Medizin der Liebe
回想に軽くイジメ表現がありますので苦手な方はご遠慮ください。
酷い顔。
鏡に映る自分の顔を見て、私は心のなかで呟いた。鏡に映る自分の暗く濁った瞳から目を逸らし、女子トイレを出て2年の自分の教室に向かおうとすると後ろから穏やかな声で呼びかけられた。
「彩未、調子はよくなった?」
振り返って声の主を確認した私は無表情のまま何も答えなかった。目の前に立った彼――桜庭楓は私の顔を見て、微かに眉間に皺を寄せた。そうしてすぐに優しい表情をする。
「まだ気分が悪いんじゃない?昼休みまで保健室で休んできたら?」
楓の気遣いに反応を返すこともなく、私はちょうどすれ違おうとしている女子生徒たちの方を見ていた。彼女達は頬を赤く染めて、やや興奮したように楓を見ている。そして私の存在にようやく気がつくと微妙な表情をし、すれ違った後にこそこそと囁きあうのが聞こえた。
さっきより頭痛が酷くなった気がして顔をしかめる。どす黒い感情が胸に広がったようで吐き気がした。とにかくひとりになりたかった。
不意に、左頬が何か温かいものに包み込まれた。労わるようなそれは、楓の手だった。
「彩未、保健室に戻ろう。次自習だし、俺も付き添うから」
ね?と首を傾げて微笑む楓に、私はなにも言えなかった。ぱちくりと瞬きをすれば楓はますます笑みを深めて、私の冷えきった手を掴んでゆっくりと歩きだした。隣に並ぶ楓の端整な横顔を眺め、さらさらした黒髪から覗く柔和な光を宿す瞳を見つめていると視線を感じたのか、楓が私の方に顔を向けた。
「ん?」
どうしたの?と問いかけるような瞳に私は首を横に振り、そっと楓の手を握り返した。温かい。心地良い。じんわりと緩やかに伝わる楓の体温に心が少しだけ澄んでいく。
「ふふっ。俺の手、そんなに好きなの?他人の目も気にしないくらいに」
嬉しげに言った楓に私はしまったと唇を噛みしめた。ここは廊下だ。休憩時間の生徒たちは手を繋いでいる私たちを好奇の目で見ていた。慌てて手を引き抜こうとしたものの、楓がぎゅっと手に力を入れてそうさせまいと阻んだ。非難の意を込めて睨みつけても、楓は目を細めてにこやかに歩きつづける。私は俯いて廊下を見下ろした。今の私は、とても見るに耐えない顔をしていると思う。
保健室に入ると、養護教諭は「なんだ、やっぱり桜庭も来たのか」と言って私たちを迎えた。楓は養護教諭から渡された記録用紙に私の分も記入し、ぼけっと突っ立っていた私を仮眠室に連れていった。養護教諭は用事があるからしばらく空けると言って保健室を出ていき、保健室には私と楓だけになった。消毒液とコーヒーの香りが漂う中、楓は私を仮眠ベッドに寝かせ、きっちりと毛布を被せて自分は丸椅子を引っ張ってきてベッドの側に腰かけた。夏にも関わらず体温が低い私の手を握り、空いた方の手で私の頭を撫でる。ショートカットの私の髪は楓と違って所々跳ねていて、触り心地もあまりよくない。なのに楓は私の髪の先を指に絡めてくるくる回し、するりと解いてまた絡めるという単調なしぐさを繰り返す。いったい、何が楽しいのだろうか。こんなことをして。
「彩未、眠れないの?俺がいると落ち着かない?外で待ってようか?」
楓の一挙一動を見ていた私から手が離れ、シトラスの香りが薄くなっていく。
違う。私は咄嗟に楓のシャツの裾を掴んだ。
「ん?」
どうしたの、彩未。私を映す瞳が、そう問いかける。
「彩未」
やんわりと叱るような響きをもった声で、楓は私を呼んだ。楓の綺麗な指が私の右頬を摘まみ、むにっと引き伸ばす。やめてほしいと楓の手を掴むと、指を絡め取られてしっかりと握られてしまった。
「――彩未」
とても真剣な顔の楓を目にするのは告白をされた以来のことで、思わず私は肩を震わせ、喉をこくりと鳴らした。
