プロローグ
そこはだだっ広い真っ白空間だった。
彼というには少々若い十五歳ぐらいの少年が俺の三メートルほど前に立っている。少年は真っ白空間と同じ白い服を着て、悪意や敵意を感じさせない微笑を浮かべている。
「ここはどこだ?」
「時間と空間の、いや世界の狭間かな。中有ではないよ。君はまだ生きているから」
「なるほど。で、君は何者だ?」
「しがない世界管理者さ。ちなみに世界管理者とは何かという質問に答える気はないよ」
「俺に何の用だ?」
「まずは座ろうか」
俺の目の前に白い丸テーブルと四本足の白い椅子、白いコーヒーカップ二つとシュガーポットが出現する。神を自称する少年は優雅な動作で椅子に腰掛けた。
俺も立ち話は面倒なので来客者用の椅子に座る。
「単刀直入に言おう。異世界に転移して魔王と戦って欲しい」
「断る。現地の人間を魔王と戦わせればいいじゃないか」
「魔王を倒せる存在は魔王に等しい存在だよ? 僕は人の子らが彼か彼女を受け入れられるとは思わないね」
世界管理者はにっこりと笑いながらろくでもない事を言う。確かによほど上手いこと立ち回らないと、魔王を倒した勇者は現地政府によって新しい魔王として排斥されるだろうな。
「異世界人なら元の世界に戻せばいいってか。安直だな」
「僕は有無を言わさずに無理やり転生させたりするよりよっぽど良心的だと思うけどね」
選択肢がある分、私どもは良心的ですってか。胡散臭い。
「転生先の世界に居座りたい場合はどうなる?」
「一度この世界に戻ってから一般人として転移してもらう。転生が希望ならばそれでもいい。転生先はある程度君の希望に沿うように配慮しよう。ただし、自我と記憶の継承はないよ」
「微妙だなあ」
転生するなら記憶の継承は当然のはずだ。
「僕はどちらかと言えば忙しい方だからね。ヒトで暇つぶしする時間がないのさ」
相変わらずろくでもない事を言いながら神はコーヒーらしき液体を飲む。
俺も飲んで見ようかと思ったが異界の食物や飲料を口にすると、現世に帰れなくなる事を思い出したので止めておく。
「飲まないのかい? この世のモノとは思えないほど美味しいよ。実際、この世のモノではないんだけれどね」
「異界の食物を食うとどうなるか解ってて言ってるんだろう?」
「帰ったところでそう長くはない事は判ってるくせに。僕としては君がくたばってから無理やり転生させてもいいんだよ?」
「そうしたいならそうすればいいだろう」
問題はなぜ世界管理者がそうしないかだ。
「直面する望まぬ死から免れて、異世界で冒険する願いがかなう。悪くはない条件だと思うけどね」
「断れば現実に戻ってあの世行きか」
「君でなければならない理由はない。ただ異世界への転移を望む人間は少なくないけれど、現世で築いた財産や関係を手放せる人間はそれほど多いわけではない」
「悪かったな、ボッチで」
なるほど。この世に未練が残る人間ではないという事で選ばれたのか。しかし、この世界に送り返す前提ならばこの世界への未練の有無は問題ではないはずだが。
「それは新しい世界に適応しやすいということじゃないか。建設的に考えようよ」
「俺は水洗トイレがない環境に適応できるとは思えないんだが」
「現在の水洗トイレが使えればいいんだろう?」
「もちろん綺麗な水洗トイレだぞ。公園や駅の汚れたトイレじゃなくて」
「僕は君をからかって遊ぶつもりはない。プライム・プレーンの清潔なトイレとつながるドアを準備しよう。あと、お約束のステータス管理と鑑定とアイテムボックスもつける」
「魔王と戦えっていうんだから当然だな。もう一つ聞きたいことがある。虫歯は魔法で治るのか?」
虫歯治療がない限り絶対に異世界にいきたくはない。
「治るよ」
「その魔法は一般的なのか?」
「もちろん」
「だが断る」
我ながら決断が早い。とある超巨大災害の二次被害で死にかけているとは言えどうせ死ぬならこの世界がいい。生まれ変わるのもこの世界だろうし。
