残響
ピアノを売る、と父から連絡があったのは先週の事だ。
保育士をしていた母はピアノに堪能で、様々な曲を弾きこなした。私も妹も母のピアノを聴いて幼い日々を過ごした。
けれどその母が死んだ後、私たち家族がそれに触れる事は殆どなかった。
そこにある母の思い出が強過ぎたのだ。
ピアノの音色は母の記憶と直結していたから、誰かが弾けば皆が思い出してしまう。掃除をし手入れをし時には調律を頼みながらも、誰もそれを奏でる事はなかった。
そんなふうに思い出のあるものではあったけれど、私が家を出、妹も一人暮らしを始める段になって、とうとう父が売却を決めたのだという。
感傷になるけれど、最後に見ておきたかった。
仕事の空く週末を待って私は実家を訪れた。
折悪しく家には誰もいなかったが、鍵はまだ持っていた。勝手知ったる自分の家で上がり込んで、ピアノ部屋に足を運ぶ。
相変わらず、よく手入れされていた。
蓋を持ち上げ、鍵盤に触れた。
母はエリック・サティが好きだった。中でもジムノペディがとりわけで、毎日のように弾いていた。私と妹はこの曲を「お母さんの曲」と呼んでいたし、今でもこれを耳にすると、ピアノの前の母の姿がふと浮かぶ。
でも残念ながら、私の指は動かない。
昔は諳んじてたいたはずの譜面も、もう記憶の靄の中だった。
嘆息して鍵盤を閉じる。椅子を戻して、ごろりとカーペットに寝転がった。幸い行儀の悪さを咎める人間はいない。
土日を空けるのに少し無理をしたから、その疲れもあったのだろう。いつの間にか私はうとうととしていた。
そして夢の中で微かに、ピアノの響きを聞いた。
玄関の音で目が覚めた。身を起こして時計を見ると、時間はさほど過ぎていない。
ただいま、とピアノ部屋に顔を出したのは、四月にこの家を出る妹だった。
「弾いてたでしょ、お母さんの曲」
開口一番、そう言われた。
「家の前から聞こえてたよ。だからお姉ちゃんが来てるってわかった」
目をやると、確かに閉めたはずの鍵盤蓋が開いていた。椅子も演奏の位置に引き出されている。
母が弾いていったのだと思った。