楓とは中学2年生のときに同じクラスになった。
他人に興味のなかった私にも、楓に関することだけは知っていた。人懐こくて優しい楓は友人も多く、女子からの人気もあった。ひとりで本を読んでいても、教室の中で飛び交う話し声は意識せず耳に入ってくる。楓が校庭でサッカーをしている。授業中には眼鏡をかけるようになった。3組の田辺さんに告白された。断った。他に好きな人でもいるんじゃないか。それは誰だ。
ぐちゃぐちゃと乱れていく汚れた醜い感情の応酬。ありがたくないことに他人の裏の感情に敏感な私は、それに耐えられなくなった。治まることのない頭痛と耳鳴りに苛まれた私は、休憩時間になると教室を出て図書室に入り浸るようになった。私の教室から図書室はそれほど離れてはいなかったし、なにより、静かで誰もいない空間にいると心が安らいだ。クラスメイトたちはそんな私の奇行を笑い、裏で私を「ムシ」と呼ぶようになった。国語の授業で先生が、本を読むことがとても好きな人を「本の虫」というのだと話してからだ。余計な知識を級友たちに与えてくれたものだと呆れはしたが、怒りは湧いてこなかった。どうでもよかった。
そんな単調な毎日に転機が訪れたのは、その年の夏休みが明けた後のことだった。所属する委員会を決めるホームルームで、私は前期と同じ図書委員の女子枠に自分の名札を置いた。図書委員を選んだのは男女含めて私しかいない。あぶれた男子ひとりがなるのだろうが、結局は私ひとりで当番をすることになるのだ。ずっとそうだった。それでよかった。
なのに図書委員の女子枠に決まった私の名札が丸で囲まれた直後、ひとりの男子が手を上げて言ったことが、静かな水面だった私の心に大きな波紋をもたらした。
「先生、俺やっぱり図書委員にします。名札動かしてくれませんか」
はっきりとした口調で言ったのは、近くの席の男子と談笑していた楓だった。クラスがざわめく。
「え、なんで図書委員なの?」
「っていうかムシといっしょじゃん」
「ありえない」
そう囁きあっているのはほとんどが女子で、男子はというと「桜庭が図書委員とか似合わねー」「お前本とか読まないだろ、楓」などと笑いの的にされていた。楓は「うるさいよ」と笑い返しながらあしらい、図書委員の男子枠に丸で囲まれた自分の名札に満足げに微笑んで、私を見た。楓と私の席はひとり挟んだ距離にあり、楓は顔をひょいっと覗かせて目を細めた。
「よろしくね、永井さん」
読みかけの本を机の引き出しから出していた私は石のように固まり、向けられる楓の瞳から逃れるようにぎこちなく黒板に顔を向けた。図書委員の枠に並んだ〈永井〉と〈桜庭〉の名札を、ただ、じっと見ていた。楓がどんな顔をして私を見ていたかなんて、知るはずもなかった。
私のクラスが図書当番の週となった最初の昼休み、違うクラスで幼稚園からの友人と中庭でいつものように弁当を食べた後、そのまま図書室へと足を向けることになった。その日も、面倒見のいい友人が男子の代わりで当番の仕事を手伝うと申し出てくれ、私たちは連れ立って図書室の扉を開けたところで図書委員の先生と会った。
「あら、永井さんも早いわね。じゃあ当番の仕事、よろしくね」
永井さんも、という言葉に引っかかりを覚えつつカウンターに行くと、そこには楓がいた。カウンターの椅子に座って本を読んでいる横顔を見つめながら、私は信じられない気持ちでいっぱいだった。てっきり、男子たちとサッカーでもしに行っただろうと思っていたのに。固まっている私をよそに友人が楓に声をかけ、本から顔を上げた楓は友人と二言話してから私に目を留めた。
「そんな隅っこに立ってないで、永井さんもこっちにおいでよ」
楓に手招きして誘われ、戸惑っている私の背中を友人が押すようにして楓の隣の椅子に座らせた。すぐそばまで距離が近くなって息が詰まる。シトラスの香りがした。