「試練の迷宮で訓練してもらう予定だからそこで仲間を見つけるといい。肉体の最適化はサービスだよ」
「人の話を聞いてないだろう?」
「君が断るなら選択の余地なく転移させるだけだからね」
にっこりと微笑みながら世界管理者はろくでもないことを言う。
「初期装備は?」
「向こうで選べばいい」
「向こうって?」
「僕もいきなり異世界に転移して魔王と戦えとは言わない。まずは試練の迷宮でレベルアップしてから転移してもらう。その試練の迷宮に付属する宿屋だよ」
なるほど、準備のいいことだ。
「いきなり魔物に襲われたりしないよな?」
「多分ね」
「多分って無責任だな」
「世の中に絶対はないからね。後、褒めても何も出ないよ。転移の準備はいいかな?」
「褒めてねえよ。ところで転生するって選択肢はないのか?」
「転生は面倒だからパス。そこのドアの向こうが試練の迷宮に付属する宿屋だよ」
神が言い終わるとテーブルの右側に木製のドアが出現する。神の奇跡か魔法だか判らんが便利なもんだ。
「良き旅を。お互いが笑顔の再会を祈ってるよ」
こいつは何を根拠に笑顔で再会できると考えてるんだろう?
「何が面倒なんだ?」
「乳幼児が成人男性並みの自我をもって思考すると仮定しよう」
「で?」
「脳への酸素の供給はどうなってるんだろね?」
「魔法だろ」
ほかに方法があるとは思えないし。
「酸素の他にも脳が消費する糖分の供給も乳幼児の消化器系からの供給では追いつかなんじゃないかな?」
言われてみればその通りだろうが……。
「魔法で何とかしてるんだろ」
「その魔法は誰が管理してるのだろうね?」
「転生させた神に決まってる」
「僕がそれほどヒマではない事は最初の方で言ったよね」
「しかたねーな。じゃ、ある程度の年齢になって前世を思い出せばいいだろう」
「君は変態かい?」
世界管理者は汚物を見るような目で俺を見る。
「何を根拠にそんなことを言う?」
「脳に無理やり記憶を植え付ける事は不可能ではないけれど、多大な負担を伴うからね。僕はできるだけやらないことにしている
「ところで魔王って何者だ?」
「君と同じ人間の元勇者だよ」
「ふーん。で、転移先に奴隷っているのか?」
エッチなことは考えてないぞ、ちょっとだけしかな。
「君が転移する国に奴隷はいない。亜人や妖精族に対する差別もない」
「マジで?」
「ああ。元勇者が全ての奴隷を解放して亜人差別も禁止したからね」
実現できれば結構な話ではあるが実際には無理だろう。中世的な世界で国民が不満をぶつける先がなくなれば国家の安定が危ういからな。それに勇者に奴隷を解放する権限があるのだろうか。魔王を倒した褒美としてならありかもしれないが、そんなことが認められるはずがないしな。
「国王は反対しなかったのか?」
「もちろん反対したよ」
「国王が反対したのになんで実現したんだ?」
「元勇者が国王と王妃を筆頭とする反対者を全員惨殺したから」
ちょっと待て。それが勇者のやることか。
「貴族は抵抗しなかったのか?」
「主だった貴族は国王夫妻の生首を見て命だけは助けてくれと土下座したよ」
「嘘だろ? 冗談にしては質が悪すぎるぞ」
「確かに人にはそんな事は無理に決まってるよね」
「まさか……」
「そう。勇者は魔王と融合した」
「おい」
「融合してからの時間を考えれば勇者の意識は残ってないだろうね、普通なら」
「魔王と融合した勇者と戦えとか本気か、お前?」
「僕にも事情と都合というものがある。少なくとも勇者と魔王の融合体を放置しておくわけにはいか
ない」
「そうか。言い訳ができれば良いわけだな」
「否定しない。それと座布団代わりに持って行くといい」
一振りの長剣が空中に出現する。
「ありがたく受け取ってくよ」
俺は扉を開けて試練の迷宮に付属するという宿屋に移動した。
さて、面倒なことになったもんだ。