分m終戦。彼女の勝利で終わったことは、言うまでもない。
―――
午前10時30分。
テレビが、今日の高校野球の対戦カードを紹介している。ベテランのアナウンサーの声でさえ、邪魔で邪魔で仕方が無かったが、また彼女を怒らせることになってしまうから、テレビを蹴ることはできなかった。
「集中、集中…」
雑念、雑念…。
下書きですら時間が惜しくて、直にペンを走らせて描いていると、いつもなら絶対うまくいかないのに、今日は迷いなく描けている。隣に半分真っ黒なお手本があるとはいえ、調子がいいぞ。
「その笑顔が見たかったのだ~」
「…ぜってー違うと思うけどな」
テレビから振り返ると、よっぽどそっちの方がいい顔してるよ、と言いたくなるような(だけど絶対に言わない)生卵みたいにとろけた表情をしている。頬杖をついてしわが寄っているから、もしかすると一周してものすごいぶちゃいくな顔、というのが世間一般の正しい評価かもしれない。
「嘘は言ってないよー」
「わかったから、集中させてくれよ」
そうして、またテレビに向かったぶちゃいくは、リモコンで少しだけボリュームを下げた。ほっとして、もう一度あの笑顔を取り戻そうと、原稿用紙にペンを走らせた。イマジンが消えない内が大事なのだ。
「あの服、結構気に入ってたんだけどなー」
白い背中が、またボリュームを上げたようだった。
―――
午前11時50分前。
カキーン、とか、『ああっと!』とか、ねーらーいーうちー、とかが時々聞こえる中、ペン入れがようやく終わる、と、油断してしまったに違いない。
ポタッ、ぽたっ、と、聞きたくない、聞こえないはずの音が目から響いてしまった。
「―――ッ!!!」
そんな声をどこから出したんだと、自分で問いただしたいぐらいの気持ちだ。『試合が振り出しに戻りました』という実況の声が正確に心をえぐって、ペンを持ってることも忘れてうなだれ落ちた。
「どうしたの?」
「汗粒落とした...」
立ち上がった彼女が見るのはきっとこんな光景だろう。一見、一枚の完成原稿に見えるが、一番右下のコマの中央にぐにゃりと膨れ上がった、灰色のにじみが、まるで懐かしのシーチキンのCMみたいな模様を描いていて、あーあ、という残念な光景。
「あーあ」
ほら見ろ。俺は見たくないけど。
「もう嫌だ…」
「揉む? ほれ、直がいいか?」
肩から紐を下ろそうとするのを止めようとして、自分の頭が下に落ちているのを忘れて、重力に腕の力が負けていることに気が付かなかった。「やめろ」と言う前に、向こうが手のひらを掴んで、ペンをひったくっていた。
「危ないからしまっとく!」
「揉まねーよ! 終わらさないといけないんだよ、これをさー!」
すると彼女は、体を伸ばして跨ぐと、がさごそと机の上で何かをやり始めていた。
「いじるなよ!」
「いじるし!」
シャーッ、と線を引くような音がする。1回、2回…4回ぐらいだろうか?
その度に、サイズの合ってないアレの隙間から、申し訳程度のアレのアレがチラついて、その下にある立派なお腹が、あばらが、中から動いているのが確認できていた。
「これでどう?」
「うん?」
体をどかすと、彼女は頭のひっくり返った俺を起こして、椅子の背もたれへ正位置に運んでくれた。
汗の落ちた原稿が、カッターで四角く切り抜かれていた。
「てめえ」
「こっちも」
そうして、左隣にあった新聞紙を持ち上げた。かと思ったら、その上に置いてあった、半分真っ黒な原稿の、右端部分を持ち上げたらしかった。
「同じコマでしょ?」
汗の落ちたコマをどけて、切り取ったコマを重ねおくと、一枚の原稿ができあがった。あとは、もう1枚の原稿に貼ってコピーするなりすれば、できあがりにできそうだ。
「くくく、原紙を1枚無駄にするのか」
「揉む? 揉むでしょ、これは!」
揉まないけどな。そう答えると、彼女は黙って高校野球前のソファへと戻っていった。
どうやら、明日は原稿の後に銀行へ寄らないといけなくなってしまったようだ。
――――
「こういう漫画を描いたらどうっスかね?」
「頭がゆで卵にでもなったんですか?」
午前11時51分。
今日も35℃を超える横浜で、僕らはいつものくだらない話をしていた。
(おしまい)
誰か漫画にしてく(略