「それにしても、もうひとりの図書委員が桜庭だったとはね。彩未ったら『どうせひとりでやるから関係ない』って教えてくれないし」
私の友人――明石美鈴はモデルみたいに小さい顔に大きな目で、スタイルもいい。これまで一度も美鈴に劣等感を抱いたことはなかったのに、この時だけは美鈴と並ぶのがどうしようもなく嫌だった。耳鳴りが酷くなった私は返却された本を抱え、楓から逃げるようにしてカウンターを出ていった。
その次の日、美鈴は部活のことで用事があるからと昼ごはんをいっしょに食べた後、急ぎ足で去っていった。時間がなくても私と昼ごはんを食べに来てくれる美鈴の優しさに、汚れた感情を抱いていた昨日の自分を恥じた。とぼとぼと重い足取りで図書室に行くと、また楓が先にいた。昨日と同じ本を読んでいた。私も読んだことがあり、お気に入りのシリーズだった。
「今日はひとりなんだね」
カウンターの前に立った私に、本に目を落としたまま楓が言った。隣に座るのは気まずいので返却本を元の棚に戻そうと箱の中を見るが、一冊もなかった。
「返却手続きした本は棚に戻しておいたから、座ったら」
本から目を離さずに言った楓は教室にいるときと雰囲気が違って、なんだか胸がざわついた。仕方なく隣の椅子に腰かけると楓がぱたんと本を閉じる音がした。図書室には誰もいない。とても静かだった。
「永井さんってさ、明石とはよく話してるよね。永井さんが明石以外の人と話してるの、あんまり見たことないな。明石とは付き合いが長いんだ?」
どうしてそんなことを聞くのだろうか。私の訝しげな目に気づいたのか、楓は頬杖をついて、
「永井さんのことが知りたいから」
と、からりと笑った。
「夏休みの初めにさ、近所でフウ――あ、俺の家で飼ってる犬の名前ね。フウの散歩してたら華里大学で永井さんたちを見かけたんだ。永井さんっていつもひとりでいるから、ちょっと気になって。なんか楽しそうに笑って、はしゃいでたよね」
「ああ……」
それは美鈴の兄が出場したテニスの大会を観に行った日のことだ。美鈴の兄は小さい頃から私を本当の妹のように可愛がってくれて、私も本当の兄のように慕っている。その美鈴の兄が大会で優勝し、帰り道に華里大学のキャンパス内を通って美鈴と喜び合いながら帰宅した。
不意に、さきほど美鈴と交わした会話を思い出した。
『桜庭なら大丈夫だよ。あいつ、ああ見えて結構ろくでもないこと考えてるみたいだから』
ろくでもないことを考えているのに大丈夫とは、どういうことなのだろうか。疑問でしかなかったが、美鈴が自信たっぷりに言うのでとりあえず頷いておいた。明石兄妹が言うことは昔からほとんど当たっている。
私は唇を引き結び、ゆっくりと口を開いた。
「美鈴、とは幼稚園から同じ。……その日は、美鈴のお兄さんの試合の応援に、行ってて」
「へえ、幼稚園からって長いね。だからあんなに仲が良いんだ。明石のお兄さんって確か、テニスがうまいんだよね?明石も強いみたいだけど、すごいな」
「うん、すごいの」
私が相槌を打つと、楓が目を見開いて私の顔をまじまじと見つめた。なんなんだろうか。首を傾げた私に楓は嬉しそうに、
「やっと笑ったね」
と言った。私が笑ったからどうだというのだろう。疑問を深める私に、楓は持っていた本を差し出してきた。
「この本、よく読んでるよね。俺も読んでみようと思ってさ。まだ最初の方しか読んでないけど、けっこう面白いね」
「……それ、シリーズ2だけど」
「えっ?――あ、ほんとだ。気づかなかった」
「その本はシリーズ毎に内容が違うから、1を読まなくても大丈夫だと……何してるの?」
「検索」
楓はパソコンを操作して蔵書検索をしだした。シーズン1のタイトルを打って検索ボタンを押すと〈貸し出し中〉との結果が出た。返ってくるのは来週のようだ。楓はため息をついて肩を落とす。
「なんだ、貸し出し中か」
あまりにもしょんぼりしているので、そんなに読みたいのかと思った私は、家に同じ本があるからもしよければ貸そうかと申しでてみた。
「えっ、いいの?俺、自慢じゃないけど読むのすごく遅いよ?」
「それは別に…何度も読んでるから、少し古くなってて申し訳ないけど……」
「そんなの全然構わないよ。永井さんから借りた方が返却期限とか気にせずにすむし。――ありがとう」
目を細めて笑う楓がとてもきらきらと輝いて見えたのは、非日常的な経験をしたから。ただ、それだけだと思いたかった。他には、何もないんだと。
こうして私たちの何気ない交流は本の貸し借りと図書委員の当番から始まって、それは中学を卒業して高校に入った今も続いている。
楓から告白されたのは中学3年の卒業前で、図書当番最後の日だった。いつものように他愛もない会話をし、昼休憩も終わりに近づいて返却した本を二人で棚に戻していた時、ふと隣にいた楓が呟いた。
「――好きだよ」
聞き間違いかと思って聞き返すと、楓は真剣な顔つきで、
「永井のことが好きなんだ、俺」
今まで気づかなかった?どうして俺が誰も選ぼうとしない図書委員を選びつづけたのか。分からない?永井と二人きりになりたかったからだよ。委員の仕事だったら他のやつらに変に詮索されないだろうし、まあ、そうならないように最初はわざと人気がある委員を選んで永井が図書委員に決まったら変える、っていう手を取ってたんだけど。
矢継ぎ早に告げられる事実にうろたえて、私は首を横に振って後ずさることしかできなかった。
「私、ムシだから……桜庭くんとは、合わない……」
ごめんなさい。震える声で謝罪の言葉を述べて距離を取ろうとした私を、楓は閉じ込めるように両手を棚についてぐいっと顔を近づけてきた。
「周りの言うことはどうでもいいよ。俺は永井しか見てないんだから。――永井、本当は前から気づいてたよね?」
「な、何を……」
「俺が永井を好きだってこと」
全身がかっと熱くなる。私は勢いよく頭を振った。
「し、知らない。そんなの知らない。だって、私なんか不細工だし、可愛げないし、気持ち悪い――っ!」
唇を生暖かいもので塞がれた。かと思えば吸われて、噛まれた。わけが分からない。状況が理解できない。自分が今、何をされているのか。楓に、何を。
腕は楓の胸に押さえ込まれて動かせなかった。僅かに隙間を作ろうと身をよじらせても楓の唇は離れず、なおも私を求めて翻弄する。予鈴のチャイムが鳴り、ようやく解放されて肩で息をしている私の耳元に唇を寄せ、ぞくりとするような低く甘い声で囁いた。
「俺の好きな子を、そんな風に言わないでよ」
濡れた形の良い唇を舌で舐めた楓の瞳は肉食獣のそれを思わせて、私をがんじがらめに捕らえ、決して離すことはなかった。
4時間目の授業が終了したチャイムを聞いて保健室を出た私たちが教室に戻ると、クラスメートたちの視線が集まった。女子から投げかけられる嫉妬の波に飲み込まれそうになった時、廊下から明るい声が投げられた。
「美鈴?」
飴細工のように細い髪を横に束ね、美鈴はからりと笑って手を振ってきた。
「遊びにきちゃった。久し振りに彩未といっしょにお昼したいなって。天気もいいし中庭で食べようよ。――桜庭。彩未借りるけど、いいよね?」
私の隣にいる楓が苦笑いを返す。
「それはもちろんいいけど、中庭のどこで食べるの?」
「どうしてそれを桜庭に教える必要があるのよ」
「今週は俺ら、図書当番なんだ」
「……だから何なの」
面倒臭そうに眉をひそめ、美鈴は鞄から弁当を取り出した私の腕を掴んで引いていた。
「ちゃんと返してくれなきゃ、困るんだよね」
小さな呟きの後、背後から長い腕が2本にょっきと伸びて私の身体を拘束した。楓の体温が背中に広がる。
「か、楓……!」
あたふたする私に構わず、私を抱きしめたまま楓は美鈴と会話を続ける。
「で、どこで食べるの?忠告しておくけど、俺に嘘ついたりしたら困るのは――彩未だからね」
公衆の面前で耳元で囁くのはやめてほしい。顔に熱が集まるのをどうすることもできず、私は楓の腕に顔を埋めるしかなかった。「彩未、そんな可愛いこと俺以外の前でしないで」と聞こえたのは空耳に違いない。きっとそうだ。
美鈴は盛大に大きなため息をついて私たちがいる場所を伝えた。晴れて自由の身となった私の腕を再び引いて教室を出る寸前、美鈴は振り返って言った。
「桜庭……あんた、あいかわらずろくでもないね」
どういうことだろう?美鈴が言ったことの意味が分からない。だが対する楓はにっこりと微笑み、
「それはどうも。行ってらっしゃい、彩未。また後でね」
手をひらひらと振って私を見送った。クラスの皆は、私たちの一部始終に唖然としていた。
中庭のベンチに美鈴と並んで座り、食べ終えた弁当の箱をランチバッグに片づけていると見計らったように楓がやってきた。そのあまりのタイミングの悪さに美鈴が嫌な顔をしたのは言うまでもない。
「ちょっと、もう来たの?雑談くらいさせてくれてもいいじゃない。そんなにせっかちだと彩未に嫌われるよ」
「せっかち?どこが?これでも待ったほうだよ。――彩未、行こうか。おいで」
私のランチバッグを手に歩きだそうとする楓を、私は呼びとめた。
「ん?どうしたの?」
「あの、お手洗いに行きたいから……先に、図書室に行っててくれる?」
「ああ。いいよ、ここで待ってるから行っておいで。急がなくてもいいからね。ゆっくりでいいよ」
含みをもったように聞こえたのは彩未だけではないだろう。美鈴が楓のことをせっかちだと評したのを根に持っているのだ。少しだけ早歩きでトイレに向かった私は、私がいなくなった場でどんな会話が繰り広げられていたのかを、知る由はない。
とことこと早足で歩く彩未の小さな背中が遠ざかっていく。襟足から覗く白い項を目で追いかけていると、
「桜庭……あんた、ほんとに変わってないね」
ベンチに脚を組んで腰かけている明石に一瞥もくれず、俺は彩未の後ろ姿を見つめつづける。曲がり角に入ってしまい、見えなくなった所でようやく俺は明石がいる方に顔を向けた。すると俺の顔を見た明石が人差し指を突きつける。
「それやめてくれない?いかにも嫉妬してます、俺の彩未に近づくな、って顔。言っておくけどね、彩未と私は姉妹みたいなものなんだから桜庭が入る余地はないの。入れるとしたらうちのお兄ちゃんだけなんだから」
ふふんと誇らしげに胸を張る明石に、俺はふざけんなと思った。ただでさえ明石に嫉妬してるのに、明石の兄までつけられたら堪ったもんじゃない。彩未も彩未だ。明石兄妹といるときだけは警戒心ゼロで可愛い顔して甘え放題になって。普段はあんなに素っ気ないのに。まあ、そこも可愛いんだけれど。でも、あの甘さをほんのちょっとでもいいから俺に向けてくれたらと思う。さっき保健室で俺を引き止めてくれた時はやっと甘えてくれるかと期待したが、目を泳がすだけで何も言ってくれなかった。我慢できなくてキスしたら顔を真っ赤にさせて毛布に隠れてしまうし。まあ、可愛かったからいいけど。
「その締りのない顔もやめてよ。やらしいこと考えてたでしょ、今。変態」
「明石は相変わらず容赦ないね」
その歯切れの良さが、彩未と良い化学反応を起こして円満な関係を築けているんだろう。好ましくはあるが、反面憎らしくもある。彩未を巡って明石と冷戦を繰り広げるようになったのは、俺が彩未と最初に図書当番を担当したあの日からだ。彩未が返却された本を棚に戻しに行っている間に、明石は単刀直入に切りだした。
『あんた彩未のこと好きでしょ』
まさか初対面の相手に気づかれるとは思ってもいなかった。「どうしてそう思うの?」と平静を装って俺が尋ねると、
『桜庭、ずっと彩未しか見てないから。さっきもそうだけど、私たちが中庭で昼ごはん食べてるの時々教室の窓から見てるよね。まあ、肝心の彩未は私とのお喋りに楽しくて夢中で全然気づいてないみたいだけど』
残念ね、と意地悪い笑みを浮かべる明石に対し、俺は悠然とした笑みを返した。これは、俺に余裕がないのを見抜かれていると感じていた。第一印象そのままで、明石はなかなか手強い。
お互いに笑顔で睨みあっていると、明石が攻撃をしかけてきた。
「彩未を困らせるようなことだけはしないで。前みたいなことがあってまた彩未を泣かせたりしたら、今度こそ許さないから」
渾身の一撃だ。俺は表情を失くし、拳を握った。
「もう、泣かせないよ。あれは……さすがに、かなり堪えた」
色んな意味で、と心の中で呟く。それを口にしたら確実に明石に殺される。ああ、でも。あのことを思い出すと、今でも苦々しい感情ときりきりした痛みが胸に広がるんだ。
あれは高校1年の冬、彩未の体調が崩れがちになった頃のことだった。
持ち前の頭痛と耳鳴りがすると言って授業を休みがちの彩未を心配し、少々過保護になっていた俺をクラスの女子は面白く思わなかったようで、彩未に直接的に敵意が向けられるようになった。俺の部活が終わるまで図書室で待ってくれていた彩未に、彼女たちはチャンスだと言わんばかりに彩未をいびるようになった。周囲からは仲の良い集団だと思われるように、笑顔で囲みつづける彼女たちに、彩未はただじっと耐えた。あの小さな身体で、ひとりで。俺にはそんな顔ひとつも見せなかった。
彩未の異変に最初に気づいたのは明石だった。明石から冷戦中に忠告を受けた日の放課後、気になって部活を早退し、図書室に駆け込んだ俺が目にしたのは最悪の光景だった。
俺も読んだ、あの本を読んでいる彩未は虚ろな目をしていて、文字など追っていなかった。当たり前だ。ただでさえ人込みが苦手なのに、あんな近距離で他人に囲まれて、無言で責め立てられつづけていたら、読書どころじゃない。
輪の中に割って入った俺に、彼女たちは泡を食ったように取り乱し、醜い笑顔を貼りつけてありもしないことをでっちあげた。図書室なので大きな騒ぎにしたくはなかったけれど、既にぶち切れていた俺は彼女たちに暴言を吐いた。どうなろうが知ったこっちゃなかった。俺の豹変ぶりに泣きだしてしまった女子に周囲が騒然とし、それでも気が済まなかった俺が再び口を開いた瞬間、それまで静かだった彩未に横っ面を引っぱたかれた。自分の頬に走った痛みよりも衝撃的だったのは、唇をわなわなさせ、泣きそうに瞳を潤ませた彩未だった。くるりと踵を返して走っていってしまった彩未の背中を茫然と眺めていた俺ははっと我に返り、彩未の鞄と荷物を持って、まだ泣いている女子には目もくれずに走りだした。
彩未を見つけるのに、それほど時間はかからなかった。なぜなら明石が彩未の携帯から〈保健室で待つ、明石〉という果たし状のような文面のメールを送ってきたからだ。勘の鋭い養護教諭が気を利かせて部屋を空けた保健室で俺を迎えていたのは、頭に鬼の角を生やした明石だった。テニス部の練習は休みだったようで、担任から雑用を頼まれていて学校に残っていたらしい。雑用を終えて帰ろうとしていたところを彩未からメールで助けを求められ、合流して保健室に連れてきたのだと話した。
こってり叱られるかと思ったが、予想に反して明石はすんなり、俺が彩未のいる仮眠室に入ることを許してくれた。まあ、色々愚痴は零されたが。
明石が保健室を去り、仮眠室に近づくと鼻をすする音と嗚咽を漏らす声が聞こえてきた。あの彩未が泣いてる。感情表現が苦手な彩未が。初めてのことに頭が真っ白になった俺は仮眠室のドアを荒々しく開け、ベッドの毛布の塊に駆け寄った。ベッドの端に腰かけると振動を感じたのか、頭から毛布を被った彩未が微かに身じろいだ。
「彩未、ごめん。もっと早く気づいてあげればよかった。俺の所為でずっと嫌な思いさせて、本当にごめん」
ごめんを何度繰り返したことだろう。その度に彩未が首を横に振るから、まだ許してくれていないんだと俺は思った。ごめんがゲシュタルト崩壊を起こしかけるくらい言い続けていると、彩未の震える声が届いた。
「ちがう、桜庭くんが悪いんじゃ、ない。私が、こんなだから。桜庭くんは何も、悪くないのに、私のせいで、あんな、こと、させてしまって……」
ごめんなさい、と彩未は泣きながら謝った。心臓が、ぎゅっと締めつけられた。俺は何をやっているんだと罵りたくなった。殴りたかった。でも、今はそれよりもまずしなければならないことがあった。俺は毛布に手をかけた。拒否されるかもという不安を掻き消すように、あっけなく毛布は取りのけられた。俯いている彩未の顎に手をかけてそっと上げさせる。擦ったのか真っ赤になった目元が痛々しかった。ぽろぽろ零れる涙を指先で拭うと、彩未の華奢な肩が小さく震えた。こんなに傷つけた自分が憎い。
「違う。彩未のせいじゃないんだ。彩未は何も悪くない。俺がいけなかったんだ。明石にも怒られたよ。“もっとしっかりして”、“そんなんじゃ彩未を任せておけないから”って。彩未、ちゃんと守ってあげられなくて、ごめん」
彩未の頬を撫で、前髪をかきあげて額に軽くキスをし、小鹿みたいに震える体を抱きしめた。俺の鼓動がどくんと跳ねる。自分の背中におずおずと回された彩未の腕の感触に目を見張ったのも束の間、次に起こったことが俺をより混乱させた。
「かえ、で」
途切れ途切れに紡がれた音ははっきりと俺の耳に滑りこみ、俺から言葉を失うのに十分だった。けれども彩未はそれだけでは足りないと言わんばかりに、細い指で俺の制服のシャツを掴み、身体を更に密着させた。
「あみ――」
「……好き」
「え?」
「楓が、好き。大好き、だから」
もうあんなこと、しないで。
それから何分もかけて俺が返した言葉は、「ごめん」ではなかった。
昼休みも終盤に近づき、生徒もまばらの図書室のカウンター席で私と楓は隣り合って座っている。楓は私から借りた本を読んで、私は図書室で借りた本を読む。中学2年から高校2年になった今まで続いている、いつもの風景だ。
「あと少しの辛抱だよ」
唐突に楓が言ったことの意味を判断しかねて本から意識を外すと、楓と目が合った。楓は、穏やかな笑みを浮かべていた。
「俺が彩未にしか興味がないってこと、皆が分かってくれるまで。俺の溺愛ぶりを目の当たりにしたら効果あるかなと思ってたけど、もっと早くからやっとけば良かったね。今まで辛い思いさせて、ごめん」
そういうことか。納得した私は首を横に振り、口元を緩ませた。
「もう、謝らないで。楓を好きになったこと、後悔なんかしてないから」
ありがとう。
心をこめて感謝した私に楓は目を大きくして、そして少年のようにあどけない笑みを整った顔に咲かせた。ふわりとシトラスの香りが濃くなったと感じた瞬間、唇に柔らかなものが押し当てられた。すぐに離れたそれは綺麗な弧を描き、私に甘美な囁きをもたらした。他の生徒から見えないように衝立代わりにしていた私の本を再び開き、読書を再開させる楓の横顔に、唇に、つい目が行ってしまう。
もういっかい。そう呟いて楓を動転させ、珍しく頬を朱に染めているのを指摘した私に仕返しと言わんばかりにとびきり甘い罰が下された後、あれほど治まらなかった頭痛と耳鳴りは、すっかり消えていた。
fin.
【Medizin der Liebe:ドイツ語/愛の薬:日本語】
ありがとうございました。